11/30/2015

ノマド的生き方

私の滞在先のホストがプロファイルに『lived a completely nomadic life, moving from one place to another throughout the worldと自己形容していたことからこの英単語を知ったけれど、最近日本語でよく目にするようになった『ノマド』がこれだったのだ、と今更のように気づいた。

特に知られるところとしては『ノマドワーカー』という言葉。オフィスを持たず、ラップトップひとつでカフェや図書館で仕事をする人を形容するらしい。少し前まではそう言う人を『フリーランス』と呼んだものだけど、今現在の流行り言葉がそれなのだと。『フリーター』という言葉が定着して社会的にもその存在が認められるようになってから随分経つ。


私の生涯はそれそのものだったけれど、1980年代にはまだ普通に会社勤めをする人がメインストリームだったので、私のように仕事を転々としては外国と日本を出入りしている存在はまるで社会的落伍者のように扱われた。母には顔を合わせればいつも「どうして他のお嬢さんと同じような生き方ができないものか」と愚痴をこぼされ、それが嫌でまた外国に逃げるということが続いていた。海外では普通に生きられるのに、日本社会に戻ってくると自分がちっぽけに思えて惨めで本当に辛かった。


そんなわけで初めて『フリーター』という言葉を目にしたときには時代も変わったのものだと思った。もう少し後に生まれてきていたなら、私のような存在がそう悪のように思われなくても済んだのかもしれない、と。





ここバリにはそんなノマドワーカーがたくさん居る。ラップトップとスカイプコンフェレンスで仕事が成り立つのだったら、ネット環境が整っていれば世界中のどこでも生活できる。物価の高い土地にいるよりも、寒さが厳しい土地にいるよりも、なにも都会に住まなくとも、自分でお気に入りの土地を求めて移動しながら仕事ができるという選択がある。ここウブドではフリーでWifiが使えるところが多いのでラップトップと向かいあっている人が相当に多い。 


Mはそのように生きる一人だった。エクスタティックダンスで知り合った彼は、この地で行われていたスタートアップのコンフェレンスに参加するためにタイのチェンマイからやってきていた。それ以前彼はサンフランシスコベイエリアに住んでいたので、そんな共通点から話がとんと弾んでいった。


モンキーフォレストの近くに『Hubud』という、そんなノマドワーカーのためのネット環境が整ったco-woking spaceがある。


Wifi環境とはいっても、私の滞在地やその他カフェで接続していると、そのスローさに唖然としてしまう。それはまるで20年前にアメリカンオンラインに接続するのに電話回線で長いこと待たされたあの日を彷彿させられるような遅さのときもあるくらいだ。そのスピードをがっつり整え、さくさくと仕事をはかどらせるノマドワーカーにとってヨダレものHubudの環境はメンバーシップで実現化される。


実際その場を見せてもらったけれど、シリコンバレーからやってきた私にとってはなんとなく懐かしささえ覚える環境だと思わされた。Googleのような今時のITオフィスのような自由な居心地の良い空間がそこにあった。3日間のスタートアップイベントはそこで開催され、Mはそこで自分の会社のスタッフになり得るかもしれぬ人材を探しにやってきたということだった。





私と知り合ったその日はイベント最終日の打ち上げパーティがあるということで、Bisma Eightという高級ホテルでのバッフェがあるから、そこを覗いてからデートしようということになった。


実際行ってみたら本当に素敵な場所だったので、そこのバッフェを食べなからいろいろ話をした。ホールではスライドが流れイベントが行われていたが、Mは特にそれを気にすることもなく静かな場所で私と話をすることを望んだ。


「いいんだよ、イベントに来ている連中たちは俺の子供になれるような若いもんばっかりだし。俺だけおっさんで浮いてるんだ」


「で、遠いところからやってきた価値はあったわけ?」


「う~ん、君と出会ったことがベストなことかな」





エクスタティックダンスの会場の端に敷いたヨガマットの上で体を揺らして踊っている、毛深いハゲのおっさんを発見した。


若い子たちが汗まみれになって移動しながら踊っている中、ホールの端から離れない年配の彼を目にした時、多分に脚が悪いか何かの障害があるからそうしているのかなと思い、そんな彼の前で向き合って一緒にシンクロして踊った。視線を合わせ反応と笑顔が良かったので、しばし踊った後ハグをして離れた。


後ほどダンスホール外で休憩している彼に気づき、挨拶したら飲みかけのヤシの実ジュースをシェアするかと差し出してくれた。それを受け取って飲んだ。


話をしてみたら外見で想像していた声と雰囲気が全く違っていたので意外な感じがした。


ベイエリアから来ているということでお互い話がちょっと弾みまたダンスに戻ったけれど、終わったときに荷物を取りに行ったら、同じロッカーを使っていたのでまた顔を合わせ、その流れでランチを一緒にした。


迎えのタクシーが来たので慌ただしく席を立った。彼に午後は何をするのかと尋ねられたけど、とりあえずシャワーを浴びて昼寝なのだと告げ、Lineで繋がっておいた。こちらからは連絡するつもりはなかったけれど、とりあえず5時半くらいからなら行動してもよいと告げておいた。


彼から連絡がないとしても当たり前くらいの気持ちでいた。ウブドには、特にYoga Barnには女の私から見ても若くてセクシーでつい見入ってしまうような白人女子が腐るほどいる。私と別れた後でそんな中から一緒に遊ぶ相手を見つけたとしても不思議ではない。だから5時半きっかりに彼から電話が入った時には、ちょっと驚いたくらいだった。





会話は尽きなかった。彼の見かけから、そして話の内容からして彼が私よりかなり年上であるはずなのは確かなのだけれど、彼の声とその話し方、行動や感じられるそのエナジーの違いに戸惑ってしまう。彼の肉体を目にしていないと、まるで30代後半の男性と話をしているかのような気にさえさせられるのだ。


そして、誰かに似ている。顔と話し方と行動に親しみがある。TVシリーズに出ていた誰かかもしれない。そう思いを巡らせていたら、彼がユダヤ人であることを打ち明け、途端に家の近所に住んでいたユダヤ人の男性を即座に思い出した。「もう、しょーがねーなぁ」と思わせる、うざく、でも憎めない不思議なあの男性と存在が被った。



それから少し彼と一緒の時間を過ごしたけれど、タイに戻った彼から動画が送られてきた。「これが俺の新しいオフィスだよ」って、ビーチヴィラのテラスから360度ぐるりと撮影された映像。







水際まで36歩だってさ。おい、いいなぁ!


11/27/2015

不食の人


バリ島での滞在先を決めるとき地理的なアイデアが全くなかったので、一ヶ月のステイをホストとたいしたやりとりもせずに適当な勘で決めてしまった。

彼が外国人であったこと、エクスタティックダンスをする人、今までの自分の人生を『Nomadic』と形容したことに自分との共通点を見出したような気がしたからだ。そして、そんな彼が気に入った地域というのは、もちろん私が十分に満足できる環境で大当たりだった。

別れた夫は私を『Bohemian』と形容した。自由奔放に生きる放浪者だと。『Nomadic』とは遊牧民的で、より良い住環境や豊かな土地を求めて旅をする人を言うらしい。自分にとっては新しい単語だけれど、彼のこの言葉を見たとき、自分の状況はまさしくそれであり、今後はこの言葉を使おうと思わされた。




ホストがいない部屋に到着するという異様なシチュエーションで私のウブドの生活が始まった。着いて数日後、やっと階下のホストと顔を合わせたとき、彼のプロファイルの写真からの印象とかなり違っていたことに軽い驚きを得た。プロファイルに古い写真を使っているとしたら、それは私も同様のことなので笑い飛ばして終わりのことだけれど、感じられるエナジーそのものが違うようにも思えた。

病気とは思えないけれど、彼はかなり痩せた感じがする。そして、ゆっくり話ができたある日、彼がしばらく固形物を口にしていないことを打ち明けてきた。断食をしているのだろうかと尋ねたけれど『断食』という言葉に彼は完全な同意を示さない。

クレンズのために何日間と決めたうえでの断食をしているのではなく、彼は『不食』にトライしているのだと言う。実際3年半固形物をろくに摂取していないという女性に出会い、その彼女がとても美しく健康的であるということに驚愕したのだそうだ。

話を聞くと、そのスタートはかなり厳しい。普通の断食同様消化の良いものを少量とる準備期間があり、それからドライファスティング、水さえも飲まない3日間を過ごすのだそうだ。確かに飢餓感はあるのだけれど、身体の調子は絶好調に良いという。毎日何キロも走れるし、エネルギーに溢れていると言う。

「食べないで生きられるなんて考えられないわ」

「それはParadigm。全て頭がそう思っているだけのことなんだよ」

「じゃぁ、アフリカの子供たちをどう説明するの?」

「ふん、確かにそうだな。ちょっと考えさせてくれ」




そんな会話があったけれど、実際私がサンフランシスコを発つ少し前に紀伊国屋書店に足を運んだとき、不食についての本のタイトルが自分の目に飛び込んできたのをはっきりと覚えている。アマゾンで調べてみると不食についての本が結構あることに気づき、その中でも山田鷹夫氏の数々の著書は気になるところだ。次の帰国の際には是非何冊か読んでみたいと思う。

ささやかな知識ではあるけれど、消化にどれだけのエネルギーを消費しているかは知るところ。人は消化をするために食べているという無駄なサイクルを繰り返しているのかもしれない。実際ジュース断食やマスタークレンズを経験したことのある私は、彼がどれだけ気持ちがよくエネルギーに溢れているかを力説した時には納得するところはあった。

ジャスムヒーンという女性はほとんど食事をとらずプラーナで生きているらしい。彼女の著書も読んでみたいと思うが、本の評価では彼女の本を読んで不食を実行命を失った人がいるということも事実らしい。




日曜日にYoga Barnであるエクスタティックダンスに参加したところ、彼もやってきていた。その彼のダンスの勢いというのは、他の誰よりもエネルギッシュでまるでロケットのように飛び回っていたので驚かされた。

ホストの彼がどこまでそれを実践し続けるのか興味深いところだったけれど、ある日果物を食べ始めているのを見て安心した。なんでも視界に不審な現象を感じ、めまいを覚えたので再度食物の摂取を始めたのだそうだ。なんと17日間の不食を体験したのだそう。

今後はどんな食物が彼の身体とエネルギーにどのような影響を与えるのかを観察しながら少しずつ実験的食生活を続けるのだと。ひゃぁ




食べないことのほうがむしろ身体に良いとよいというのは感覚的に理解できる。実際私のこの地の最初の一週間はご近所の勝手がわからず食事を簡素に済ませていた。その頃の方が、今現在、土地の美味しいものを覚え始めてせっせとワルンに通い詰めている現在よりも調子が良かった。今でも夕食を食べないで寝た次の日の朝の方が、はるかに快適な目覚めだということも承知のところ。

サンフランシスコに戻れば、各友人たちとの会食に明け暮れ飽食が続く。食はカロリーや栄養を摂取する目的というよりも、社交の大切な潤滑剤になっている。たとえアクティビティーの趣味が合わなくても、美味しいものを頂きながらくったくのない話に明け暮れるという、その行為そのものが人生の大きなパートになっているのは確かなのだから。




「美味しい=幸せ、というパラダイムを抜け出すのは、相当な苦労と犠牲がいるのかもしれないわ」

彼の力説を肯定するものの、やっぱり私はこの土地ならではの食の楽しみを犠牲にする気にはならない。



ワルンお任せのおかずの盛り合わせ
ナシチャンプルをオーダーするのが楽しみ

黄色いご飯のナシク二ン




11/21/2015

互いのリタイアメント


今の自分の人生は『散歩』だ。

バリのウブドを歩いてそう思った。

目的地に行くことが意図ではなくその歩いている道そのものその場その瞬間のシーンを楽しむこと自体が意図であること。だから行くはずだったところにたどり着かなかっとしても良しとする逆にそんなとんだハプニングこそが醍醐味と思える

時間はたっぷりあるし急がないし焦らない

自分が何者かになろうかという気持ちもない。

これってもしかして、リタイアメントライフ?

そうは思っていなかったけどもしかしたら今の私の状況はそれそのものなのかもしれない、と今更のようにそう気付いた。




自分の奔放さからほとんどシングルみたいなもんだよねと友人たちに言われてきたけどそれでも自分の心に既婚者としての制約がどれだけあったのかは正式に離婚して初めてわかったことだった当たり前と言っちゃあ当たり前だけど、自分がその渦中にいるときには、意外と心が見えなかったりする。

「お前いいビジネスしたよな」

メディエイターを使って離婚の手続きをしていた頃夫が皮肉でそう言ったことがある

それを友人に漏らした時私以上に彼女が憤慨していたけれどそれでも私は夫になにも言い返さなかったカリフォルニアのno fault divorceをただありがたいと思い静かに頂けるものだけを頂いた金銭を自ら要求したことはない





SF市内に住んでリハに明け暮れていた9月末、ダンスパフォーマンスの少し前に別れた夫がいきなりリストラされたことをメールで知らせてきた

リストラというよりリタイアメントを促されたと言った方が正しい本人はすでにそうするべきの年齢を超えていたからだ

しかし異例ではあっても本人が望むまでは仕事が続けられると思っていた彼の心境を思うと動揺したし心配もした仕事以外のなんの楽しみも知らない人で、趣味は持っていなかったから。

彼の心の安否を気遣い、彼の生涯をその業界に貢献したことをねぎらい、必要とあらば家に戻って側にいてもいいし、話を聞くとメールを出した。それに対して、素直に感謝する彼の言葉が返ってきたけれど、彼はまだいろいろな処理で忙しいようだった。

ビッパサナー瞑想合宿に出かける前とバリ島に発つ前、私は家に数日ステイしていた。まだ家には私の名義が残っている。

夫が会社に出かけているわけでもなく、ずっと家に居る状態で私が短期間であるにしても戻るということはどんなものかと懸念したけれど、彼はむしろ私よりも外出していることが多かったかもしれない。

新しいコンピュータを買い、今までと変わらず仕事は続けるのだそうだ。彼の職業脳は止まることを知らぬのかもしれない。

彼は穏やかで沈んでいる様子は見当たらなかった。ひとりの生活にも慣れたようだ。

「俺もお前のようにポジティヴに生きないとな」

そう彼が言ったときには耳を疑った。何年もあれだけ機嫌が悪かった夫の言葉とは思えなかった。

「お前にボーナスをやろう。家を売ったときのディールを少し変えるよ。俺が死んだときに親戚に残す遺産なんて気にしちゃいないからさ。お前の方が長く生きるんだろうし。こんな俺とよく20年もつきあってくれたよ」




アメリカの離婚が怖かった。

アメリカで離婚するということは、双方が弁護士を立て戦って戦って今後の生きる糧をゲットするものだと、周りの話や映画でそう思っていた。何年もかけて争い、弁護士代で多くのお金を失うカップルもいる。夫はそれだけはしたくないと言った。

『決して醜い感情を出さずしてプロセスを踏む』

それだけを指針に時間を経てきた。私にとっては賭けであったかもしれないけれど、アメリカでそんなの甘いと言われるかもしれないけれど、彼に要求はしなかった。結果、それが功をなしたのだと言える。




真夜中にバリ島に経つ飛行機に乗るのに、夫が空港まで送ってくれた。

「バリはいいところだぞ〜。きっとお前は気にいるだろう」

夫は昔から過去の旅をよく語っていたけれど、二人で出かけようとはしなかった。私がお願いして旅行に出かけても、結局はいつも大きな喧嘩になった。旅の伴侶にはならなかった。

「気をつけてな。近況をメールで知らせてくれ」

「送ってくれてありがとう」

離婚して以来初めて暖かいハグをしあった。彼とそんなハグをするのは一体何年ぶりなのかも思い出せない。




「いいね、アセンションの波にうまく乗っているね」

そんな報告をスピリチュアルな友人にしたら、そう返ってきた。

2015年もまもなく終わる。

バシャール曰くの電車の乗り換えは無事出来ている。世界は穏やかで、出会う人もポジティヴな人ばかりだ。




11/18/2015

完璧な日々


鶏の鳴き声はもはやホワイトノイズになった。聞こえてはいるけれど、日常音となって意識に残らない。虫やカエルの音も同様、ときおり起こる猫の喧嘩の声色にはおもわずニヤついてしまう。日が暮れるとプールで遊ぶ隣の家の子友達の声も近所のバリ人の話し声も、意味がわからないからただの生活音に過ぎなく、気になることもない。


朝方の鶏の鳴き声がうるさくて眠れないというほどでもないけれど、それでもなんとなく意識が戻るとベッドから起きようという気になる。大体6時半から7時くらいというところ。サンフランシスコにいるときは、ねぼすけの私でたいがいに9時半以降が自然な起床時間だけれど、この『夏休みの朝』の気候だと、早朝の空気の新鮮さを味わいたい気にさせられる。

ベッドメイキングをした後、瞑想を何気に始めたらあっという間に一時間が過ぎて驚いた。

日本スーパーから買ってきておいた、簡易ドリップ式のコーヒーにココナッツオイルを垂らして飲むのがここでの習慣になった。この際だからミルクなしのコーヒーに慣れることにする。未だにスーパーに出かけてない。それでもどうにかなっているのが不思議。




田舎の細い路地を歩いてヨガのクラスに向かう。ヨガプラナーラという聞きなれないクラスを取ってみたら、自分の好みにぴったりあった。自身の内部の深いところにたどり着けるリラックスしたクラスだ。毎回不思議にこみ上げあげてくるものがある。エンシニタスで雨の日にたった一人でクラスをとったときもそうだったけれど、ヨガで深いところにたどり着くと涙が自然に溢れてくる。音楽と目の前に広がる景色のせいかもしれないけれど、インストラクターの紹介で彼女が自身をヒーラーと語っているところから、彼女自身のエナジーのせいなのだろう。ヨガはアサナだけでなく、インストラクションが全てかもしれない。

静かな田舎道をのんびり歩いて、日替わりでところどころのワルンで食事をし、ラップトップと向かい合い長い時間を過ごす。じんわりと浮き上がる汗も心地よい風にすぐ乾く。ときおりスクリーンから目を外して、自分を囲む環境をぼんやりと眺める。亜熱帯植物の緑は深く、花は美しい色彩を放ち、虫や小さな鳥が飛び交う。猫が普通にテーブルの上を通り過ぎてゆく。壁にはイモリやトカゲが這いつくばっている。ありがたいことに、蚊に刺されるのはほんのたまにしかない。

大きな生ココナッツのジュースを時間をかけて完飲し、お尻が痛くなった頃部屋を目指してまた歩き出す。インドでもそうだったけれど、現地の人は日よけに帽子というものを被らない。もっとも、外での労働者は傘のような帽子を被っているけれど、普段用なものではなさそう。それでインド人の女性のようにショールを頭から被って歩いていたけれど、ある日白人男性が普通に折りたたみの傘をさして歩いているのを目にしたので、そうだよね、と思い、田園の道を歩くときには日傘をさして歩いてみた。カリフォルニアにいたときにはそんなことをしたことがなかったけど、前回日本に帰国したときに雨と日傘の両方で使えるものを買ってみた。日傘とは趣があるもので、個人的にはなんとなく昭和の女性を思い出される。母親の若い頃の時代とかぶるのかもしれない。多分に極めて日本的なものだと思う。




ステイ先の近所のスパで予約を入れ部屋に戻る。安価なのでいろいろ試してみたくなる。細い路地を歩いているとすれ違う人々は笑顔で挨拶をしてくれる。フローラル系のお香の香が漂ってくる。供物の小さなバスケットに花が各家の軒先に置かれている。象の顔をした神様ガネーシャのをあちこちで見かける。ブーゲンビリアがヘリコニアが路地に彩りを加えている。気だるく平和で時が止まった感じ。癒しというのはこういう環境だったのか、と再確認する思い。

飾り気のないシンプルなバスルームで水シャワーを浴びる。部屋にいるときには下着も身につけずサロンを巻いているだけで過ごす。多分にここでメイクというものをすることもないだろう。日焼け止めを塗るだけで、自身の顔さえここのところろくに鏡で見ていない。




マップに載っていない道を歩いているので、最初自分がどこにいるのか把握するのも苦労した。どうにか周りにある店の名前を照らし合わせ、自分がPenestananという地域にステイしていることを知った。ウブドの中心部はたくさんの洒落た店が溢れかえっていたけれど、わたしにはこの辺りの田んぼや渓谷のジャングルの散歩道をうろつく方が性に合っているような気がする。

飽きたら観光にでも出かければよいと思うけれど、案外こんな日々が続くだけで満足してしまうかもしれない。




ワルンのテーブルの目の前の光景



11/16/2015

バリでダンス


バリのウブドにインストラクターがいて土曜の7時半から5リズムが踊れるとオフィシャルサイトで知ったときは心が弾んだ。日曜の朝にもYoga Barnでエクスタティックダンスのクラスがあるとホストが事前に知らせてくれたけれど、個人的には5リズムの方が好きなので、他の土曜の夜のイベントを差し置いてでも5リズムの会場に出かけることを最優先にした。

モペットタクシーの男に送ってもらい、Taks Spaという目的地についたら高級スパだったのでちょっと驚いたが、リセプションで会場を確かめたらダンスは行われていないと告げられて相当に面食らった。5リズムのオフィシャルサイトはそこまで詳細に責任を持っていないということだろうか。

「インストラクターのイミグレーションの問題で暫くダンスはないの。いつ再開できるかもわからないわ」

そう美しいバリ人の女性が愛らしいアクセントの英語で応え、私はしばし放心した。9時にダンスが終わるから迎えに来て欲しいと頼んだタクシーの男性の電話番号は聞いていない。

場所がどうやらウブドの繁華街ど真ん中らしく、周りには洒落たブティックが立ち並んでいるし人通りも多いので、どうにか時間をつぶせるものだろうかと歩き出した。寺院の前を取りすぎた時に、多くの椅子が並び人が僅かながら座っている。入り口のおっさんがチケットを販売しているので何が起こるのかと尋ねたらケチャックダンスだというではないか。あの長年憧れていたケチャックダンスを滞在二日目で偶然にも観ることができるのかと、ことの流れの幸運さに感謝し迷わずにチケットを購入した。75,000ルピーだった。

あと10分で始まるということだったが、観客はまばらで最前席のど真ん中が空いていたのでそこに座った。白黒チェックの布を腰に巻いた男性が中央にあるランプに火を灯していた。やがて照明が落ち、多くの色黒の半裸の男性が現れ円陣を作り「チャッチャッチャ、ケチャケチャケチャ!」と唄いだし、両手を振り掲げてリズミックに体を揺らす。衝撃的だった。




ケチャックダンスの存在を知ったのは、映画「続エマニュエル夫人」だった。当時中学生の多感な私にとって、乳房を露わにして藤の椅子に座るシルビアクリステルの映画館の街頭ポスターはショッキングなほどにセクシーで背徳的だった。実際に映画をこの目にしたのはもう少し後になってからだと思う。その時の私には彼女が大人だと思い込んでいたけれど、後で気付けば、最初の元祖エマニュエルでの彼女はとても若く、歳の離れた外交官の夫を南国に訪れてその地で性を開拓していくというストーリーなのだった。続編でケチャックダンスのシーンはダイナミックに紹介され、透き通るような肌の彼女がインドネシアのドラッグ小屋で数人の色黒の現地男性から襲われるシーンは過激だった。

そんな一部のシーンの印象しか記憶に残っていなかったから、その輪の中できらびやかな衣装を身につけた若い女性ダンサーや大きな身体の男性でストーリーが展開されるというのは、新鮮な驚きだった。

ショーは3部で構成されていた。ケチャックダンスの後、今度は中年以上の多くの女性たちが現れ唄い、その前で子供二人が操り人形のような踊りを展開させる。『サヒャンドゥダリダンス』というらしい。そのダンスが済むと、今度は大きな袋を抱えた男性が中央にその中身を山積みする。乾燥したココナッツの殻だった。それに石油をかけ火を灯す。やがてひとりの若者が藁の馬を持って現れ、焚き火の周りを踊り回り、やがてはその焚き火を素足で蹴散らしていく。暗闇の中でオレンジの炭火が舞い、男たちがそれを熊手で中央にかき集めると、再度ダンスが始まり若者は再度炭火を蹴散らしていく。案内には『サンヒャンジャランダンス』とある。英語ではファイヤーダンスと記されていた。

ショーは1時間で終わった。満足した面持ちで夜の街を流し、細い路地にある若い観光客で溢れるワルン(家族経営レストラン)で安価に夕食を済ませると9時になった。タクシーの男は約束通りTaksu Spa前で私を待っていた。




翌朝のYoga Barnまでも同じ男にライドを頼んだ。アイランドタイムを覚悟しているけれど、タクシーの男たちは競争が激しいせいか時間にはかなりきっちりしている。ステイ先のホストから、11時のエクスタティックダンスはとても人気なので事前に売り出されるチケットを10時にでかけてゲットしておくことと注意されていた。100,000ルピーでチケットを買い、時間までヨガバーンの外を歩いてみたが、クルマ往来が激しい道路際には魅力的なものは発見されず、それでもドーナッツショップがあったので、そこでドーナッツとラテで朝食を済ませた。悪くなかった。

ホストがそこを『キャンパス』と呼ぶだけあってYoga Barnは敷地の中に田んぼがあるくらい広い。離れた建物まで歩いてみたら、壁のないオープンなヨガスタジオになっていて、水田を目の前にヨガができるこの設定も凄いなと感心させられる。

エクスタティックダンスは150人で完売するらしい。2階のフロアでダンスが始まった。ほとんどが白人で中に日本人かもしれぬと思われる女性が二人ほど見受けられた。若い群衆がほとんどだったが、それでも年配の白人女性も数人見受けられ、少し安心した。

ウブドはハワイのように日本人で溢れかえる場所だと偏見を持っていた私は、日本人にあまり遭遇しないことに肩透かしを食らった。とは言っても、私は観光をろくにしていないし、まだ何も知らない。

Yoga Barnのランチバッフェは値段の割にとても豪華だからちゃんと食べてくるようにとのオススメに従い、60,000ルピーを払いカゴの上にバナナリーフが敷かれた皿を手に取った。サラダとバリ料理が並び、どれも美味しかった。席がいっぱいだったので、やむおえず4人テーブルに一人座る白人女性と相席したら、後からおっかけ友人らしきハンサムな若い男性二人が相席してきた。彼女はイギリスからオーストラリアはシドニーに引っ越してきて、そこでパワーヨガのティーチャーズコースを取っているとのこと。バリの旅はそのコースの一部らしい。20代と見受けられる二人の男性の片割れはニュージランド人で、私のヴィッパサナー経験に食いついてきた。オーストラリアに戻ったら彼もコースに行くつもりだと真剣な瞳で告げてきた。もう片割れのオーストラリア人はサンフランシスコベイエリアからやってきた私に興味を示した。なんと以前付き合った女性を訪ねて、私の住んで居るところからそう遠くない南湾の街に滞在したことがあるらしい。

「ラーメンの激戦地だよなぁ、あそこ」

ダンスをしているときから何度か目配せで笑顔を交わしたけれど、実際に話している青年はめちゃくちゃチャーミングだった。

間も無く彼らのグループはシドニーに戻るフライトをキャッチする。出会って直ぐにのお別れだ。Nice meeting youとお別れのハグをするけれど、半裸の若い男性を抱くのはどことなくくすぐったい。





予告編でも1:30あたりでケチャックダンスのシーンが出ています






11/14/2015

ウブドの森の中にて


今年初めにオアフに3ヶ月住んでみて、自分が海ではなく山の人なのだということを確信した。だからバリを訪れる際にも、迷わずウブドに滞在することに決めた。調べてみたら多くのヨギに人気の場所らしい。アートが盛んなことも私の気を引いた。

Airbnbには似たような安価の部屋が掲載されているので選ぶのに迷うところだけれど、イギリス人ホストでダンスを教え瞑想をする人、町からはずれた森の中の家ということ、一ヶ月のレントも掲載されていたからなんとなくでここを選んだ。手作りローチョコレートのビジネスを始めているといるというところも好感が持てた。

彼の場所にどうやって辿り着けばよいのかという質問に、住所に数字がないからクタのタクシーは無理ということで、彼の知り合いのタクシーが迎えに来るという。タイミング悪く、私が到着する日ホストはヴィザが切れるのでシンガポールまでの出入りをしなければならなく、彼の留守宅に到着するはめになった。

アイランドタイムを覚悟していたけれど、ピックアップのドライバーは予定時間より前にホテルロビーに現れたので感心した。ウブドまでの道のりは限りなく続く寺院と彫刻の群れで飽きることなかった。段々畑が見え始めたと思ったらUbudのサインが現れた。

側溝に沿った車が入り込めない細い路地をドライバーに荷物を手伝ってもらって300m程進むと、路地の終わりにホストの家があった。プライベートのドアがある二階の部屋を借りたが、決め手となったのがそのバルコニー。実際にその場に佇んで感動した。まるで深いジャングルのような植物の密度、バナナやヤシの木そしてプルメリアその他の花が咲き乱れていて、それに180度囲まれている。その木の間から微かに見える下方の段々畑。プルメリアの甘い香りに包まれて、すでに思いは満たされた。車が走るメイン道路の喧騒は届かず、それに代わって周りの家で飼われているのか、あちこちの方向から鶏の鳴き声が聞こえてきていた。その田舎さが気に入った。

タイル張りのバルコニーと部屋、バスルームはとてもシンプルであったけれど、部屋のあちこちに彩りよく置かれたたくさんの生花が5スターホテル並みの歓迎を表していた。




ホテル同様、ここでもWifiの速度は酷く遅い。自然の中のバルコニーのテーブルでしばしブログを更新、夕方にはかなり疲れてきたので軽く仮眠を取るつもりがすっかり寝入ってしまった。夜が更けると虫の音やカエルの声が響き渡った。不眠してた頃『夏の夜の虫の音11時間』という音声をYoutubeで聞いているとどうにか眠れたものだったけれど、これは本物の音なのだと半覚醒状態でニヤついた。一番鶏の声で意識が戻り時間をみたら夜明け前4時だった。ほぼ11時間ストレートで眠った。バルコニーに出て星を見てみたが曇り空のようだ。

部屋にはエアコンが付いていない。ドアを閉めていても天井のファンをゆるく回しているだけで十分に心地良い。日中でも外からの風が入ってくるので暑苦しくない。ウブドの山の中はクタよりも涼しい感じがする。

夜明けの瞬間虫の音が激しくなる。これは以前プーケットにいたときに経験した。陽が昇りきってしまうと虫の音が止み、かわりに鶏の声が激しく響き渡る。

まどろんでいたけれど、目が冴えてしまったのでコーヒーを入れてバルコニーで朝の空気を楽しんだ。7時に陽が高くなり温度が上がり始めると、バルコニー横のプルメリアが微香を放ち始めた。7時半になると、今度は違った良い香りが漂い始める。ヒンドゥーのカルチャーに基づいた花と共に添えられるお香の匂いだと気付いた。

朝食代わりにホテルから持ってきたアメニティのフルーツを食べてみることにする。グリーンの柑橘系は見かけとは違ってかなり柔らかく甘いみかんだった。硬いシェルのオレンジの果物を割ってみると、中にカエルの卵のようなものが詰まっていた。味には親しみがあったので調べてみたらこれがパッションフルーツらしい。とても美味しく見た目よりも口当たりはかなり良い。




ひとまずさっそくヨガのクラスで身体をストレッチすることにする。借りている部屋から一番近いヨガスタジオは徒歩で行けそうだ。地図を頼りに歩いてみたら、まるで人がやっと通り過ぎることができるくらいの田舎道をどこまでも行くので少し興奮した。ある場所は遠い幼児期に見た風景のデジャブーさえ覚えさせられる。田園のための水路沿いに道は続いていた。そんな中に現れた高台のヨガスタジオ。3面のガラスに広がる自然を目にしたとき、一瞬こみ上げるものがあった。視界が広く、遠くヤシの木と段々畑が広がる光景は美しさこのうえない。今までで訪れたヨガスタジオの中では最高のロケーションだった。

帰り道にギャラリーと看板が出ているところをいくつか覗いてみた。双方とも老人男性で、日中の一番暑い時間帯のせいか二人とも半裸でいた。地元生まれれでウブドの風景を描く老人は1964年から描いていると言う。かなりのディテールに凝った細やかな作業だ。

借りている部屋の通り道の家は15年前に隠居でやってきたスイス人の男性が自分の作品を公開していたが、作品は女性の裸像が殆どであくまでも趣味の域のものとしか思えなかった。しかし、その大型作品のサイズには圧倒されるものがある。彼の健康状態を疑うくらいのやせ細った身体としゃがれた力ない声はそう長くない余生を思わされた。それでも煙草を吸い続け好きな絵を描いて毎日を過ごせるなんて本望だろうなと思う。家族のことは尋ねなかった。故郷から遠いこの島が彼の選択だった。

多くの時間をこのバルコニーで過ごす

道端で見る供物

カエルの卵のようなパッションフルーツ

ヨガスタジオの風景







11/13/2015

クタのホテルにて


1990年というと前世紀になるけれど、タイはプーケット島で当時世界中に100箇所以上に展開するフランス資本のリゾート施設で仕事をしていた。正確に言うと、その時は3週間の研修を受けていて終了後にはタヒチはモーレア島の勤務になった。

当時そのスタッフ間ではバリの施設で働くのが一番なのだというのがもっぱらの噂だった。タイもインドネシアもそう変わらないのだろうと思っていた私だけれど、それ以来バリに対する漫然とした憧れが募っていた。そこを訪れる機会はないまま時は過ぎ、2011年に震災見舞いに家族を全夫と訪れたときのついでにバリで心労を癒すつもりで計画を立てた。しかしサンフランシスコから東京経由でバリに着くルートはえらい時間と費用の消費だということで、やむなく再度プーケットでのバケーションに変更された。カリフォルニアは世界のどこに行くにも遠い。日本への帰省だって行けば楽しいけれど、長い飛行機プラス実家までの3時間の旅を思うと気持ちが沈む自分を感じずにはいられない。

ヴィッパサナーの合宿の山中に居た2週間近くの間、木の葉が黄色く色づき空気が秋のそれに変化していくさまを日々感じるのは気持ちが良かった。まもなく冬がやってくる気配を感じ始めてきたサンフランシスコを発つその前日、とうとう寒波が押し寄せた。厚いダウンの毛布の中でも薄ら寒さを覚える朝だ。ベストなタイミングで私は北カリフォルニアを脱出した。




バリ島のデンパサール空港は恐ろしく広くそして新しい近代インターナショナル空港だ。最小限の情報しかチェックしていなかったので、なんとなくハワイのような南国の小さな空港を想像していた分、意外な気持ちにさせられた。VOA (visa on arraival)はすかすかに空いていて、あっさりと35ドルを払って終了。イミグレーションで何日いるのか尋ねられた時、控えめに多分に30日を延長するかもと応えれば、60日ステイしたいのなら3週間後にヴィザの延長申請をするのを忘れないようにと丁寧に年を押してくれた優しさだった。

サンフランシスコ空港を離れる時に、デンパサールを出国するチケットが30日以内でないことにエアラインカウンターの女性が不審感を持ち、それだと入国最初の30日ヴィザをもらえないのではないと告げてきたのにめまいを覚えた私だった。自分が調べた限りではそのアドバイスは見当たらなかったし、ヴィザ延長の方法だけを確認したのみで航空チケットを購入してしまったから焦ることこのうえなし。それで、チケットカウンターの女性が裏で工作して嘘のコンファーメンションドキュメントを作ってくれた。チケットを見せろと言われたらこれを提出すればいいだろうということだった。

出国時の換金もその手間で時間がかかり外貨を買うオフィスを目の前で閉められた。予定が狂ったところで少し黒い靄が心に現れていたからインドネシア入国時はちょっと緊張するものだった。

到着時間を考慮して選んだチャイナエアラインは、まったく期待していなかったにもかかわらず、機体は新しく比較的快適に過ごすことができた。台湾経由で長い時間を過ごし、泥のように疲れがたまっているその身体で辛抱強く荷物が出てくるのを待つ。イミグレーションで帰りのチケットを提示することもなく、あっけないほど容易かった事実に呆然としていた。長いフライト疲れにデジャブーを覚え、アルゼンチンはブエノスアイレスでの旅を思い出した。あの時は機内でiPhoneをチャージしておくことを忘れ、友人に連絡が取れない焦りの中、空港に働く人々が英語を話すこともなく、予約していたアパートまでの道のりはとにかく困難だった。あの辛さを思い出すと、今回の旅は楽勝とも言えるさいさきの良さを感じた。

機内はダウンジャケットを着込むほど寒かったのに、外に出てみたら一瞬にして汗が噴き出す亜熱帯気候だった。長い間この空気を夢見ていた。ドライなカリフォルニアに慣れていると湿った空気が懐かしくなる。ハワイの空気に期待したけれど、思っていたほどのものでもなくダイヤモンドヘッド周辺は乾いていた。以前プーケットで「これこれ」と思わされた私が夢見る湿った空気はアジアの島にあるのだと再確認する。日本の夏は20年経験していないから、憧れではあるけれどこの湿った空気と暑さに慣れるのにはちょっとかかりそうな気がする。




蝿のようにたかってくるタクシーの男たちを無視しながらも、どうにか人の良さそうな男性と交渉して10ドルでクタのホテルにたどり着く。空港の外でだったら遥かに安い金額で乗れるだろうけれど、大きな荷物があるのでやむを得ない。最近の旅ではAirbnbを利用するのが常だけれど、家のドアから27時間の旅の後は人とディールすることなくとにかく一人で休みたい。安宿もたくさんあるけれど、初日は空港近くの4スターホテルを予約しておいた。部屋とベッドは満足いくダブルで、涼しく綺麗でバスタブも大きく申し分ない。さっそく汗で湿った服を剥ぎ取り、すっぽんぽんでやることに取り掛かる。Wifiの接続は上手くできたけれど、ラップトップを起動させたらあまりにも遅くて面食らった。階下のプールを見下ろしたら綺麗だったけれど、泳ぐ気にはならなかった。ホテルスパをチェックして90分のバリニーズマッサージを予約する。300,000ルピー。ゼロが多すぎるのに慣れない。ホテルの外にはもっと安いスパがあるらしいけれど、とりあえずめまいを覚えるような疲労の今日はお姫様トリートメントが必要なのだからして。

バリニーズマッサージというのは、アロマオイルトリートメントらしい。4種の中から選んだそれは当たりで、ほのかな香りに癒された。担当の女性の扱いは限りなく丁寧だった。普通は少々荒くても安価でがっつりツボを抑えてくれる中国按摩が好みだけれど、バリニーズマッサージは力強いツボ押さえはあったけれど優しいストロークが主だった。終わったあとの放心感は得られなかったけれど欲求不満になるまでもなく、雰囲気も良いしとりあえずマルといった感じ。使い捨てのショーツをはかされたのには驚いた。マッサージにショーツはインドで旅行以来の経験だった。

当初の予定では夕食はルームサービスにするつもりでいたにもかかわらず、ちょっと元気が出たので夜の街に出てみることにした。路上にはたくさんのマッサージスパがあるけれど、料金が安すぎて入るのに勇気が要りそう。たしかビーチまでそう遠くないはずなので歩いてみようと思ったが、路端の男たちから声をかけられるのがうざかったし、ある程度行ったら道が暗かったので危険と断念して、その辺のローカルな店で夕食を食べてみることにした。名前は忘れたけれど、写真を見て良さそうだと思ったので頼んでみたら、シーフードのお好み焼きにカニ玉のタレがかかっているようなものだった。悪くなかった。ウエイターが向かいに座って話し相手になってくれた。パイナップルジューズと合わせて43,000ルピー。3ドルちょいというところ。

エアコンは嫌いだけれど、止めたら異常に暑いので仕方なく部屋を25度に設定してつけたまま眠ることにする。音と風に慣れない。





11/09/2015

メリとハリ

「あと、15分!」「あと5分!」

ランチ以外は食事の後片付けのあとにグループ瞑想があるので、超ラッシュで作業が行われる。なるべく仕事をあとに残さないようにしたいので、その勢いは凄い。一番大変なのはディッシュウォッシャー。その役割になってしまったラテン系の彼女に負担がかからないように、私がサブでラックに食器を盛り付けることを手伝った。キッチンマネージャがその負担を考慮し、ディッシュウォッシャー担当を交代制にしたらと提案してきたとき「雅が手伝ってくれるんだったら問題ない」と彼女が断るくらい、私たちの息は合っていた。

あの、とにかく効率よく動くために全神経を集中させるアドレナリン溢れるような瞬間は嫌いじゃなかった。その集中力には自分でも驚くくらいで、一種の爽快感がある。

「私たちはずっと同じペースで静かに過ごしていられるからいいけれど、サーバーたちはあんなに忙しくしているのにグループ瞑想に出るなんて凄いわ。どうやったらそのバランスが取れるのかしら?」

最終日にそう生徒の一人から尋ねられたけれど、我々にとったらその『メリハリ』が逆に鎮静をたやすくするのではないかと思えたくらいだった。もっとも私がボランティアに出向くまでは同様にそう懸念したものだけれど、実際やってみたらこっちのペースの方が好ましかった。リラックス感を得るために全身を一度硬直させてからという方法があるけれど、まさしく私たちの作業はそれに近いのかもしれない。

ぎりぎりで瞑想ホールに入り、体制を整えてすんと息を落ち着かせたならば、あとは内側が沈静化するのを待ち、ただ静かなモーメントを受け止める。キッチンのサーバーの仕事の合間に1日3時間だけグループ瞑想に参加することができる、という状況だから、最初からリトリートの瞑想効果などに期待するところはなく、それがかえってよい結果を生んだのかもしれない。




最初のうちは猿が枝渡りをするような『モンキーマインド』が当然として起こっていた。思いはごく軽いもので、レズビアンのキッチンマネジャーに魅惑されている自分を意識したり、キッチンの各メンバーの愉快さを思い出したりと想念は湧き上がる。そしてそれに気づいて呼吸とヴィッパサナーの瞑想テクニックに意識を戻すということの繰り返しであったけれど、だからといってちゃんと瞑想できていない自身にフラストレーションを覚えることもない。今までまったくとして瞑想していなかったので、10日間のサイレントリトリートを再度トライするよりは楽な瞑想の機会に戻れるというのがありがたかった。

ネットに繋がることは、受講生徒同様サーバーも禁止されている。しかし、空き時間にライブラリーにあるダンマ関係の書物を読むことは許されている。最初の数日は早起きと慣れない肉体労働で時間があれば昼寝ばかりしていたけれど、ある程度の余裕を覚えたある日書棚に目を通し、その中から『ディスコース要約本』をピックした。

友人がNorth Forkでコースを取ったときは、ディスコースのときに日本語訳の音声を聴いたという。しかし、私はレジスターのときにそのもう仕込みを怠ったため、着いた初日にリクエストしてみたけれど音声翻訳は与えられることなかった。創設者のゴエンカ師のアクセントはかなり強く、その難解さは生徒たちの間ではおきまりのジョークになっている。なので、私の初回コースの講義の理解度はかなり低かった。後ほど勉強という手もあったかもしれないけれど、過酷な10日間を乗り切ったという体験そのものに満足していたから、その後すっかり放置していた私だった。

それを今、就労の合間の休憩時間にディスコース要約本を読むことによって、やっと自分の中で経験と手法の意味がメイクセンスされる。ゆっくりと噛み締めるように、ときには数ページ戻ったりと、たかが薄い英語本だったけれど、わたしは注意を払って読み進めていった。そして、改めてヴィッパサナーの素晴らしさを理解するような思いだった。そして、その本を読み理解が深まった後での瞑想のセッションは更に深くなり、身体に生じる現象を理解することができ、それが日常にどう活かされるべきなのかにも気づくことができたのは、一種の感動ものだった。前回の講義中に何度も耳にし、最後まで理解しないまま終わった『サンカーラ』。それが何かを実際体験理解してみると、コース終了後の自分の生活にも更なる変化が訪れた。




11/07/2015

My peopleを知る

ざわめいたダイニングを逃れリラクスしたムードのキッチンに戻ってまったりしていると、オフィスマネジャーがやってきた。

「あなたたちは今まで一番のハーモニアスなグループだったわ」

そうちょっと目を大きくしてそう何度もうなづいた彼女に我々もにこやかに笑う。本当にそうだ。この12日間のキッチンのボランティアワークは毎日が本当に楽しくて、このままずっと続けていたい気さえした。




Day 0とDay 1に外部に住むキッチンのスーパーバイザーがやってきていたが、オリエンテーションの後は役割を任せられた我々だけでマニュアルに従って日々の作業をこなしていった。そのよく出来上がったシステムとマニュアルの分かりやすさで、いきなり集まったボランティアたちで毎日素晴らしい食事を生徒たちに提供することができたのに感心させられた。

キッチンマネジャーになったのはボーイッシュで可愛いレズビアンの女性。一番若いのは23歳のスイスからやってきた192cmののっぽな男子。彼は一緒に旅行していた同じくのっぽなオレゴン青年と参加した。多分に40歳くらいの白人男性は元外交官でスペイン語堪能。4ヶ月前に NYからベイエリアに引っ越してきた。私より年上の白人女性は著名な航空会社のパイロットだった。人生初めて出会った女性の航空機長というのは世界でも3%に満たないらしい。彼女は海上汚染で被害に遭っている動物を救うボランティアに通じていた。若いベトナム系アメリカ人の女性は政府関係の仕事についていたのに、その世界に嫌気がさし、今は放浪の身となっている。ラテン系女子もやはり最近ベイエリアに移り住んできたアーティスト。誰もが2週間近くの時間を自由に使うことができる自由型ライフスタイルの人々だった。最初と最後の4日間だけパートタイムでやってきたボランティアがいて、その身元までは知らなかったけれど、彼らは今までに20回以上も10日間コース参加を果たしていたツワモノだった。それなのに決して知ったかぶりも上からの物言いもなく、ごく普通で謙虚であるとさえ思わされる存在だった。

スイス人の青年は人々に「これを英語でどういうのか」ということをいちいち尋ねていて、そのあっけらかんとした性格がキッチンに笑いを生み出していた。彼の存在は、外国人である私の気持ちをとても楽にしてくれた。セミナーなどに参加しても、たった一人の外国人でいたりすることや英語の勘違いで違和感や緊張感を覚えてたりしてきたけれど、今回は今までになく自分がグループの一人として属している心地よさを感じていた。

『日本人+ダンサー+離婚したての自由人』というのが、彼らから見た私のアイデンティティーだ。毎日80人分のご飯を炊くこと、ダイニングホールモニターとして常に生徒たちの食べ物に不足がないかをチェックするの係りを任された。他の仲間たちと違ってちょっと色味のある服を身につけている私は「日本人ぽい格好だよね」と嫌味ではなく告げられ、足早でホールとキッチンを行き来する私をからかって、ボーイッシュなレズビアンのキッチンマネジャーが「キャットウォーカー(モデル歩き)」と名付けた。

ちょっと面食らった事柄としては、キッチンでヘアバンドですっぽりと髪を隠していたすっぴんの私を見て『怖そうななおばさん』と印象を持った、と若いオレゴン青年が最後の二日くらいのときに打ち明けてきたこと。

「人って知ってみないとわからないよね。君がこんなにスィートだなんて思えなかった。髪を下ろすと素敵だよね」

そう露骨に言った彼の言葉に若さを感じたが、シャイなのだろうと思っていた口数少ない青年が、後半は私の周りを笑顔でちょろちょろして、挙句には「スィートマンマ」と呼んできたのには可愛いと思わされた。




グループの中で気後れする傾向のある私が、ここまで心地よさを得ていたことに一種の驚きを覚えていた。「これがMy peopleなのだ。この感覚の人々こそ私が属する仲間なのだ」という再確認さえしたように思える。それがこの場の人々のせいなのか、それとも自分がどんどんまろやかな精神状態に変化してきたゆえの結果なのかはわからない。ただ思うのは、ある時期から私が出会う人々に波長の違和感を覚える人が少なくなっているということ。多分に自分の生き方の選択の故ではあるけれど、毎日瞑想をするたびに、幸福感にみちた現在に満足する自身と遭遇していた。

誰かの発言や行為で反発が生まれるようなことは起きなかったが、そういうことはよくあり得ることらしく、この期間に鬱っぽくなったりするサーバーが相談にくるのは普通なのだと、夜のミーティングでそうアシスタントティーチャーが告げていた。毎晩、生徒たちの最後の瞑想が終わった9時に、サーバーたちの反省会を含む『メッタ』と呼ばれる瞑想がある。1日を振り返り、自分がもしかして傷つけてしまったかもしれない相手に許しを請い、自分が傷つけられた相手を許し、すべての人々の幸せを願うという瞑想だ。それをしても、毎回特に何も思い浮かばなかった。そして、その後にAT(アシスタントティーチャー)に1日の報告をするのだけれど、マネジャーはいつも問題なくスムースなオペレーションを報告するのみだった。それが自分たちにとっても誇らしくいつも私たちには笑顔があった。

事実最初の二日ほどでそれぞれが己のしたいこと、向いたことの作業に取り掛かり、自然に各自の仕事が落ち着いた。流れは穏やかでスムースで誰もが作業を楽しみ、軽い会話もあり、お互いを助け労わり感謝する言葉が添えられていた理想的な就労環境だった。だからと言って、宗教色強い不気味にいい人という雰囲気ではなく、誰もが自分を持っていて、ポジティヴに自由に生きているかの雰囲気を持っていた。深いところの闇はわからない。でも、少なくとも協調性のある『和』を大切にできる素質を持つ自立した精神を持った人の集まりで、そこにはナショナリティや年齢を超えた一体感があった。正直、この経験により『コミュニティライフ』に私の関心が大きく傾き始めた。
「以前の経験ではコントロールフリークなサーバーもいたことがあったよ。それで場が緊張したりしてね」

帰り道を相乗りさせてサンフランシスコまで送り届けたベトナム系アメリカ人の女性が車中でそう語っていた。タイミング的にも多分に私はラッキーなのだと思う。




11/04/2015

11日目の朝


いつもよりもずっと早い4時半起床の11日目。生徒たちのスケジュールに合わせて瞑想をし、ディスコースという講話のDVDを聞き、コースのすべてを一緒に終了する。6時には荷物をまとめてダイニングホールに向かう。我々食事を作っていたサーバーと呼ばれるボランティアたちは、今日はもうエプロンをすることもなく、朝食を済ませれば後はすべてコースに参加した生徒たちに後片付けをお任せしていつここを離れてもよいことになっている。

男女のスペースを仕切っていたカーテンが解き放たれ、ダイニングホールには明るいざわめきが響いていた。キッチンにサーバー用の朝食はセットされておらず、他のサーバーたちははホールに出て行って生徒たちと適当にソーシャライズしていた。

「あなた、その被っていたスカーフでわかるわ。いつも見ていたの。まるで石のように微塵として動かないその姿に触発されていたのよ。凄いわ。きっと熟練者なのね」

トーストにジャムを塗ろうとしたその横で生徒の一人が話しかけてきた。我々サーバーは、グループ瞑想のときに瞑想ホールの正面壁際に横向きで座るので、嫌でも生徒たちの視線を浴びることになる。とは言っても、瞑想が始まれば目を瞑っているのだから、彼女が私が石のようだというのも不思議なところだが。多分に彼女はディスコースの最中の私を意味したのだろう。正面モニターの真下に座っていたから画面を見ることもできず、ただただ瞑想状態でその音だけを聴いていた私だった。

「熟練なんてそんなことないです。私はまだコースを一度取っただけだし。このサーバーのボランティアで2度目なだけですよ」

そう応えると彼女はとても驚いた顔をした。

「ナチュラルっていうのも違います。前回のコースを取る前は15分の瞑想にも耐えられない私だったもの」

そう告げると、彼女は更に驚きを隠しきれないようだった。




私の言葉に偽りはない。ビッパサナーのコースをとり10日間の修練を重ねると、1時間まったく動くことなく瞑想を続けることが可能になる。そしてそれは多分に、自転車に乗るのを身体が覚えるのと同じかもしれず、6月のコース後まったくとして自主的に瞑想をすることなどしなかった私が、8月末の禅センターで苛立ちや苦しみを覚えることなく1時間瞑想できたことで気づいたことだった。

このセンターで出会った男性が、やはりヴィッパサナーの経験者であり、最初のコースの後サーバーとして戻ったという話をしてくれたことで今回の私の行動が起こった。てんでだらしのない生活をしていたから、果たしてあの早起きの生活をこなせるのだろうかというちょっとした懸念はあったけれど、マインドセットしたとたんに私の脳内の波長が瞑想時のそれに変化したことを意識した。あの当時の感覚を思い出しただけで、意識レベルが変わった。

瞑想には常々興味を持っていたけれど、まともにできたためしはなかった。たしか2011年に震災後のストレス時に本を読んでトライしてみたけれどまずできなかった。地元にある超越瞑想の門をくぐってみたときもあったけれど、当時インタビューでピンとこなかったのと1500ドル払ってマントラをもらうと言われて気がそがれてしまった。時々座禅の会に参加することはあったけれど、興味本位の一時的な体験に過ぎない。

今年になってハワイでヨガコースを取っていた時、週3回から4回の瞑想の記録をつけるのが課題になっていたけれど、15分も持たないのが常だったし、やらずにいて適当な記録をごまかして記載したこともある。そのくらい、自分は瞑想ができていなかった。

それが今座布団に落ち着き、太ももの下にさくさくと補助のクッションをあてがい手を落ち着けたその瞬間から「サドゥー」の言葉を唱えるまでの1時間微塵も動くことない。たとえ顔の肌がむず痒いだろうが、鼻水が垂れようが、体に痛みが走ろうが、私はその感覚だけを観察する。




後ろに座っているサーバーの仲間が私を「サムライ」と笑った。まるでマーシャルアートのような動きをするというのだ。ホールに入り座って身体を落ち着けるまでの動き、膝にかけていた毛布をたたみクッションを外し座布団に重ねて退出するまでの動きにそれを感じさせるらしい。

確かに二日も経つと、繰り返されるその所作に無駄がなくなってきたのは自分でも意識できた。ぐちゃぐちゃあちこちを何度もいじって直したりせず、『手刀を入れる』という言葉があるように、さくっと一発の動きで用をたす。数年遊びで習っていた着付けの『道』が私の身体に染み込んでいることに気づいた。