11/07/2015

My peopleを知る

ざわめいたダイニングを逃れリラクスしたムードのキッチンに戻ってまったりしていると、オフィスマネジャーがやってきた。

「あなたたちは今まで一番のハーモニアスなグループだったわ」

そうちょっと目を大きくしてそう何度もうなづいた彼女に我々もにこやかに笑う。本当にそうだ。この12日間のキッチンのボランティアワークは毎日が本当に楽しくて、このままずっと続けていたい気さえした。




Day 0とDay 1に外部に住むキッチンのスーパーバイザーがやってきていたが、オリエンテーションの後は役割を任せられた我々だけでマニュアルに従って日々の作業をこなしていった。そのよく出来上がったシステムとマニュアルの分かりやすさで、いきなり集まったボランティアたちで毎日素晴らしい食事を生徒たちに提供することができたのに感心させられた。

キッチンマネジャーになったのはボーイッシュで可愛いレズビアンの女性。一番若いのは23歳のスイスからやってきた192cmののっぽな男子。彼は一緒に旅行していた同じくのっぽなオレゴン青年と参加した。多分に40歳くらいの白人男性は元外交官でスペイン語堪能。4ヶ月前に NYからベイエリアに引っ越してきた。私より年上の白人女性は著名な航空会社のパイロットだった。人生初めて出会った女性の航空機長というのは世界でも3%に満たないらしい。彼女は海上汚染で被害に遭っている動物を救うボランティアに通じていた。若いベトナム系アメリカ人の女性は政府関係の仕事についていたのに、その世界に嫌気がさし、今は放浪の身となっている。ラテン系女子もやはり最近ベイエリアに移り住んできたアーティスト。誰もが2週間近くの時間を自由に使うことができる自由型ライフスタイルの人々だった。最初と最後の4日間だけパートタイムでやってきたボランティアがいて、その身元までは知らなかったけれど、彼らは今までに20回以上も10日間コース参加を果たしていたツワモノだった。それなのに決して知ったかぶりも上からの物言いもなく、ごく普通で謙虚であるとさえ思わされる存在だった。

スイス人の青年は人々に「これを英語でどういうのか」ということをいちいち尋ねていて、そのあっけらかんとした性格がキッチンに笑いを生み出していた。彼の存在は、外国人である私の気持ちをとても楽にしてくれた。セミナーなどに参加しても、たった一人の外国人でいたりすることや英語の勘違いで違和感や緊張感を覚えてたりしてきたけれど、今回は今までになく自分がグループの一人として属している心地よさを感じていた。

『日本人+ダンサー+離婚したての自由人』というのが、彼らから見た私のアイデンティティーだ。毎日80人分のご飯を炊くこと、ダイニングホールモニターとして常に生徒たちの食べ物に不足がないかをチェックするの係りを任された。他の仲間たちと違ってちょっと色味のある服を身につけている私は「日本人ぽい格好だよね」と嫌味ではなく告げられ、足早でホールとキッチンを行き来する私をからかって、ボーイッシュなレズビアンのキッチンマネジャーが「キャットウォーカー(モデル歩き)」と名付けた。

ちょっと面食らった事柄としては、キッチンでヘアバンドですっぽりと髪を隠していたすっぴんの私を見て『怖そうななおばさん』と印象を持った、と若いオレゴン青年が最後の二日くらいのときに打ち明けてきたこと。

「人って知ってみないとわからないよね。君がこんなにスィートだなんて思えなかった。髪を下ろすと素敵だよね」

そう露骨に言った彼の言葉に若さを感じたが、シャイなのだろうと思っていた口数少ない青年が、後半は私の周りを笑顔でちょろちょろして、挙句には「スィートマンマ」と呼んできたのには可愛いと思わされた。




グループの中で気後れする傾向のある私が、ここまで心地よさを得ていたことに一種の驚きを覚えていた。「これがMy peopleなのだ。この感覚の人々こそ私が属する仲間なのだ」という再確認さえしたように思える。それがこの場の人々のせいなのか、それとも自分がどんどんまろやかな精神状態に変化してきたゆえの結果なのかはわからない。ただ思うのは、ある時期から私が出会う人々に波長の違和感を覚える人が少なくなっているということ。多分に自分の生き方の選択の故ではあるけれど、毎日瞑想をするたびに、幸福感にみちた現在に満足する自身と遭遇していた。

誰かの発言や行為で反発が生まれるようなことは起きなかったが、そういうことはよくあり得ることらしく、この期間に鬱っぽくなったりするサーバーが相談にくるのは普通なのだと、夜のミーティングでそうアシスタントティーチャーが告げていた。毎晩、生徒たちの最後の瞑想が終わった9時に、サーバーたちの反省会を含む『メッタ』と呼ばれる瞑想がある。1日を振り返り、自分がもしかして傷つけてしまったかもしれない相手に許しを請い、自分が傷つけられた相手を許し、すべての人々の幸せを願うという瞑想だ。それをしても、毎回特に何も思い浮かばなかった。そして、その後にAT(アシスタントティーチャー)に1日の報告をするのだけれど、マネジャーはいつも問題なくスムースなオペレーションを報告するのみだった。それが自分たちにとっても誇らしくいつも私たちには笑顔があった。

事実最初の二日ほどでそれぞれが己のしたいこと、向いたことの作業に取り掛かり、自然に各自の仕事が落ち着いた。流れは穏やかでスムースで誰もが作業を楽しみ、軽い会話もあり、お互いを助け労わり感謝する言葉が添えられていた理想的な就労環境だった。だからと言って、宗教色強い不気味にいい人という雰囲気ではなく、誰もが自分を持っていて、ポジティヴに自由に生きているかの雰囲気を持っていた。深いところの闇はわからない。でも、少なくとも協調性のある『和』を大切にできる素質を持つ自立した精神を持った人の集まりで、そこにはナショナリティや年齢を超えた一体感があった。正直、この経験により『コミュニティライフ』に私の関心が大きく傾き始めた。
「以前の経験ではコントロールフリークなサーバーもいたことがあったよ。それで場が緊張したりしてね」

帰り道を相乗りさせてサンフランシスコまで送り届けたベトナム系アメリカ人の女性が車中でそう語っていた。タイミング的にも多分に私はラッキーなのだと思う。




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