6/28/2014

2度目のシャスタ山


そろそろ日本で訪れたパワースポットでの刺激が薄れてきた頃、クレイビングを感じていたらシャスタ山を訪れる機会が落ちて来た。なので先週末に3泊4日で去年の夏に引き続き2度目のシャスタにでかけた。

家から6時間のドライブは長く、一日は移動で費やされてしまう。昼に出て夕方に到着し、宿泊先にチェックインして休憩、夕食に出かけてみれば、もう5時には店が閉まってしまうのでデッドタウンのように閑散としているダウンタウン。面白そうな店を閉じたドアから恨めしそうに覗きながら歩いていたら、なんと8時まで開いているクリスタルショップを発見。Sacred Seed Crystalsのオーナーはクールなお兄さんで、ここには他のお店で見ないような珍種も沢山揃っていたので驚かされた。予定していたクリスタルのショッピングを初日にできて大変に満足した私だった。




さて、翌朝快晴のシャスタはなんと雲の輪っかを被っていましたよ!素敵過ぎる~。


去年はCastle lake止まりだったけれど、今年は更にハイキングをしてHeart Lakeまで足を伸ばした。トレイルの表示がないので迷ってしまい山を下りてしまいそうになり引き返したけれど、途中で積み石を発見、これは『Cairn』と呼ぶもので、先人が後から来る人の為に目印を残すためだそうだ。Heart Lakeは本当にハートの形をした小さな湖で大変に穏やかで可愛らしいバイブに満ちている。ここで一時間ほど瞑想。最初の浄化を果たして気分が良くなった。周りでは沢山の綺麗な青いトンボが交尾していて微笑ましかった。

迷ったときの頼りの目印の積み石
静かなハートレイク












夕方からはStewart Mineral Springsで毎週土曜日のみに行なわれるSweat Lodgeにでかけた。去年曜日が合わずに逃していたので、これが今回のメインの目的となる。

途中Mt.Shasta City Parkに寄り、恒例の50年前の雪解け水という湧き水を採取する。相変わらず大きなボトルを持った人々が群がっていたけれど、今回はハープを奏でるおじさんがいた。




Sweat Lodgeの前では、午後からネイティヴアメリカンの人たちが沢山の石を積み重ねたかまどに火をくべ、太鼓を叩き唄うリチュアルが続く。そして6時になると背の低いドームのドアが開き、参加者が次々と中に入って行く。靴を脱ぎ、タオルだけで水は持って入れない。膝を抱えるようにしてきつきつにテントの中に座って行く。壁際の外輪だけで30人程、そして更に内輪に人が10人程座る。男達が次々と大きなフォークでかまどの焼けた石をテントの中央に置いて行く。メディスンマンの説教と太鼓と唄が始まり、メディスンウーマンが焼けた石の上に何種類かのハーブを散らし、水をかけると沸騰した蒸気がテント内を満たす。ドアが閉じられるとそこは真っ暗になり、目を開けても閉じてもその闇に変りはない。メディスンマンの語りを聴いているうちにすでに涙が汗のように流れ落ちる。感情はないのに何故か涙が出た。そして、メディスンマンのドラムに合わせて手を叩き一緒に唄う。叩いた手から熱い汗が散り、自身の顔に飛んでくる。闇の中で誰かのすすり泣きも聞こえてくる。浄化が始まった。

多分に15分くらい毎にドアが開き、人の出入りがあり、更なる焼け石が追加される。同行者は最初の15分でギブアップしたけれど、私は4サイクルくらい居たかもしれない。最初はきつきつだったそれも、人が抜けて行くことでスペースに余裕ができてきて、居心地は少しずつ楽になる。それでもその辺のサウナよりもかなり熱いので、頑張りすぎて倒れてもいけないから、勇気をもって途中で辞めることにした。この後はしばし放心。でも経験できて嬉しかった。特に料金というのはないけれど、一人$35程の寄付を求められる。




去年初めてシャスタ山を訪れた時に、まるでピラミッド?と思わされる不思議な山が気になって仕方がなかった。密かにそこはきっとUFOの秘密基地に違いないと妄想にふけって興奮していたけれど、今回なんとその山を登山することになった。初日に訪れたクリスタルショップのお兄ちゃんと話しているうちにその話題になり、トレイルへの行き方を教えてもらえたのだった。まったく予定外の行動。

ピラミッドの形をしたその山には『Black Butte』という名がある。標高約2000mで2時間半もあれば頂上にたどり着ける。ただ、本当に岩肌を登って行くし、所によって大きな岩を越えたりするので普通のトレイル用のシューズでは辛かった。登山靴が欲しいなと思わされた経験だった。

去年の経験からアウトドアの興味が膨らみ、秋のセールでバックパックから伸びるチューブから水を補給出来る『キャメルバッグ』と山ガールに必需の『トレッキングポール』を購入していた。それを初めて使い、本当に便利モノだと感心。同行者や私の友人はトレッキングポールは邪魔だというけど、私はそうとは感じられなかった。リズミカルに運ぶポールで4本足動物の気持ちを実感した。ポール使いで体重が分散され、上腕にかなり移動した分膝に優しくなり疲労度がまるで違っていた。こう配の激しい山肌をただひたすら登る。最初に見えたピークは小さい方で、更にその先があると知ってがっかり。頂上まで後少しと思う所からはかなり先が長く感じた。これ、今月のブートキャンプやってなかったら、途中でへたってたよね。

見つけにくいトレイルを目指してひたすら走る
山はかなりのこう配

頂上かと思ったら、低い方のピークでした







登山をしながらシャスタのエナジーを感じる














頂上は本当にとんがり状態で人が立てるスペースは小さい。写真撮影の為にどうにか立ち上がったものの、見下ろせば直ぐ横は崖なので膝が抜けた。視界は360°の空間。滅多にない体験。登山をする人の気持ちを充分に理解した。岩山なので日陰がほとんどなく、炎天下の中を直ぐに引き戻したけれど、帰り道の方が難しかった。3分の1ほど降りた所で股関節が痛みだし、ペースが落ちた。

気分は爽快。でも眼下は崖で怖い。

どうにか頑張って汗だくでトレイルの入り口まで戻って来た時には、ちょうど5時間が経過していた。頑張った自分をとても誇らしく思えた。「苦労して登って降りてそれがなんやねん」と昔は思っていたけれど、「そこに山があるからだ」という言葉に納得する。やっぱりこれで得られる『達成感』は何事にも代え難い




シャスタと言ったら周りに沢山ある滝が見物。去年はBurney fallを目指し、今年はMcCloud fallを目指すことにした。下流のプールに登山の汗ででろでろになった身体を浸す、がその冷たさに雄叫び。














去年はMr.Shasta Resort一泊にLake Brittenの北側で二泊キャンプしたけれど、今年はMr.Shasta Resort 二泊に、お初で一泊『The McCloud River Mercantile Hotel』にトライしてみた。なんとなくの思いつきの割には、それはとてもチャーミングな古いインテリアで感動した。私たちが停まったのは『The Arts and Crafts Suite』。入って直ぐその広いハードウッドフロアの部屋に驚かされた。そのままタンゴ踊れちゃうよ?って。バスルームの広さもダンスできるくらい。猫足の古いバスタブがとてもロマンチックで、ベッドも最高の寝心地だった。間違いなく5星あげちゃう。

猫足のバスタブに感動。タイルもお洒落




最終日は、去年友人から教えてもらった川岸の秘密の湧き温泉を再度目指した。なんとなくの記憶を辿って出かけてみたのに、ちゃんとその場に辿り着けた。去年は裸天国だったけれど、今年は先客がいたので水着姿で。それも途中からは完全なプライベートになる。湧き出る温泉は少量だけれどとても熱い。時間が経つと湯がだんだんと熱くなって来るので、川の水をバケツで汲み入れてたら、ふと気づくと稚魚が混ざっていたので焦る。折角の命、うっかり茹で殺してしまったら可哀想だよね。

まるで鏡のような穏やかな流れの川の水面
見よ、このクリアな湧き水を!
後方が秘密の抜け道












と、そんな感じのシャスタ旅行だった。リフレッシュできて大満足。登山の疲れは後でかなりきていたけれど。




おまけ:シャスタシティで美味しいご飯にありつくというのは難しい。Mt.Shasta Resortのレストランは高いし味もイマイチ。市内にあるタイレストランはどうにかいけたけれど、メキシカンレストランは大外れ。そんな中、意外にも最高の味のレストランを発見。朝食が美味しかったのでディナーもトライしたら、サンフランシスコ市内のグルメレストランに負けない味で感動した。次回は迷わず『Lilys』で食事をし続けることにしよう。 




6/20/2014

シンクロが続くとき


その人のことを考えていたら、久々にぽろりとメールが来たということがよくあるけれど、意外とシンクロニシティは日常茶飯事に起きているのだと思う。ただ、自身にそれを察する意識があるかどうかということだけで。

最近とみにそれが起こっているのを感じている。シンクロニシティが起きると「あぁ、全ては繋がっているんだな」とか「全ては同時に起きてるってこんな感じかな」と再度バシャール的な思想になる。以前はたまに感じるそれに気づくと、「一体これにどんな意味があるのだろう?」とか「これはきっと運命の出会いに違いない!」とかのめり込んだりしたものだけれど、今現在の私はふ~んと面白がる気持ちはあっても、それを運命づけたりしない。過去も未来も関係なく、ただ、『今それが起きている』という冷静な観察のひとつでしかなくなった。




婚活をしている友人がオンラインデーティングサイトに登録したけれど、もう数日で疲れたという報告をしてきた。期限つきだし、お金もかけて投資しているからという理由で真剣に向き合っているのかもしれないけれど、ひとつひとつのやりとりにエネルギーを費やすタイプの人には向いていないと思う。とりあえず、彼女のリクエストもあって、この先私がオンラインデーティングサイトの気づいたことなどを別記事で書いていくことになるかもしれないけれど、これにもしっかりとした『流れ』を感じる。よく書いてるけれど、美味しい男が落ちて来るのは順繰りではない。とととっと、まるでタガが外れるように一度に降ってくる感じだ。そしてオポチュニティが枯れるとまったくとして動きがなくなる。




最近、オンラインデートのサイトを通してとても良いデートをふたつした。

両方とも普通私がスルーする橋向うの東岸に住む男性だった。でも、そのアプローチの仕方にとてつもない紳士的で無視できないものを感じ、つきあう対象ではないけれど是非会ってみて一度か二度のデートだけを楽しんでみたいという欲求が募り、少々のメッセージのやりとりをした。

長いメールのやりとりをしたり、電話で話してから、コーヒーを飲むだけのちょっとのデートをしてみてから、とかぐだぐだする男はそれだけで嫌なので、直球で『会おう』という意思にすかっと乗ってくるだけの度胸のある男が私の最低条件なのかもしれない。

50歳のその彼は、まるぞりで背が高くそれなりにお洒落で、そのままゲイの街キャスロトストリートにでかけたらとてもナイスにブレンドインする感じに見受けられた。性格はとても温和で思慮深く包容力があり、二人の子供に付き添って育て上げた自信に満ちあふれていた。「君の家の近くで食事をしましょう」というアプローチが特に気にいった。私にとってちょっと受け身過ぎる物足りなさも感じたのだけれど、色気のある店で焼き鳥を食べながらあっと言う間に4時間のおしゃべりが過ぎた。クルマまで送るよ、という彼と一緒に外に出て歩き始めた。

「あなたのクルマ、どこに停めたの?」
「あぁ、これ、これが僕のクルマ」

そう、ほぼ通り過ぎるその真っ白でぴかぴかに輝く高級車に馴染みがない感じがしたので、「何のブランド?」って尋ねたら「ジャガー」とさらりと彼が応えた。決してお金持ちをひけらかす感じの人の印象がなかったので、感心した。ちなみに、私の住むコミュニティにはそれなりの高収入の人々が住んではいるけれど、メルセデスだったり、アウディだったり、ポルシェだったり、BMWだったり、そして堅実にレクサスやプリウス、MINIだったりして、ジャガーというテイストを持った人がいない。だからかなり珍しい感じがしたのだ。

私の目の前にジャガーに乗った男が落ちて来た。そう思った時に、数年前のオートショーの自身を鮮明に思い出した。他のどのクルマにも興味をそそられることのなかった私が、たった一台だけ中に座ってみてその雰囲気を感じてみたいと思い、そうしたのがジャガーだった。もちろん、それを購入して乗り回すことができるような身ではないのは承知だっし特に憧れている訳でもない。ただその頃『引き寄せの法則』を実践していたから、身の程知らずなんて思わずにクルマの中でその波動を楽しんでいた。だから、こういうことが起きると途端に嬉しくなる。バシャール曰く「偶然なんてないんですよ」だからだ。




もうひとりの彼は、私の選択範囲からかけ離れた66歳で、やはり東岸に住んでいる頻繁に会うことはないだろうと思われる地理的条件の人だった。しかし、彼のアプローチに自信と余裕、そしていくぶんかのセクシーさも感じられたので、とてもそそられた。会ってもいない男をダンカンダンスのパフォーマンスに招待したら、彼は喜んでショーを観に来ていた。自分も自転車野郎でツアーで若い人に頑張って付いて行っているので、私が30代のダンサーたちと一緒のリハーサルに付いて行く辛さを充分に理解してくれていた。観客席にいる彼の笑顔が眩しく光っていたのを発見した。その日はほんの一瞬の挨拶で彼は姿を消したけれど、それだけでも充分に好印象が残った。なのでアーティストでもある彼のスタジオを見たいとリクエストして、日を改めて他の用事も済ますついでに橋向うに出向いた私だった。

彼がどんなクルマに乗っているかを気にするのは、きっと私がバブル世代だからだと思う。自分がクルマで乗り付けたら、私がそのままMINIを運転してレストランに出向くことになるかもと思い、珍しく電車で出かけてみた。案の定、駅まで迎えに来てくれると言った男だったけれど、クルマは恐ろしく汚くてかなり驚いた。車種をチェックしたらトヨタのハイブリッドなので、いかにもその街に住む人特有のエコの姿勢を感じ取った。クルマの後部座席が倒されていて竹が数本置いてあり、ガーデニングのプロジェクトの途中なのだと悟った。66歳、初めての女を迎えに行くにも、あくまでも『普段の自分』を崩さぬ頑固さか。

「さぁて、我々はお互いを全く知らない」

そう話を切り出す男の言葉に私が大笑いすると、「少なくとも君は良い笑い声をしてるということを今学んだわけだ」と男が返した。私は『自身を取り繕う』こともできたけれど、彼の元では一瞬にして『地の私』だった。

彼の家は1951年に立てられた小さな作りのチャーミングな家だった。その家の前のガーデンからいきなり見たこともないような珍しいサボテンが溢れていたので感心した。家の横の入り口には大きな芸術的で可愛い鉄のゲートがあり、そこから中に入ると甘い香りに包まれた。キウイの樹が花を咲かせていた。庭に顔が掘ってある大きな石があり、それで私が昔彫刻のクラスをとっていて石を彫っていた一年間のことを話した。

ガーデンから家の中に入ると小さなキッチンだったけれど、白いカウンターに赤いセラミックのシンクを見て可愛いと思った。目の前の窓辺に赤いおちょこが4つ程並んでいて、そこに薔薇の花が座っていた。お茶を入れてくれるという彼が取り出した白いマグカップは、私が毎日使っているそれと同じものだし、キャビネットには私が飲むブランドのハーブティーが収まっていた。ダイニングテーブルには沢山のアート本が積み上げられ、そこにサンフランシスコバレエのカレンダーを見た。私は誕生日に観たサンフランシスコバレエ公演の話をした。恐ろしく人なつこい猫が居た。ソファに少し離れて横向きで向き合うように話していたら、猫が私の置いた腕の上でくつろいだ。

フランス語もしゃべるらしいし、どこか中東の人?とか思いながら彼のバックグラウンドを尋ねたら、NYはブルックリン生まれのユダヤ人だと知って「あぁ…」と思った。メールを交換しているときから、夫と重なるところをしっかりと感じ取っていた私だったのだ。「またかいな」という半分呆れた感覚も得た。ハーバードで法律を勉強している最中に自分の人生が決まってしまったことに絶望して、ロイヤーを6年で辞めてしまい、映像関係の学校に行き直した。だから『黒澤作品』を通して日本の知識を得ている。とにかく彼と一緒に居て居心地が良かった。最近の私の身に起きたことは正直に話せた。話している最中に「なんて高尚で深い言葉なんだ!」と彼が唸ったときが2度あった。それは「幸せの青い鳥は実家に居た」という話題と「サレンダーでいることに凄く興奮する」と私が話したときだった。

確かに爺なんだけれど、彼にはどことない色気があった。リビングのコーヒーテーブルに『レナード・コーエン』の本があった。音楽を殆ど聴かない私がマドンナと並んで良く聴くアーティストで、彼の修行僧になった事実とかにも憧れている。マントルピースの上にはメキシコはオアハカで作られるヒメネスのヘタウマアートのアニマルオブジェがあった。私もメキシコでそれを購入して家のキッチンに飾っている。彼のそれも私もそれと同様、耳と角が壊れて取れていた。

おしゃべりに夢中になっているうちに、友人が努める日本レストランの予約の時間が近づいていたので、彼のスタジオを見学しないまま慌てて家を出ることになってしまった。そのくらい、彼は自分の作品を見せることなど気にしていないようだった。ガーデニングのおっさん臭いフリースのベストの下はコットンの白シャツとジーンズだったけれど、それを脱いだ彼が壁から取ったヴィンテージものの茶色の革ジャンを見て、私は一瞬くらぁっと目眩を感じた。それは私が30代の終わりに苦しいくらいに惚れたフランス人のマッサージセラピストが愛用していたそれそのものだったから。ここでさすがに『不思議な繋がり』を意識した。

友人が努める日本レストランに落ち着き「どぉれ」と言って二人が老眼鏡を取り出してメニューを覗いたときに、熟年カップルのデートなんだなぁと思わされた。彼は私の選ぶ珍しいメニュー全部を口にし、ひとつひとつに感動してくれた。話は尽きず「あ、それ、俺、論争できるぞ」と言いながら、お互いの意見を言い合った。ロマンチックとは言い難いけど、私の好きな殿方のタイプだった。




二人とも素敵だったけれど、彼らは決して追い掛けてはこない。若い男たちと違ってがつがつしてないし、いろんな人とたまにデートできたらいいかなくらいのノリのような感じもする。婚活をしてるから時間の無駄にしたくないと考える人にはフェアでいたいと思うので、私も自分の境遇を正直に話しておいたから続かなくても当然だし、先がなくていいとも思っている。まだ離婚もしてないことだし。でも、このデートの後は数日ほわんとしていた。友人に報告をしながら、66歳の男の写真を見せたら「お宅の旦那さんそっくりじゃない」と言われた。

このふたつのデートで自分が引き寄せる男の質が凄く上がったなぁ、ということを実感した。もっともその昔の私はドレッドヘア風のアーティストを気取っていたし『引き寄せの法則』に気づいていなかったから、『ゲテモノや超貧乏男マグネット』になっていた感じはある。2000年のその頃、『ゆうきれいら』というプロフィール名でちょっとダークなSFナイトライフの話を書いていた。飲めないお酒と煙草、ハウスミュージックをBGMにSex and the Cityのノリのような女子友の繋がりがあった。あの頃、みんな一生懸命恋愛していた

と、昔をほんのり思い出す。

私は確実に進化している。



6/17/2014

増える髪の毛、若返る肌


剛毛の髪もっさりさせているセミロングの中年女性を目にして、密かに羨望の視線を送っていたときがある。過去ブログ記事で調べてみたら、ちょうど一年前くらいの今頃には500円ハゲができていて、それを隠す為にやむを得ずひっつめポニーテールにしていた。その頃の髪の量はその昔に比べたら遥かに少なく、きっといつかはエクステンションでもつけて誤摩化すようになるのかも、と哀しくも日本のそれを検索していた時期もあった。

Hair ReViveというサプリをとって(ボトル二つで終了)、3ヶ月ほどでハゲはすっかり埋まり、それ以降は安心してまたセミロングを楽しむようになったけれど、この日本帰国の間にいきなり髪が増えた実感を得た。その頃はまだ「気のせい?」と半信半疑だったけれど、こちらに戻って来て、ゲイのKちゃんとランチをしていたら「お姐さん、髪増えた?なんだかお菊人形みたいに盛り上がってるわよ」と告げて来るので、見た目にも解るほど増えているのだと納得した。

『髪が増えた理由』をあれこれと考えてみるけれど、可能性は3つほどある。

1. ホルモンピル
帰国直前に抗鬱剤と共に低容量のホルモンピルを処方された。これは2ヶ月間だけで現在は摂取していない。そして、これを止めたことで顕著に来る身体の変化の実感はない。

2. プラセンタのサプリメント
日本のドラッグストアに行くと、アメリカではお見えする事のないプラセンタのサプリメントが凄く多いので興味をそそられた。以前「プラセンタで髪の量が増えた」ということを読者さんから聞いたことがあるので3月からずっと飲み続けている。

これも髪のトラブルの記事を書いたときに読者の方から紹介されて、日本に帰国した友人に頼んで買って来てもらったもの。値段が凄いなと思ったけれど、このエッセンシャルオイルの香りが凄くて、これでマッサージをすると本当に効果があるように思えた。




ライオンの雄が胸元までふささにたてがみを持ってたらそりゃ得意だろうし自信も湧く。そして同様に老いて萎んだたてがみになったら、トップの座を退きたくなるくらいに士気を失うことだろう。そのくらい、髪の美しさは自信に繋がる。若いうちはその艶やかな髪のありがたさなんて気づかないからカラーリングがんがんしてばりばりに痛めてしまったりするけれど、失って解るなんとかってもの。もしかしたら、髪が増えたというよりも『髪の毛が太くなった」と表現した方が的確かもしれないとも思う。とにかく束ねてみたときの手で感じるその量の違いが嬉しい。個人的にはプラセンタとShigetaのヘアオイルの相乗効果ではないかと思うけれど、専門家の判断が必要なところ。とりあえず、元気のない髪でお悩みの方にトライして頂いてその効果をご自身で判断頂きたい。

なにはともあれ『ストレス』が髪を失う一番の原因らしいから、ストレス解消が一番なのだとは思うのだけれどね。




去年の今頃は『どすこい』の身体だった。油断していたら直ぐ太るので、定期的に過激なデトックスをして理想的体型を保って来ていたけれど、この冬の不調で激やせしてから意識的に『食べる』ようにしている。50も過ぎて激やせなんてするものではない。細くなるのではなく『皮が余って弛んでしまう』から目も当てられない状態になる。流行の洋服は格好良くお洒落にキメられるのかもしれないけれど、裸のセクシーさでいったら多分に『痛い身体』で、『私の中の親父』からNGがでた。ある程度の脂肪は健康的なに生きるのに必用だし、大体にしてもっとセクシーだ。最近頑張って2kg太ってやっと眺めて安心できる身体に戻った。

日本で母親の作ったバランスの良い食事で健康を取り戻したけれど、アメリカに戻って直ぐに気づいたのが『肌の乾燥』だった。私ひとりの食事で偏食になったせいか体重が減り(時差ぼけとダンスリハでお疲れのせいもあったけれど)、急激な空気の変化に付いて行けなかったのか、それが顔に貧相という形で現れがっかりした。萎んだ歳を感じる肌を意識したし、やっぱり顔に肉があったほうが健康的に若々しく見える。そんなとき、友人宅に遊びに行った時に教えてもらったヒアロルン酸のサプリメント。アトピー持ちの彼女が服用して数日で既に肌の実感を得ていると教えてくれた。そのまま家に帰るまで待っていたら忘れてしまうものだから、もうその場でiPodを開けてアマゾンで購入した私だった。そして、そうしてよかったと思う。

結果は一週間後に現れた。乾燥して萎んだ感じの肌に『水分が戻った』という実感を得た。紹介してくれた友人にそう告げると、やがて全身もそういう肌になるのだそうだ。顕著な違いを感じるので、北米にお住まいの方で肌トラブルがある人は、是非購入して試してみる価値があると思う。

という感じで、なんだか女子力上がった感たっぷり♪




6/15/2014

熟年離婚


ダンスリハーサルが続いていた5月に後回しにしていた社交をこの6月に消化しながら、明るく元気なバイブレーションに満たされて、私は多分『Summer High(夏の躁状態)』に入っている。ブートキャンプに戻り、踊ってはいたけれど肩の筋力とか落ちてるな~と気づかされながら、朝一番でウエイトトレーニングや走ったり飛んだり跳ねたりして汗をかいている。




友人に会って近況報告をする度に、自分が夫に関してどういう気持ちを抱いているかが言葉となる。「彼はとてもGenerousよ。充分にしてもらっているわ」と友人に告げるそれを自身が聞くことによって、心の余裕を認識する。ホ・オポノポノは効いている。私は穏やかで落ち着いてる。

離婚の準備はスローだけれど、それでもこれは期間限定的なものと解っているので、夫と一緒に暮らしているのは苦痛ではなくなった。私たちの離婚はゆっくりと港を離れている船のようだ。お互いに『新しい人生が待ち構えている期待感』の方が『別離に対する感情』を越えているようにも思える。


『全ては完璧なタイミングで起きている』ということばを噛み締める。今までの何時ではなく、今このタイミングで『win x win シチュエーション』で離婚をする。今までこの『離婚』という文字のイメージにやられていたような気もするけれど、単にお互いが個人の生き方を選択するということだけなので、ネガティブな感情はもうどこにも発生する必用がない。





日本だったらぺらぺらの紙にサインして済むだけの簡単手続きだけれど、こちらではいろいろ複雑なので、離婚を意識して私が最初にしたことは『離婚セミナー』に参加してみることだった。親や友人に付き添われて眉間に皺を寄せた女性達がやってきていた。そして、離婚に一体いくらかかるのかと心配していた。セミナーを開催した弁護士は個人によって違うので何とも言えないと返すだけなので質問者は不満気だったけれど、場合によっては$50K(500万円くらい)かかるとも言う。弁護士の相談料が平均的なところで一時間250ドルとして、相手が意地悪して揉めたら合意するまでに数年かかる場合もある。先日会った男性は離婚に5年かかったとこぼしていた。一体彼はいくら失ったことだろう。まさしく「お金がないから離婚出来ない」という言葉の意味を深く理解させられた感じだった。

これを言うと「まるで映画みたい」と友人に笑われるが、Divorce meet upにも参加したことがある。話はこの場だけに留める安全な場所。お互いの話を聞くだけ。アドバイスはしない。ここで知り合った人同士のデートは御法度というルールがある、そんな場所に顔を出してみるのもひとつの経験だった。そりゃいろんな話があるのものだと感心するし、参考にもなる。でも、旦那のDVから逃れようとしている人がいたり、どろどろした雰囲気があまり私のタイプではなく、自身の不安を増長しそうな気もしたので一度きりでもう行きたいとは思わなかった。

いろんな離婚のケースがあるだろうし、私も不安に押しつぶされて病気にもなったけれど、夫は弁護士に払うことでお金を失うくらいだったら、『にこにこ離婚』にしてその分私に渡した方がいいと考える合理的で冷静な人だ。法的な部分はメディエイターという仲裁人を使うだけにして、自分たちだけで離婚できると信じた。もう戻れないのだと悟ったらお互いの感情は驚くべき早さで治まった。





「お前、オンラインデートしてるだろう?」

日本から帰って来て一番最初の話し合いのテーブルでそう夫は告げて来た。彼と話し合う前にDに打診していたから、彼女が夫にそう打ち明けられたと聞いていたので驚かなかったけれど、最初は「彼、私のPC覗いていた?」とか思ったりした。でも、PCは日本に持ち帰っていたし、となれば彼自身がそのデーティングサイトに登録したからに違いないだろうと思っていたら、案の定そうだった。

「どうして知ってるのよ~♪」

そうにんまり笑う私に、夫は照れくさそうに「離婚するまでは何もしないさ」と返す。

「お前が載せてる写真、綺麗だな。でも、プロフィールのステイタスに『別居中』としている女ってそういないぜ」

「だって、そうじゃない。日本には『家庭内別居』とかいう言葉があるけれど、調べたら英語でもあるのよ。『In house separation』っていうの。私たち、まさしくそれでしょ?」

「んじゃぁ、このままそうしていたら?」

え~、だって、友達とか自由に招待できないじゃない。嫌よ」

「え、おれは別にお前が友達よんでも構わないよ」

「私のボーイフレンドでも?」

「… あー、そうかー。それは嫌だなぁ。ははは~」

という感じで、以前では考えられないような次元の会話が起きた。実際に彼がオンラインしているのをちらっと見かけたりする。なんだかちょっと楽しそう。まぁ、夫も歳はいってるけれど、その辺の同じ歳の男達よりはずっとこざっぱりとしているし、年収も最高ランクで表示できるからまだまだ女性を惹くことはできるのではないだろうか。仕事もそろそろリタイアすることも考えているし、多分に彼にとって新しい人生はむしろ『楽しみなもの』にシフトしている。そう解ると、なんだかとても安心できるし罪悪感もまったく感じないで済む。ジェラシーみたいな気分はまったく発生しない。お互いにとっくにムーブオンしているのだ。

悪気なくオンラインデートができるという環境が夫を少し解放したのかもしれない。2ヶ月別居して、独り者の気軽さを実感したのかもしれないし、思っていたほど寂しくないものだと理解したのかもしれない。自分がでかけるときには説明なしのくせ私がでかけるときには相変わらず親のようにうるさいけれど、それも同じ屋根の下に住んでいるうちは心配もあるし仕方がないかな、と私も夫にイラっとこないように努めている。




家にある程度のお金があるということは知っていても、管理していたのは夫だし、細かくは言われなかったけれど、彼のお金だから彼のお金に対する価値観を尊重した使い方を私は無意識にしてきた。そこから自分の気持ちを解放するにも、セミナーとかを受けて自分のお金に対する意識を改革する必用があった。だから、離婚で財産分与をしたときに、持ち金は減っているにも関わらず、自分の頭の上に空から大きなお金がどんと降って来たような感覚がした。私がたとえ結婚せずにあのままキャリアウーマンを続けていたとしても蓄えることのできなかったであろう金額が手に入ったのだから。専業主婦という立場にあった、見えない『足かせ』がぱちんと弾けたような感じがした。

自分が今後不幸になんてなる訳がない、という根拠のない自信さえ生まれてきた。己の人生の『流れ』、お金の『回り』が肌で感じられる。宇宙が与えてくれるものを完全に信用して受け取ることができている自分がいる。それが心地よい。

『Free at last! Free at last!』とMartine Luther King Jr.の声が脳裏に響く。



6/07/2014

パラレルワールドの移行


「2ヶ月時間を空けただけで、ていうか、問題解決を投げ出して2ヶ月逃げている間に、すべてが解決してしまうってどゆこと。ありえね~。なんでしょう、この不思議な成り行きは。それはなに?魔法だわ」

事の成り行きを遠くに住む友人に知らせたら、そういう言葉が返って来た。本当にそのとおりだと思う。銀行や投資のお金はきっかり折半。家は夫にそのまま住まわせローンを払い続けてもらうことにするので、私は半分を彼に貸していることで家賃を積み立てにしているということにする。今後何年後かに家を売る時に家の価値が下がろうが上がろうが、シリコンバレーバブルの頂点くらいに上り詰めている今現在の家の価値で分配を計算することにする。私としては、直ぐに大きなお金を必用とする訳ではないので投資をしているようなものだからそれで問題はない。

「や~、これは複雑だよ。でも待ってろよ、後でちゃんと分かるようにみせてあげるから。お前が損しないようにちゃーんとやってあげるよ」

それを私に数字で説明するために、夫はパワーポイントの文書を作ってくれた。老後の自分を捨てて別れるという妻に、だ。まったく至れり尽くせりという感じがしないでもない。いろいろ調べ物をしながら、それは嬉しそうにやっている。感覚的には、今夫が一生懸命グライダーを組み立てていて「ちゃんとしっかり操縦するんだよ」って我が子を旅立たせる感じ、と言ったら近い感覚がある。そういう訳だから、家を売ることとか引っ越しのこととか、一気に何をどうしたらよいのか解らないでパニックになっていた以前のプレッシャーは消滅してしまった。今現在は去年のクリスマス以前のようにたまに二人で一緒に録画していたTVシリーズを見たりしている。寝室も食事も別という長年の家庭内別居的な習慣はそのままだけれど。そんな状態だから、もしかして離婚しないでもいられるかも?なんてのんびり構えていたら、早く離婚書類をファイルしてくれ、ともう3回くらいせっつかれている。夫は私よりも離婚する気満々なのは変りがないようだ。でもそこに、怒りや憎しみ、悲しみも存在しない

彼のDに対する気持ちも終っているようで、彼らは3ヶ月会っていなかったし、Dは新しい犬とボーイフレンドができて、新しい生活が始まっている。日本から戻って来てからのアメリカ生活は、全くとして『別バージョン』という展開だ。

そこにあるエナジーの波動も対極的に違ったもので、私は20年前にアメリカに引っ越すという決意をしたときと同様な、人生でもっともエキサイティングな時期にいる。まさしく『ワクワク』の域だ。その変化には驚愕を覚えるほどで、バシャールが語るとこの『電車の乗り換え』が起こったのだと、帰国して2週間も経ったある日その『生きてる感』でそう思った。




このバシャールの『電車の乗り換え』説は、本田健さん須藤元気さんとのセッション本で説明されているけれど、パラレルワールドの移行が起こったと説明するととても納得できるようだった。

前ブログ『みんな、それぞれの宇宙』の中で、私は何度かバシャールのことについて触れている。記事のカテゴリーはいろいろあるけれど、興味のある人は『スピリチュアル』のカテゴリーの部分を拾い読みしていただければ、ある程度私がどんな観点をもっているかが理解できると思う。この『パラレルワールドの移行』はこちらの記事で説明されているが、まさしく今回このことを痛感していた。

今年始め、私は本当に絶望していた。願いがことごとく叶うように展開する人生を経験し『引き寄せの法則』の実感を記事にしていたブログを書き綴っていた筈なのに、自分が落ちた闇の世界に愕然とした。これから電車を乗り換えることのできる機会は少なくなる一方だというのに、これほどの低い波動の世界にハマってしまった自身を恥じ、自分がそうだと思っていたポジティヴな姿は架空のものだったのだろうかと疑った。



パラレルワールドの移行の鍵は『愛』だ。人が生を設けた上で『家族』は一番の基礎、樹で言えば根っこや幹にあたるところがそこだけれど、その部分に『愛』を得る人は、たとえ恋人がいなかろうが、仕事が満たされるものでなくとも、きっと『幸せ』を感じられる人であると思う。多分『見栄』というのも持つ必用がないくらいに。

そして決定的なのは執着を捨てること。アメリカで雇われ経験もない私は『らくちん主婦の座』を手放すなんて絶対嫌で、夫とDのことがあってもしがみついていたし、離婚もここまでしないできた。しかし実家にいる間に、大好きな家もお風呂もベッドも、そしてサンフランシスコのベイエリアの高級住宅街に住む生活ステイタスそのものを捨てていいかなと思えた。それだけに家族といることが幸せだったし、実家の近くに住むのだったらもうなんの見栄もいらない。それこそスーパーで働いてもいいかなと思う覚悟もした。ただ家族の愛情あるサポートに身を任せることで、そこに『幸せの青い鳥』を発見した私だった。

5月の誕生日にはこの正月に別れた子犬君からよりを戻したいとメールがきていた。去年の誕生日はそんなことすっかり忘れて元カノとキャンプに行ってた男が、である。それでも私の心は動かなかった。あれだけ別れが苦しかったのに、今はちょっとは嬉しいけど返事を書く気にもならないスルーさだった。過去8年間ずっとそうだったような『想い出に酔う』ということもできなくなっていた。実家にいたときにそれに気づいて、彼を思い出そうとしても、凄く力を入れて集中しないとそれもできないくらいだったので、完璧に執着がとれているのを知ったのだった。

愛に満たされ、執着を手放した瞬間に私はパラレルワールドを移行していたのだと思う。まるで魔法のようにアメリカの生活が別世界に変わっていた。バシャールの言う、輪ゴムの原理。大きく飛躍するには、逆方向に引っ張る力が要される。光を見るには闇が必用だということ。シンボルは確かに現れていた。帰りの飛行機の中で運が変わったことを予感した。




バシャールと出逢ったのは25年くらい前のこと。彼の言葉は一貫しているし、時代は彼の言葉に追いついてくる。忘れてしまっていても、彼の情報は必然なときに目の前に落ちてくる。ひと昔前には理解されなかったようなことが、今はだんだん普遍的になりつつある。『2010年から2015年までのシフト』は振り返れば確実に身を以て実感できる。それは私のブログに記録として残されている。

電車の乗り換えができてホッとしている私。今現在は将来の経済的不安もなく、性的欲求に振り回されることなく、精神の安定の為に男に依存することもなく、360度フリーで羽が生えてるような気分。このままあらがわずに『ワクワクの人生』を続けて行けばきっと行くべき世界に辿り着くのだと思う。

6/04/2014

ホ・オポノポノの奇跡


3月も終るアメリカに戻る日が近づきある頃、私の心に陰がさした。せっかく実家で愛情に満たされ元気になったのに、再度アメリカの生活で病気になってしまったらどうしよう。胃炎で食が細くなり激痩せした当時のことを思い出すと夫の元に戻るのか不安だった。とにかく思い煩う神経をどうにかしなくてはいけないし、胃を守らなくてはいけない。母も「腹を横にしなさい(腹を立てるな)」と別れの言葉でそう言って私を笑わせたくらいだ。

そんな頃に突然直感の言葉が降って来た。

「ホ・オポノポノを学べよ」

『ホ・オポノポノ』確かハワイの幸せを呼ぶおまじないの言葉だった。『ありがとう、ごめんなさい、許して下さい、愛しています』と唱えると、全ては上手くいくという。引き寄せ関係のブログあたりでそんな大まかな知識だけは得ていたけれど、知ってるつもりのホ・オポノポノであって、実際の書籍を手にしたことはなかった。




江口勝先生の『水は答えを知っている』で『愛・感謝』が素晴らしい波動を持っているとは証明されているけれど、『ごめんなさい、許して下さい』がとくにどうのと言うことを聞いたことはない。とあるブログの記事の最後にこの四つの言葉を毎回添えていた人がいたけれど、最初はホ・オポノポノだと知らなくて妙な違和感を感じたことを覚えている。

私はやたら謝ることが好きではない。先日私の誕生日だと知った友人がそれを忘れていることに対してバツが悪かったのか「誕生日だったんだ、ごめんね」と言ったけれど、「そうなんだ?おめでとう!」と言えば良いだけなのにと思ったし、何かを私にしてもらったときもやっぱり「ありがとう」と言えばいいだけのところに「ごめんね」と言った。本人にとっては多分に癖にすぎないのだけれど、まるで罪悪感を抱えて生きているようで、私自身がちょっと居心地の悪い思いをする。

日本語の『すみません』がいろんな場面で使える便利な言葉であるとは承知でも、他人のアテンションを得たいのだったら「お願いします」と声をかければいいし、他人に何かしてもらったら「ありがとうございます」と言う。いわば、意識してその言葉を使わない自分を認識する。卑屈になりたくないという潜在意識が働いているのだと思う。

そんな訳で、ホ・オポノポノをちょっと知っているようでも、今までそれに気を向けなかったのは、そんな理由からなのだったのかな、と今更のように思い出した。




そういう突然降って来た言葉をキャッチした私は、直ぐにアマゾンで書籍をリサーチし、評価を読んで検討したうえで、イハレアカラ・ヒューレン博士の『みんなが幸せになるホ・オポノポノ』と彼の一番弟子であるマベル・カッツの『さとりのホ・オポノポノ』を購入した。ヒューレン博士の本でピンとこなかった人がカッツ女史の本で腑に落ちたようなことを書いていた。実際、カッツ女史の本はあっという間に読めたし、文字もブルーでなんとなくさらっとしているけれど、全ての章に書かれていることがみな同じだったような印象が残った。そして、次にヒューレン博士の本を読んで、しっかりと把握できたように思える。

それから夫のことを考えて不安になったときには、直ぐに『ありがとう、ごめんなさい、許して下さい、愛しています』と心の中で唱えた。最初はちょっと違和感があったけれど、感情が言葉に伴わなくても良いのだとあったのですぐに慣れた。そして『執着を手放すこと』もこの本を読んで決定的になったと思う。アメリカの家への執着を手放し、離婚の意思は変わらないと意識したのもこの頃だった。

アメリカに戻ってから3日間は時差ぼけでベッドの中だったけれど、目が覚めたおりにはこの本を開いて読んでいた。すぐにダンカンダンスのイベントがあったりして忙しくなり、家で夫とまともに顔を会わすこともないまま実際にホ・オポノポノの効果を実感し始めたのは、ダンカンダンスのスタジオに通うクルマの中だったと思う。

この四つの言葉を対象に唱えることをホ・オポノポノでは『クリーニング』と呼ぶ。その対象は人間でも物でも空間でも構わない。ハワイでは日本のそれと同様に全ての物に神が宿ると信じられているそんなところは意外ととっつきやすい。素直にクルマの中でスタジオや師匠の名や生徒のひとりひとりの顔を思い出してクリーニングをした。数年前まではそれほどでもなかったけれど、今現在スタジオの目の前に大きなレジデンスビルが構築され工事中であることから、路上のパーキングスポットを得るのが、『パーキングクィーン』を自称する私にでさえ困難になってきていた。最悪のときには2ブロック先の有料駐車場に停めることになるが、レートは高く駐車場代も馬鹿にならない。いつもスタジオに近づくときには祈るような気持ちになる。

そしてその日、クリーニングを念入りにして辿り着いたとき、なんとスタジオのドアの真ん前のスポットが空いていたので、そこに滑り込むやいなやクルマの中で大笑いしてしまった私だった。このスポットがとれたことなんて、過去10年に2度くらいしかないラッキーさなのだから。他のダンサー達も私の登場を今までになく歓迎してくれて、あまり個人的な会話を交すことのなかった非日本人生徒もいつになく饒舌に話しかけて来た。それで、もしかしたらホ・オポノポノは意外に効果があるのかもしれないと思い始めたのだった。

疲れているのにショーのリハの段取りが悪く、心の中でつい毒づいてしまいそうになるときにも、ひたすらクリーニングした。そうすることによって、心が穏やかになるのを認識した。私のクルマのエンジンの警告ランプがついてしまったときにも、オートショップに出かけている暇はないのでひたすらクリーニングした。汚れたままにしていることを詫び、洗車をして謝ったら、ランプが消えてくれたのクルマに話しかけながらそのまま乗り続けている。




帰国して一週間が経ち、やっと初めて夫と腰を据えて話をする機会を得た。そしてそのときに、彼が今後私が彼から受け取る生活費のことを告げて来た。

「お前に生活費を払う為に働き続ける気はない。離婚するなら俺はリタイアする」

そう冷たく言い切った夫が、仕事は続けているにも関わらず受け取り始めた年金の半分をずっと今後も私に生活費としてくれると言うのだ。国民年金と会社の年金を合わせれば結構な額になる。私はその額を見て、急に身体中の力が緩んだ気がした。これで『生活する為にしかたなく働く』ということはなくなったことになる。日本に居たときは、自分が年金を受け取る年齢に達するまでは、何か仕事をみつけなければならないだろう、と諦めていた。長年好きなことだけをしてきた自身にとってはかなり不安なことであるけれど、最悪日本に帰って来て家族の近くに住んでいれば見栄をはらずにどんな地味な仕事でもやれる、とそんな覚悟を決めたばかりだった。わっと涙が出て、思わず「Oh, my god, Thank you! Thank you!」と呟き続けていた。

「なんだよ、そんなに心配していたのか」

夫が呆れたように言ったけれど、帰国前の状況では今後の生活費を獲得するためには弁護士を雇って争わなくてはいけないくらいの状態だったのだ。そんなことを思うと気が滅入る一方だった。

「ま、そう贅沢はできないだろうが、無理に働かなくても大丈夫だろう。今までの通り、ボランティアでもして生きて行けばいい」

この2ヶ月の別居の間に、一体夫の心境にどんな変化があったのか。これもホ・オポノポノのおかげかもしれない、と勝手にそう決めつけた私だった。そしてこれ以降、でかける度に会う人や場所にクリーニングをし続けている。