3/31/2014

ダンスクレイビング



家族の中の集団生活にもだいぶ慣れてきた。家には暗黙のお風呂の順序があり、後がつかえるのでどんなに面白いTV番組の最中でもさくさくとお風呂に入る必用がある。最後に長女姉が風呂に向かい、TVを見ながら化粧水を顔に叩いていた私が寝室に向かう前にリビングのTVを消すことになる。そのときに誰もいないリビングでいきなりCMの音楽に合わせて踊りだす私がいた。

アメリカでの生活ではどんなに辛くてもダンスのクラスを取ることによって支えられて来たと行っても過言ではない。どうしても帰国を早めなければならない状態になっていても、ダンカンダンスのワークショップだけは全部とりたかったので、最終日の翌日に日本へと発った私だった。

このワークショップの間にスタジオでピアノリサイタルがあり、そのうちの一曲のショパンのナンバーに合わせてダンカンダンサーが踊るというコラボがあった。パフォーマンスをしたいかどうかという生徒の意思に関係なく、いつのまにかそれに出演するという流れに乗せられて「は?」みたいな感じだったけれど、それでも抵抗なく久々にパフォーマンスをした。

他のダンカンダンサーがみな若くて痩せているので、いつも一人だけ中年のおばさんが混じっているという、ちょっとだけ居心地の悪さをいつも感じていた私だった。でも、今回はすっかり痩せてしまったので、やっと他のダンサーとつりあう体型になったようだ。写真を見ても違和感を覚えない。







ワークショップの最終日には課題の発表がある。今回の課題はイサドラダンカンの自叙伝『My Life』の中から印象深かった箇所を紹介すること、そしてショパンのナンバーから自分の好きな曲を選んで創作ダンスをすることだった。

創作ダンスの発表は2013年の夏のワークショップが初めてのトライだったけれど、結構楽しくできた。ブログで紹介することがなかったのは、ぽっちゃり太めが恥ずかしかったからという理由にすぎない。今回は前回のような勢いがなくぎりぎりまで曲選びができず、最後に心境にぴったりなのが見つかったのがちょっと悲壮感を感じられる『Prelude E minor』だった。眠りにつく前にエンドレスで何度も聴きイメージを膨らませ、ダンスに『喪失』という題名をつけた。

自分がCDに焼いたMP3の録音とスタジオのデッキの相性が悪く音が飛んでしまったために、師匠のライブラリーから違うアレンジの曲で再度踊り直したから調子が狂った。まぁそれでも頭の中のイメージをインプロで表現出来たと思う。最後の部分は考えていたものと違う動きになってしまったので、中途半端に終った感じがある。これも後3回程踊り込めばまともな振り付けになることだと思う。

録音状態が良くなく、最初は音が小さいが途中で大きくなるので注意




サンフランシスコでワークショップを修了すれば、Mary Sano女史は日本でワークショップを行なう。今回は3月と4月に二日ずつあり、3月のそれは家族と過ごしていてパスしたものの、過ぎてからやっぱり参加したかったという強い渇望を意識した。次回のワークショップは4月の5日と6日秋葉原のスタジオであるけれど、それには参加表明をしている。

折角上京するのだから、他のダンスの機会もということで土曜日にはアルゼンチンタンゴのミロンガにも行ってみるし、8日に銀座で行なわれる日本唯一の5リズムのワークショップにも参加を申し込んで『ダンス上京』となる。今からもう凄くわくわくしていて、その日がとても待ち遠しい。




3/28/2014

『いまここ』の悟り


最近つくずく思うのは、自分の嗜好、欲求、望みなどは本当に当てにならないということ。柔軟さというのは持ちえているとは思うけれど、若い頃から『信念』というのは強くあったように思えるし、認めたくはなかったけれどそれゆえに『頑固』とも言われたこともある。強い『欲』があるからこそ目標は定められたし、それを手に入れたいという『情熱』もあった。でも、ここ数年の間に『自分の中の常識』や『そうであると信じていた自己』がことごとくくつがえされる事件や気づきがあったりして、それを経験してきた今現在、自分の発する思考や言葉の信憑性はかなり薄れてしまう。それを『自分が信じられない』と言うのはとても語弊があると思うのだけれど、多分に『常に変化する自身を受け入れている』というのが、今の心境にぴったりの言葉だと思う

だから断定的な言い方をする人の言葉にある一種の若さを感じたり、または発展途上のような感覚を覚えるというのも、最近の新しい感覚かもしれない。更に夫に限っては、こちこちの頑固さに『退行』を強く感じさせられる。それはもう理屈で説明し理解させるレベルではないし、そういう他人の言葉や意見に何を言い返す私でもない。なんとなくそんなところにこだわらずに『聞いてるだけ』という反応をするだけになった自身の変化にも気づいている。自分の意見がないわけではなく『それぞれの宇宙』を大いに尊重している。そして相手に理解してもらいたいとか欲求もだんだんと減って行く。そういう欲求を持つ前に理解してくれている、同意してくれている人々が周りにいるので安心していられる自分なのだと思う。あえて言えば夫だけが、その葛藤や摩擦の中で不自然なくらいに相容れないエネルギーが近くに存在しているというだけ。数年どうにかして関係の修繕を勤めてきた私も彼の不機嫌さを和らげることはできなかったし、恨みつらみをぬきにして『自然現象』としてその別離を受け入れることになりつつある。




去年の秋頃は現在のこんな展開をこれっぽっちも予想していなかった。友人が日本に一時帰国をして美味しいもの食べ尽くし、楽しいことやり尽くしの写真をFacebookにアップしているのを見ても特に呼び起こされる感情もなく、日本にこれっぽっちも帰国したいとか思わなかった。もちろん、自分がそうしたければそうできる時間や経済的な自由を持ち合わせていても、にかかわらずだ。年老いた母親の状態を考えれば、そろそろゆっくりと時間をかけて実家に滞在する機会をつくるべきだと思っていても、面倒な気持ちが先に立って、多分に今年の秋くらいには帰らないとまずいだろう、くらいの気持ちでいた。

それが急に春に帰ろうと急に思い立ったのは、自分がまだ今年『大殺界』にいることを知ったから。やっと『天中殺』が終ってほっとしていたにもかかわらず、大殺界が終ってほっとしている友人を知って自分も調べてみれば、私にはまだ後一年残っているそれに気づいた。細木女史が先祖供養を強く訴えていることを知って父親の墓参りの必然さを感じたのは、夫と離婚問題が勃発して、それこそ苦しいときの先祖頼みで亡くなった父を味方につけようという小賢しい考えに他ならない。でも、大殺界なんて今まで信じたこともなかったし、本屋に並ぶ彼女の占い本を人生一度として気にしたこともない私だった。


彼岸の中日に父の墓参りに行った。今回の一番の目的を果たしたような気持ちを得た。毎月墓参りに行ってくれている義兄のお陰で、父の墓は周りのどれよりも整然として美しかった。鎌を持参していたので何かなと思ったら、長女姉が砂利の中に生えて来ている雑草の根をほじって除去していた。父の墓が美しいオーラを放っているのはそういう理由なのだと納得する。家の仏壇も絶え間なく花が生けられ、毎朝家族のひとりひとりが、訪れる姪が、線香をあげて父に祈る。ごちゃごちゃ小さな物がいろいろ飾られてるけれど、こまめに掃除する母のおかげで家の中はとても清潔でよいエネルギーが満ちていて、あぁ、この家は守られているな、と実感する。おまけに飼い猫のあずきは家族から一番よいエネルギーを引き出す天使の役目を果たしている。家の中には本当に良いエネルギーが循環している。





ボランティアのコミットメントをキャンセルし、既に購入してしまった4月発のフライトチケットに変更料金500ドルを追加してでも帰国を早めたくらい、心身共に健康状態は酷く悪かった。実家に戻っても、夫のことや今後のことを考えるとパニックアタックを覚えていたし、毎朝の動悸やしびれ感も随分続いていた。このまま負のスパイラルに巻き込まれていく一方ではないかという不安や、一時は本当にやばいと思っていた激やせも、家族の愛情ある生活の中で癒され、一週間でめきめきと体重を取り戻し、二週間を過ぎた今現在は顔もすっかり丸くなり今までにない穏やかな幸福感を実感している。冬はあんなに辛かったけれど、彼岸を過ぎて私の世界は急に変わった。アメリカに居た当時の辛さをもう体感で思い出すこともできないし、離婚問題もまったくとして現実感がない。思えばあれは『感情のデトックス』だったのではないのかと思えるくらいだ。

4、5年前までなんだってあんなにしかめっ面をしているんだろうと言われていた母は、「幸せだよぉ」と毎日充実した忙しい日々を送っている。更年期鬱に悩まされていた長女姉は毎日信じられないくらい良く旦那さんや母と会話をしているし、飼い猫のあずきに対してこちらが恥ずかしくなるくらいの甘いすっとんきょうな声を年中張り上げている。決してグルメな実家ではないけれど、全ての手料理は懐かしい味で『みんなで一緒に食べる食事』に、私はこのうえない幸福感を覚えさせられる。退屈な人々が住む実家のあるこの街に住みたいなど生涯感じたことはなかったけれど、プレッシャーのないこの土地の『普通さ』がやけに新鮮で、私の中で『この土地に戻り家族の近くに住む』というのはかなり可能性のある未来のオプションにさえ変化しているという事実に不覚にも驚愕する思いだ。




先日甥が幼少期の親の育て方の不満と彼自身の不幸さを訴えたけれど、それを一笑にふした私がいた。彼の言葉がまったくとして自身のそれと一緒だったから。私自身も母親に対する恨みつらみを抱えて自身を不幸だと思って30代の終わりまで過ごしてきた。そしてその影響で子供を産み母になることさえ拒否した人生だった。

「私は子供を産まないことが生きてるうちにできる最善のことだと思っていたのよ。だって知ってることしか伝えられないじゃない?確かに『ばぁ』もあなたの『かぁ』も子育ては下手だったのは認めるわ。でもね、考えて見なさいよ。私は過去にいろいろあったけれど、今はこういう人間だし、あなただってそれなりの成人になって、ばぁとかぁと親父をドライブに連れ出し昼食をごちそうし日帰り温泉に招待するような旅行に連れ出すような親孝行のいい息子になってるじゃない?あなたのかぁだってばぁにとんでもない仕打ちをされたような人生であっても、ばぁが手放しで幸せだと言える老後を過ごせる同居娘でいるじゃない。まったく不公平だわとか思うけれど、でも、子供って親の育て方にかかわらず、それなりに自分で学んで人生築いていくんだっていうことが解ったのよ」

『自業自得』の言葉さえも当てはまらないかもしれない、そう笑って言うと、それで甥自身も『生い立ちは言い訳にならない』ということに凄く納得したようだった。




私より一足さきに日本帰国をしてきたダンス仲間が「日本に居るのも2週間でちょうどいいという感じかな。それ以上はちょっと辛いかもしれない。でも、思えば前に4ヶ月滞在したことあったのよね。2週間を過ぎて更に長い間いると、慣れて日本も悪くないかもしれないって思うのだけれど」と言っていたけれど、私の今回の帰国結果もまったくとして予測不能である。先のことなんて本当に解らないし、自分の思考さえあてにならないから人生計画も立てられない。それだからこそ、確かに信じられるのは『今自分は何を感じてるか』でしかないし、過去にも未来にも思考を合わせることがナンセンスに感じられるようにやっとなった。これこそ『いまここ』の悟りなのかもしれない。




3/27/2014

髪蘇る、身体参る、東京


体毛を持つ動物である以上、その毛並みには年齢が現れるしそれが美の基準にもなる。前回ブラジリアンブローアウトのトリートメントを受けた直後は、『金持ってる女』という雰囲気が漂うくらいだったけれど、やがてそれもフェイドアウトした。サロンでは3ヶ月に一度の施術が必用と言われたそれも、それ以上結構長持ちしていた。あれから半年くらいはもう経ってしまっていただろうか。かなり厳しい状態になっていたけれど、日本帰国の機会に再度『ヘアドクター』に通うつもりでいたので、どうにか我慢していた。

実家から最寄りの駅まで早朝にママチャリこいで15分。電車に揺られて2時間。てこてこ10分くらい渋谷の駅から店まで歩いて予約時間の12時に辿り着いてみれば、オーナーのJoeさんがとても怪訝な顔をして出迎える。なんと、したつもりの予約が入っていなかった!!!全身からもう冷や汗ぶわっ。オンラインで予約したつもりだったのに、多分に最期のコンファームのぽっちでも忘れた私だったのだと思う。本当にオンラインブッキングの便利さゆえに怖いところ。幸い3時から空いていたので受け入れてもらえたけれど、サロンは大変に小さくJoeさんとアシスタントさんの二人きりで椅子も二つだけ。もしかしたらどうしたって無理な事態もあり得たから、本当に『ボケ中の幸い』としか言いようがない。

「本当にお騒がせして申し訳ありません。じゃぁ、3時に戻ってきますね」

東京へは黒のロングブーツででかけたし、まだ周りでも冬のブーツを履いている人は多かったけれど、陽気は春のそれでかなり暖かかった。この分でいくとロングブーツを履いていられるのもそう長くない。かといって素足にサンダルにはなれないので、この季節の日本滞在は靴に気を使うところ。これがベイエリアなら季節感がないので、サンダルかロングブーツかのどちらかでドレス姿がキマルものなのだけれど。

滞在中はとにかく歩きまくるから、ショックの少ないゴム底でストッキングのつま先が隠れるストラップ付きのデザインのものを探していた。東急デパートまで戻り靴売り場を当たってみるけどなかなかこれといったのが見つからない。ハチ公前に出て西武デパートをめざし、それからマルイへと移動した。渋谷は苦手なくせに、毎回何故かしらそこに出て行く用事ができてしまう。スクランブル交差点のエネルギーは恐ろしく悪く気分が悪くなるので地下を通るようにしているが、やはりマルイを目指しながらも同様な気分の悪さを覚え、動悸がして身体が震えた。週末の混んでいる時に渋谷の繁華街を3時間もうろつくなんて、私にとっては自殺行為に近い。水分不足もあるかと思い、店に戻りながら売店でヴィタミンウォーターを購入して歩きながら飲んだ。

結局はマルイオリジナルの『ラクチンきれいパンプス』の6.5cmヒールを購入した。色はエナメル質のライトベージュ。ぐにゅぐにゅ曲がるゴム底の当たりの柔らかい軽い素材で、お値段の7,900円とお手頃。どうせアメリカに戻ったら履くこともないだろうから、旅行用ということで丁度良い感じがする。

「もう3年分歩いてきました」とJoeさんに告げて、やっとのことで髪のトリートメントを受けることになる。プレミアムトリートメント、カラーリング、カットという施術に4時間以上かかるお尻イタイタの『美』の為の苦行。でも出来映えはやはり満足のいくものになった。頭には『天使の輪』ができ、指の通りもするするで絶頂モノ。それ以前のばりばり毛先は思い切って切り落としてもらって、すっかり『毛並みの良い女』になった。




友人との待ち合わせまでにTsutayaの本屋で人気ブロガーが出版した本を探してみるものの、見つけることができなかった。本はオンラインで購入する私なので、本屋に出向くというのは珍しい。それにしても世の中にいったいどれだけの本が出版されるのかと思う程、その量にくらくらする思いだ。特にコミック本のその量といったら!6階のWired Cafeは本屋なのに照明が暗過ぎて、待ち合わせの時間つぶしに本を読むのが難しいという皮肉な現象あり。仕事の為待ち合わせを一時間ずらされて友人登場。今回は時間のロスが本当に多かった。最上階のレストラン『ぷん楽』に友人が予約を入れておいてくれたが、レストランに入るや否や煙草の匂いがしたので驚いた。未だにテーブルにも灰皿があり、日本はまだ喫煙者天国だとつくずく思わされる。

最終電車のひとつ前の東横線はまるでラッシュ時のように混んでいた。気分が悪くなりそうになりながらも、「こんな生活信じられない。もう嫌だ」と友人にこぼしている若い男性の声を耳にして、人々は慣れて何も感じなくなっている訳ではないのだなと少し安心した。友人が新しく引っ越したブティックマンションのストゥーディオはペットOKのとても機能的で美しいデザインだけれど、やっぱりその狭さには驚かされる。遠い昔に大阪で一人暮らしをしていた自分を思い出した。今後再度また一人暮らしをすることになるかもしれない自分を想像してどうかなと思う。まぁ『住めば都』っていう言葉もあるし、慣れってあると思うけれど。




翌日は友人と自由が丘に出て、私のリクエストで蕎麦を食べた。『二八庵さらしん』には店の中から外まで客が順番待ちをしている人気店。回転は結構早い。確かに美味しかったけれど値段は高いと思う。それから友人に美味しいスィーツの店に連れていかれた。アメリカ人なら二口で平らげるその小さな一切れが600円近いというのにも衝撃的なくらの感覚を覚えたけれど、それも滞在中にはすっかり慣れて普通に感じられるようになるのだろう。辛抱強く席が空くのを待っていると、友人がしびれをきらして隣のベーグルカフェに移動しようと誘ってくれたのでほっとした。あの狭い店内での順番待ちでも精神的に辛いものを感じ始めていた。日本人の『美味い物を食べる為に列を作って待つ』という執念って本当に凄いと思う。

ベーグルカフェで席に落ち着きふと周りを見回して驚いたのは、そこに居た女性の全ての人がみな一応に同じ雰囲気で同じオーラを発していたということ。よく見れば違う人なのだけれど、でもほぼみな同じ感じがする。そして『美人だけどおかま顔のF』と『派手なドレスを着た何系にも属さないおばさんの私』は完全にそこの空間で浮いていた。多分にあれが自由が丘あたりに群れる社会的に幸せな奥さま~んを装った主婦の姿だと察する。




4時半に大宮に移動して、ブログ読者の方と初顔合わせする。彼女は私のブログを読んでダンカンダンスのMary Sano女史のショーに出向きその感想をメールで送ってくれ、初心者レッスンも取ったと報告してくれた。彼女が練習用チュニックを作って写真を送ってくれたので、それに触発されて私も新しい真っ白なチュニックを新調するという流れにもなった。いろいろ話は弾む中、やはり私のブログの読者だけあるな、とつい笑ってしまった。決してメインストリームの中に混じるタイプではなく、沢山のお魚が左向く中でいっぴきだけ反対方向を向いているようなタイプ。だから、前回のオフ会でも集まった読者の方同士は似たようなタイプが多く、あっさりと打ち解けてしまったのだと思う。

家へのお土産は駅の売店で買った横浜プチ・フルールの『ふわふわたまご』。そのドーム型の可愛らしさに惹かれて何か解らずして購入。いかにも私らしいと長女姐が喜んでくれた。家で食べてみたら味はふわっと軽いスフレチーズケーキで大満足。でも暫くはもう人混みには出たくない。



3/25/2014

日光でデート 2

目指した『カフェレストラン匠』は金谷ホテルに続く坂道の入り口の角にある。駐車スペースはごく3台というところだけれど、幸いにも空いていたのでパーキングを探すこともなかった。階段を上がって入り口に行くと、埃を被ったサンプルケースがあり、古くさい引き戸の前でちょっとびびる私がいた。中に入ると、確かに『昭和レトロ』そのもので、馬鹿にしていた甥も「おぉ」と低く感心した声を漏らしていた。柱の上部にある東照宮で見るようなカラフルな彫り物の飾りが特に印象的で、私たちは眺めのよい窓際の席に案内された。やっといけるトイレにほっとしたけれど、その道のりは結構遠く、途中骨董品が積み重なる場所もありその保存状態はあまり良いとはいえない。辿り着いてみたら女子トイレは蔵を改造したものかと思うような造りだったのでちょっと感動した。でも、中は久々に遭遇する和式トイレだったので、かなり戸惑った。

 

左上から:カフェレストラン匠外観、昭和レトロインテリア、湯葉グラタン、女子トイレ入り口





私は正統派メニューの湯葉グラタン、甥はカツレツをオーダーする。ここで私は改めて甥に自分が実家に帰って来た理由を語った。彼は私の夫に会っているので説明をする必用があった。彼はまっすぐに私のことを見つめて話を聞いていたけれど、他の家族は知っているのかどうかを確認しただけで特に彼自身の意見はなかった。

「知ってる。最初にメールであなたの『かぁ』に相談してて、身体を壊したので早くこっちに来るように言ってもらえたの。こっちに来て翌日にも『ばぁ』にも話したわ」

正直母に話すのは心が痛んだ。しかし、我慢を強いられることもなく説教されることもなく、ただ経済的な心配をちょっとされたくらいで状況を受け入れられたことには本当にほっとさせられた。

食事が済んでからも結構長話を続けていたけれど、店はほぼがら空きだったのでのんびりできた。会計は甥がしてくれた。年下の男がジェントルマンに支払ってくれるというのはやっぱり嬉しい。外にでてクルマを残したまま金谷ホテルをめざして坂道を上る。名前が有名にもかかわらず、その場に足を運ぶのは初めてのこと。格調高い古いホテルでロビーの右側にある客室の建物は見事なもの。『百年カレーパイ』をここで買えるのかどうか入り口で確認してみると、焼き上がると同時に売り切れるのでとりあえず入って左側のギフトショップに行くようにと案内される。この小ささで一個315円という値段にぎょっとしつつ、トレイに7個残っているだけだったので家族と姪夫婦のために全部買い占めてしまうことにした。

トイレを目指して軽く館内を見学し、再び坂道を降りてくると、先ほど食事したレストランの一階が金谷ホテルベーカリーなのに気づいた。多分に『百年カレーパイ』は日光市内のあちこちにあるベーカリーで買えるのではないかとも思う。後ほど家で食べた感想は、確かに百年カレーの味はコクがある味わい深いもので、その辺で食するカレーパンのそれとはまるで違う。

「次はどこに行く?」
「明治の館のチーズケーキでお茶したい」

昭和レトロの次は明治で攻めたい私だった。小さなテーブルも空いていたのに、暖炉の前の4人席の丸テーブルに通された。客は若者が多く、中で一組上品な老夫婦が食事をしているのが目を引いた。店の雰囲気にはやっぱりそんな客が似合っている。

「食事じゃなくてお茶だけでもよろしいのかしら?」
「よろしいんですよ」

甥がそう応えたので笑った。私はオリジナルメニューのニルバーナというチーズケーキと紅茶、甥はスコーンとコーヒーをオーダーする。ウエイトレスは正統派メイドのユニフォーム。ここでは私たちは会話も少なく静かにデザートを頂いた。甥との沈黙はまったくとして気にならない。沈黙を気持ちよく共有出来る相手というのは少ない。夫との沈黙は苦痛この上ないというのに。

 

左上から:明治の館外観、特性チーズケーキ『ニルバーナ』、金谷ホテル客室別館



次はいろは坂を登って中禅寺湖を横目に『湯滝』を目指す。途中甥はクルマを湖のほとりに停めて『中禅寺湖チェック』をした。釣りが解禁になるのが待ち遠しく、そしたら毎週通うのだそう。春はまだ寒いけれど、夏の間に夜中に出て朝焼けの中でする釣りは最高なのだと。甥が桟橋まで出て行って湖をチェックするのを、私は遠くに道路際から眺めた。冷たい空気の中で春の日差しを暖かく感じ、とても静かでこの上ない解放感だ。魚が釣れるかどうかは問題ではなくそこで瞑想をするように時間を費やす事が目的なのだ、と甥は語ったけれど、それが良く理解できるようだった。それを彼に告げると「素敵でしょ」と甥はにっこりと笑った。

前回の冬の帰国時にはやはり彼と一緒に日光に来て滝巡りをした。そのときには『湯滝』の下の展望台に通じる道が雪で閉鎖されていたので、道路際から眺められる上部を吹雪の中でちらりと覗いただけだった。今回は道路の雪はのけられていたけれど、両脇に積もっている雪の量はやはり結構なもの。展望台までの小道も凍っていて、滑るので慎重に歩かなければならなかった。

「日帰り温泉にでも入っていく?」

前回と同様、帰り際に甥が尋ねてくれたけれど今回はパスすることにした。先日近所の温泉に行ったばかりだし、なしにろ化粧水とかの準備もしてこなかったことだし。

ドライブ中に眺める日差しの中にそびえ立つ男体山の姿は雄大で素晴らしかったけれど、地面に雪が積もった枯れ木の禿げ山も面白いアウトラインを描き、まるでイラストのような興味深い風景で心が躍った。遠目に山を見て感動しながら、時折子犬君とでかけたシャスタ山の旅行を思い出していた。やっぱり甥と子犬君はどことなくかぶってしまう。



左から:湯滝、雪が残る山の風景 







3/24/2014

日光でデート 1


実家に戻って来てから一週間が経つ頃さすがに退屈さを覚えてきた。家に引きこもったままで、外出したのは近所にある温泉の総合浴場に一度でかけたきり。そんなとき、甥の休みが明日だと聞いた。

「ねぇ、明日の休み、何か用事があるの?」
「別に。クライミングいこうと思ってただけ。どこか行きたい所があるんだったら連れて行ってやるよ」
「やった♪ 別に何処でもいいのよ。あなたとのデートはいつも楽しいから」

私が実家に帰省すれば、甥がデートに連れ出してくれるのはもう恒例の行事になっている。デートといってもドライブなので行く所も那須、日光、益子など近場に限られているけれど、それでも一日を一緒に過ごして個人的な話を打ち明けてもらえるのはとても嬉しい。以前『大食いなでしこ』をYouTubeで視ていた時に『日光グルメシリーズ』をやっていたのを思い出して、再度それを見直してリストアップしてランチデートの目的地を決めることにした。

日光わらびのハンバーグ定食
金谷ホテルの百年カレーパイ
シェ・ホシノのニジマスソテー
かまやカフェデュレバベールの日光丼
カフェレストラン匠の湯葉グラタン
日光くじら食堂のカルボナーラ
華厳の滝のみたらし団子

一回のランチをここから選ぶのはなかなか至難の業だけれど、カフェレストラン匠のレビューが『昭和レトロのインテリア』というのに惹かれてここにすることにした。グラタンというのもここ暫く食べていない。ちなみにニジマスのソテーは「一皿3500円だぜ。俺が釣って来て料理してやるよ」という甥に従って最初から候補から外しておいた。




甥は一年くらい前に、彼女と別れたというメールと共に大きな魚を鱒をつりあげて得意気な写真を送って来たきりで、その後うんともすんとも言って来なかった。私の勘では、きっと別れたと告げておきながらヨリを戻したのでバツが悪くなってメールを送らなくなっていたのかと睨んでいたので、今回のデートは興味深かった。

甥との外出でも念入りに化粧をし、髪を巻き、ドレスを着用してちゃんとしたデートの仕度をする。正直甥にとっては『綺麗な叔母』と思われたい。クルマを出して暫く、私が彼に別れた彼女の話題を切り出すと「クッソめんどくせぇことになってる!」と甥が悲鳴に近い声を上げたので私は大笑いした。さぁ、このデートは楽しくなるぞ~。

話をかいつまんで言えば、別れを切り出したものの彼女がすっぱりと別れさせてくれず『友達としてたまに遊べ』という命令が出たらしい。一日に何度も来るメールのおかげで釣りも安心してできなかったけれど、一応別れたということでしつこいメールはスルーするようになったから、次第にその数も減ったらしい。が、月に1度2度会うのは続いてるとのこと。

「一度すっぱり別れてしまった方が、寂しくなったりして良い所を思い出したりもするし、ヨリを戻す率も高くなるんだけどなぁ?」
「だろう?そう俺も言ったんだよ。でも、別れるのはダメ、の一点張りで、ごねられると俺もうんって言っちゃうからさぁ。2時間くらい会って帰りたいんだけれど、帰るときになるとぐちぐち文句言われて、酷いときには泣きが入るんだな。実は…夕べ遅かったのも、彼女とガストで飯食ってたんだよ」

そこで私の爆笑が入る。甥は情けないような顔で運転を続けた。

「会う毎に嫌いになる。こんな面倒臭いことになるとは想像していなかった」
「そんな相手と会って何話してるの?」
「話してない。彼女が勝手にしゃべってるだけ。で『あなた、私の話聞いてないでしょ?』って言うから『聞いてないよ』って言ってまた怒られて。それで会ってて何が楽しいかと思うんだけれど、それでも諦められることなく会いたい言われるんだな」
「まるで、長年連れ添った夫婦みたいね。まぁ『慣れ』っていうのもあるしね。そのまま押されて結婚するんじゃない?」
「彼女はそれを狙ってると思う。『女なんてみんな付き合えば同じよ』って洗脳されてる。でも俺はそれじゃ嫌なんだよ」

甥はまだ結婚生活に夢を持っている。女は結婚したいから相手を探すけれど、甥の場合は『この女性とずっと一緒に居たいから結婚したい』のだそうだ。でも彼女は今31歳。もうすぐ32歳の誕生日を迎える。甥はまた29歳の男子だから余裕があるのだろう。

「結婚を意識してヤバい頃じゃない?」
「もちろん、もう付き合ってすぐからそれを言われ続けている。押し続けたら彼女もどうにかなるんじゃないかと思ってるんかもしれない。でも、惰性で結婚して愛がなくて、離婚なんてされようならたまったもんじゃないでしょ?」

そんな甥の言葉は私の耳に痛いのだった。

「俺に新しい恋人ができたら彼女もあっさり身を引く感じはするんだけれど、そうじゃないから諦めきれないんだと思う。俺も特にどうしても恋人が欲しいと探してる訳じゃないし」




甥の話を聞いていると去年の『子犬君』との一連の出来事が重なった。男女が新鮮な気持ちで長く付き合うのってどれだけむずかしいことだろう。そして男と女の感じるところ、期待感の違いとか。私はこの元旦の失恋劇のことを甥に報告した。彼は7年前にサンフランシスコに遊びにきたときに、子犬君と会っている。「ずっと付き合っていたの?!」って驚愕されたので、ブレイクがあった過程を説明し、さえなかった子犬君が急にぴかぴかな30歳になったと思っていたら他に二人の女が居た、という事実を伝えた。「あ~、そのぴかぴかはその彼女達のせいだったんだねぇ」と甥があっさりと言ってのけたので、再度大笑いさせられるのだった。

「さすがに25歳と並べられたら私も完全に自信を失って、事実を知ったらもう元に戻せなくなっちゃったのよ」

そういう説明には、同意というまでの言葉は出さずふ~んと言っただけだった。叔母が自分とひとつしか年が違う青年とつきあっているという事実に「俺は何があっても『不倫』は認めないから」と当時言いのけた甥だったけれど、今現在はそのまんまの私を認めてくれている感じがする。彼には何でも話せるし、家ではむっつり不機嫌な彼も私の前では饒舌になる。多分にそのまま気持ちを隠さず打ち明けてくれているに違いないと思う。私と甥の間だけの小さな秘密があるようでちょっとくすぐったい。

サンフランシスコに遊びにきた甥をまるで恋人のように連れ回していたときは、友人に「姐、子犬君と甥っ子君を混同してるでしょう?」と意味深に告げられた。たしかにこのくらいの年の青年とつるむのは楽しい。せめてこうやって相手してもらえるだけでも、大変にありがたいことなのだと思う。

と、そうこうするうちに甥の運転するクルマは日光市内に辿り着いた。



3/20/2014

死に行く友と過ごす時間


シニアレイキのプラクティショナー、95歳のHはいつもカラフルな色合いの服を着ている上品な老婦人だ。彼女はいつも途中で早めに帰ってしまうので、なかなか話す機会を持てなかったけれど、挨拶をすればいつも穏やかで美しい笑顔を向けてくれた。一昨年のサンクスギビングのパーティの時に、隣に座った彼女に年寄りにそうするようにゆっくりと話しかけた私だったけれど、彼女が意外にも力強いとても鮮明な言葉で返して来たので軽く驚かされた。洞察力に優れていて聡明さがあふれる感じは、私にもっと彼女を知りたいという欲求を起こさせた。

レイキを世界的に広めるきっかけになった高田ハワヨ女史から直接レイキを授霊したという彼女に対する興味は募る一方で、いつか彼女の家でも訪問してゆっくり話をしたいと思っていた。私自ら「今度お宅に遊びに行っていいですか?」と伺いを立てたにもかかわらず、彼女の電話番号を尋ねる機会を失ったままなかなか実行にいたらなかった。そしてあっという間に一年が過ぎた。この冬、レイキクリニックのボランティアのメンバーがランダムに入れ替わっていた頃、彼女の姿を見るのもまれになってきていた。

気にはしていながらも、なんとなくそのまま見送っていたままのある日、ついに心のざわつきが起きて年配のプラクティショナーに彼女の近況を確認したみた。

「彼女は最近疲れているらしいわ」

そう言われて納得はしたものの、やはりざわつきが治まらなかった。

「本当のところどうなのかしら?95歳の彼女のことだもの、ちょっと穏やかではないわ」

そうしつこく尋ねる私に、その老人は電話をしても彼女がでないのだと言い訳をした。そして、そんな翌日にホスピスから連絡が入ったのだった。

「あなたがホスピス患者を一人しか引き受けないということは承知なのだけれど、あえて尋ねるわ。あなたにレイキをしてもらいという特別リクエストが来ているの。なんでもあなたのことをとても良く知っている感じの患者なのよ」

ホスピス患者になるような人に知り合いはいないといぶかしんだ私だったが、名前を聞いて驚愕した。そして考慮することもなくその場でHを受け入れることを承諾した。




Hに電話を入れてみれば、彼女の言葉の力強さには変りがなかったのでちょっと拍子抜けした。家に訪問しても、やはり彼女の様子はまったく変りがなく、いつもの通りの一人暮らしを続けている。3時間程離れた土地に住んでいる子供二人が交代で2週間に一度ずつ訪れて来るのだと言う。後は近所の人々が夜の照明が灯る時刻を確認したり、時折様子を見にきているらしい。

白血病と診断されているけれど、痛みはまったくないそうだ。ただ、エネルギーが大変弱まっているということだけで。

「私はもう準備できているの。私の命は永遠よ。ただ、違った次元に移りゆくだけ。だから死はまったく怖くないわ。あなたのことは以前から気にしていて、ゆっくりと話をできることを楽しみにしていたのよ」

本人が年季の入ったレイキマスターだけあるから、最初の施術をするときにはちょっと躊躇したものの、とりあえず精一杯やらせてもらった。彼女は大変に喜んでくれたけれど、2度目の訪問のときに「今日のレイキはとてもスムースだったわ。前回はむりやり押し付けるようなそういうエネルギーだったのよ」と、面白そうに笑っていた。

Hへの訪問を始めた頃から私は健康を損ねていたし、離婚ワークショップにも通い始めたところだった。だから、私のレイキも決して元気を与えられるという程のものではないだろうと思ったので、彼女には正直に自分の置かれている状況を説明した。

「コートに出向くって言っていたから、なんとなくそうかなと思っていたのよ。Oh, my, are you doing all right? 何故かあなたのことが気になると思っていたらそういうことだったのね」

Hはまるで母親かのように私の身を案じ心配して話を聞きたがった。それで、彼女の毎回の訪問はまるで私にとってはカウンセリングに通うような、そんな癒しをもたらしていた。

離婚相談をする相手が離婚歴のある人だったら、離婚に踏み切るのに勇気づけてくれるし、どんなに辛くても結婚生活に留まっていた人は、留まることを奨励する。例に漏れずにHも最初は結婚生活を維持して経済的に豊かな生活を選ぶ方を勧めていたけれど、私の説明にやがては「大丈夫。あなたはちゃんと導かれているわ」とサレンダーでいくことを語り始めた。




彼女へ施術する私のレイキの評価は毎回変わっていたのが興味深かった。初回は「無理強いするような」次回は「とてもスムース」そして「とてもワパフル」から「驚くくらいディープ」と変化してゆく。彼女自身も同じ施術者でもその度に感じが違うことに感心していたくらいだった。彼女は年季の入った古いマッサージテーブルを所有していて、それは彼女の趣味の部屋に設置されていた。壁には彼女が描いた数々の水彩画が飾られている。ヨセミテを中心とした自然の風景が殆どだ。それを眺めながらレイキをしていると、絵が動き出して水の音や空気の新鮮さや風の音を感じることが容易にできた。

最初に授霊してもらったレイキマスターが言っていたことを思い出す。

「自分が完成された人間でないからといって、レイキで人を癒すことなんて出来ないのではないかと思ったりする必用はない。むしろ、自身の悩みや問題を脇に置いて人の為にレイキをしたときこそ、その力は更にパワーを増すのだよ」

あのときにHに施していたレイキはその類いだったのではないのかな、と思う。実際辛い日々だったけれど、レイキをしてるときは瞑想をしてるかのように穏やかになれるものだから、なかなかそれを中断して帰国しようという気になれなかった。

確かに暮れのTの壮絶な最期は私のトラウマになった。私の離婚劇はそれが切っ掛けになったといってもいいくらいのものはあるかもしれない。しかし、その後ホスピス患者に面しても、相手が死に行く人だからという特別な感情を抱く自分はいなかった。もちろん、情が移った相手が朽ちて行くのを見る時になったら、やっぱり酷く辛くなるのではないのかと思う。

「そう、家族の元に戻るのが一番良いことだわね。多分あなたが戻って来る頃には私は居ないのでしょうけど」

最終日、彼女の足元が不安定におぼついているのに気づいた。私の眼に涙がにじむ。それでも、やはり特に近い知り合いであるからこそ、彼女の最期を看取ることないままお別れを言う機会であってよかったのだと思う。引き継ぎはやはりシニアレイキの仲間でありホスピスボランティアを紹介してくれたジムおじいちゃんにお任せした。彼女もそれでいいと言ってくれた。

「今日、こんなことを気づいたのだけれど」
「何? 教えて頂戴」

Hが嬉しそうに話を聞きたがった。

「私、今凄く辛いんですけど、『辛い』ということは決して『不幸』とイコールではないってこと。『離婚劇がこんなに辛いのならもうしなくていいわ、今までもどうにかやってきたのだし』と思ったら、辛さはなくなったけれど、そしたら急に『不幸』な感じがしたんです。なんでしょう、辛さって何か新しいものが生まれる前の必然の感覚なのかしかね?ほら、産道を通る赤ん坊が経験するような…」

そう他愛も無く語る私に、Hはこの世で一番愛しい人を見るような目で微笑みかけるのだった。




3/19/2014

ホスピスその後


暮れのTの葬式の後、新年に流行の酷い風邪を引き全治までに3週間かかった。そのせいで次のホスピス患者を引き受ける訳にもいかず、月末のボランティアミーティングまではのんびりすることにした。おかげで1月の第4週は疲労もかなり和らいでいて好調の兆しをみせていた。

ボランティアミーティングでの次の依頼主の内容は、朝8時から10時半までの看護の奥さんが買い出しに出かけている間の患者への付き添いだった。朝早いということで誰もボランティアを申し立てるものがいない。その中で患者をひとりも持っていないのは私だけだったので、プレッシャーに負けて私が申し入れた。

付き添いである以上は、患者の身体に触れることは禁じられている。折角出かけてもレイキ施術ができないのもつまらないので、再度オーガナイザーに確認を入れてもらい、レイキを施術してもよいという条件で引き受けることになった。

心臓病の77歳の男性はもうかなり衰弱していて、一日の殆どを眠って過ごしているとのことだった。ホスピス患者に認定され、家に毎日ナースやソーシャルワーカーが訪れるので「一体何人に会わないといけないのかね?」とちょっと困惑している様子だったけれど、素直な愛らしい感じの老人という印象を受けた。

レイキを試しに受けてもらった初日は、彼は目を閉じることもなく私の顔を見つめ続けていた。

「君はとても綺麗だなぁ」

ストレートに告げてくるその言葉に悪気は感じられない。寝返りを簡単にうつことができず、病院用ベッドの柵にしがみついてどうにか身体を横にするのがやっとらしい。彼の身体にレイキの手を当てながら、彼が老人用おむつを着用しているのに気づいた。寝たきりの身体を労るように肩甲骨のまわりをさすると、患者は「とても気持ちが良い」と喜んでいた。

彼は施術の後の私との会話をとても楽しんだ。2週目には既にエネルギーの高まりを感じさせ、第3週目にはベッドの端に腰掛けて私と向かい合って座って話を聞きたがり、その後は歩行器を使って一人でトイレに立っていた。買い物から帰って来た奥さんと話をしていると、それを横目にした彼女が「な~んだか最近やけに元気なのよ!」と目を丸くして私に告げた。4週目に訪れたときは、彼はリビングに座っていて、レイキを受けるまでもなくソファで私と会話をしたがった。小雨の降る静かな朝だったので、私のiPhoneから静かなジャズを流した。彼の手が私の膝頭に伸びたので、両手で彼の手を包んだ。

「性欲が戻って来たんだよ。こんな気持ちは久々のことだ」

彼は驚きと喜びを隠せないままに、やはりストレートにそう告げてきた。私は照れることもなく、彼の性的な質問に普通に応えた。男は「そうなんだぁ、知らなかったよ」と女性の身体の神秘に感心していた。患者は2週目までは痴呆症が既に始まったように同じ質問を何度も繰り返していたのに、その頃には彼の会話は正常に戻っていた。

働きに出ている息子が昼に戻ってきて、彼を散歩に連れ出すのが日課になってきていた。最初は2件先で戻って来たのが半ブロック歩けるようになったのだそう。私がいるので散歩にでたくないという拗ねる老人を、では私も一緒に歩きましょうと促してゆっくりと歩き出した。

「今日のダディは君がいるからいいとこみせようと頑張ってるよ」

父親の反対側を支えている息子が、彼の頭の後ろから首を伸ばして私に耳打ちする。その日、彼は歩行器を使ってワンブロック歩いて戻って来ることができた。老人の頑張りの横顔が愛しく見えた。

第5週は私の訪問を知った彼が、ベッドから歩行器を使わずにリビングまで出て来たので驚かされた。奥さんが出かけた後、あまりにも良い天気だったので家の外にあるスイングチェアでひなたぼっこをしようと私が勧めると、彼はぴんとこない表情ながらもそうすることにした。彼にジャケットとスリッパを着用させ、二人スイングチェアで揺られながら透き通るような空気の空を眺め、他愛のない話を続けた。彼は何度も呟いた。

「あぁ、なんて気持ちが良いんだ。誘ってくれてありがとう。とても気分がいい」




「まったく一ヶ月前の死のベッドが嘘のような回復よ。どうにかあなたに続けて来てもらう訳にはいかないのかしら?」

今までの例に変わりなく、家族はそう私に懇願する。ホスピス患者を訪れ元気になってゆくのを目の前にするのは喜ばしい。しかし、やはりどこか生気を失って行く自身を感じるのもいつものことだった。

「姐は今まで頑張ってきたよ。毎回のケース話で本当に頑張ってるな~って感心してた。けど、今は姐自身を救ってあげて。もう充分に人助けしたよね。みんな感謝してるよ」

ホスピスの責任を考えてなかなか日本帰国を早めずにいられなかった私に、友人がそう告げてきた。他の友人も、ホスピスを始めて以来私の体調が芳しくなく顔色が悪く生気がないのを気にして、もうやめろと警告してきていた。

ホスピスのボランティアを始めてからちょうど一年経つ。流れに任せてとりあえずどんなものだかやってみようと始めたそれだったけれど、奇跡を重ねて経験すると同時に自分には向いていないものかもしれないとやっと悟り始めている。患者がめまぐるしい回復を見せるけれど、どうも私自身のエネルギーが漏れるような感覚をいつも覚えるのだ。防御する方法をあれこれと変えてみるのだけれど、ホスピス患者に至ってはどうもそれがあまり効いていないような気がする。私のエネルギーというか感情の境界線も不明であり透明なのだと思う。次にアメリカに戻ったときにホスピスボランティアを続けるかどうかは今のところ保留状態にしている。全ては私の環境と健康状態次第なのだけれど。





3/17/2014

パニックアタック



夢から現実に目覚めるその隙間にそれはやってくる。実家に戻ってからは『幸せの雑音』で現実の変化にすぐ気づくことができるけれど、その瞬間にふと未来の不安に囚われようなら、身体のしびれに襲われる。ここ数日は動悸も起こることはなく、しびれもごく軽いものになった。首の後ろと肩甲骨の間がきゅううっと締め付けられるような感覚がするので、上半身を軽くのけぞらせ左右に身体を揺らして振る。掛け布団をはねのけ両手両足を宙に伸ばし、いわば『ひっくり返ったゴキブリ』のようにぶらぶらゆさぶれば、それはすっと遠のく。時間を確認すれば、朝の7時半。アメリカの生活ではあり得ない起床だけれど、私はそのまま着替えて家族が朝食をとっているダイニングに出て行く。

朝のTV番組を見ながらの朝食、布団の上げ下げ、軽い掃除。それでもまだ8時半を回ったところだ。家族に合わせて生まれる『生活のリズム』というのもよいものだと思う。実家での生活は、毎日多様なアクティビティで忙しくしてきた私にとっては『修行』にも似た感覚がある。ただ家にいて淡々と『田舎の普通の生活』を営む。家族と一緒に食事をし、TVを見ておやつを食べ、母と他愛のない話をし、猫を眺めて和まされる。そして、日一日と着実に健康を回復する自身を実感する。思い切って帰国を決定して正解だった。




去年の5月にそろそろ自然閉経を迎えましょうとファミリードクターに勧められ、ホルモンピルの投与を止めてからさまざまな更年期症状を経験してきた。ホットフラッシュに関節炎、四十肩や座骨神経痛など、以前に苦しめられた疾患が再発。鍼や運動に頼りながら、それらが現れてはいつのまにか治るという過程を通り過ぎてきた。手の指が痛み始めた時にはリウマチを疑ったけれど、検査でそうではないと判明しそれもいつの間にか消えた。

去年の12月中頃には何処と解らぬ鈍い痛みを手首に感じ、その痛みはやがてはっきりとした親指の付け根に定着した。やがて親指をある方向に動かすとスナップする感覚を覚えた。ネットで調べると『ばね指』と言われるものだった。左手なんて使う機会が無かったのに何故?といぶかしんだが、後ほど夜ベッドの中でスマートフォンを親指でスクロールしている自身に気づいた。毎日の習慣がそういうところで障害を生んでいることになかなか気づくことはない。

病院でステロイド系の太い注射を深く手首に刺して治療した。治療後も一週間程は痛みに変りがなかったので、薬が効かなかったのかとがっかりしたものの、それもすっかり治っていると今更のように認識する。

そんな訳だから、何時の日か目覚めのときに不可思議な足のしびれを意識し始めたときも、更年期症状の一種だと思っていた。それはベッドから降りて歩き始めればいつの間にか消える。しかし、毎日のそれは不可解で不快なものであり、その症状が日一日と強くなっていくのは不気味だった。胃痛を覚えた頃には、その早朝のしびれは全身に回っていた。感覚的には皮膚の表面よりもその直ぐ下という感じがした。急性胃炎のフォローアップのときのドクターに相談してみても、解せないと突き放された感じに言われた。

離婚の書類にサインをした後から、その症状が不安を伴った動悸と激しい全身のしびれに変わったところで、やっとそれがAnxiety attack(パニックアタック)なのだと自覚することができた。秋の終わりから止むことなく続いていた激しいストレスが、確実に精神に影響を与えていたのだと思う。そして不眠と絶望の強迫観念。もしあの晩、私が高層ビルにでも住んでいたなら間違いなく窓から飛び降りていただろう。そのくらいその瞬間に迫られているものから逃れたかった。

30代の鬱の頃に身体に合う抗鬱剤をみつけるまで大変なめにあったので、薬に頼らずにいたいとwhole foodsで自然系のサプリを買いあさってみたけれど、とにかく今は夫から離れるべきなのだと言うDや他の友人の助言を聞き入れることにした。もしかしたら飛行機にさえ乗れなくなってしまうくらい酷くなりそうな気がしたので、やむを得ず再度ドクターを訪れた。そういう全身のしびれはパニックアタックのひとつの症状だと、その医師は頷いていた。抗鬱剤、パニックアタックを起こしたときの薬、そしてホルモンピルを処方された。あれほど長く悩まされていた胃痛は、抗鬱剤の投与と共にあっさりと止んだ。一時は胃癌さえ疑ったけれど、やっぱり神経性の胃炎にすぎなかった。

その後一度激しい胸から背中につきぬけるような痛みを覚え、床に崩れ落ちることも経験した。HBOのTVシリーズ『ソプラノ』の主人公が、パニックアタックを起こして崩れ落ちていたシーンを思い出して納得した。