9/12/2018

生き続ける「雅ランティエ」

私のセッションにストアカを通して申し込みがあり、参加した生徒さんと話をしてみると、長年のブログ読者だったということが分かり久々に「雅ランティエ」の存在を思い出した。放置してあるブログであっても、見知らぬ誰かが自分を覚えていて時折思い出してくれて記憶に戻してくれる。「彼女は今どこにいるのだろうか」という思いから過去ブログやFacebookを辿り生身の私と出会う。

「苦しい時に雅さんのブログに出会い、色々学ぶことができました。知らない人でも私の恩人です」

そういう言葉を頂いたものの、その場の私には自分の知人のことを語られているような感覚を覚えた。あの当時「雅ランティエ」は私に寄り添って一緒に歩いてくれたひとつの魂だった。

「終わりの終わり」という投稿の後、もうここの更新をすることがないと思っていたにもかかわらずこうやって文章を書いている私の意図は、そのように未だに「雅ランティエ」を意識の中に生き続かせてくださる読者の方に心のからの礼を言いたいから。明らかに雅ランティエの魂が見知らぬ人々の人生を支えたり変えたりしているのは事実であり、それが人々の心の中で存続しているということが奇跡のようにありがたく感謝する思いなのだ。




前回の投稿から1年以上の時間が経過している。Facebookをやっていると1年前の投稿を再度リマインドしてくれるけれど、それさえ1年どころか3年くらい前のことのように思えるくらい私にとってはあまりにも沢山の初体験が重なる密な時間だった。自分の25歳から30歳までの5年間も10年分くらいの時間の経過を感じさせる密なピリオドだったけれど、時間の体感というものはこのように違うものなのだな、と実感する。

サンフランシスコの家を処分した後に目指した中米の旅。グァテマラから南下しながらタフな旅とゴージャスな旅を混ぜながら色とりどりの時間を過ごしてきた。姫旅行に慣れていた自分もダニに食われるような環境にも耐えたし、中米から南米を目指すタフな人々との出会いにも感動した。その中でふつふつと感じていたものがあった。それは「踊りたい」という欲求だった。旅の中にエクスタティックダンスを踊る環境との遭遇がなかったのだ。

以前タイのチェンマイで出会った「ダンスマンダーラ」という瞑想ダンスのことを思い出した。調べてみたらファシリテイターのコースがあることを知った。アプリケーションのフォームはとてつもなく長くそれを記入するのには根気がいったが、パナマの4スターのホテルに缶詰になって面倒なそれを終わらせ、このアプリケーションが受理されたならばその時が中南米の旅が中断する時なのだと理解した。

コロンビア滞在中にコース参加許可が降り、私はサンフランシスコに戻り、シアトルとバンクーバーの友人に会いに出かけた。次回太平洋を越えることはしばらくないような気がしたから。




つくづく自分は「修行系」だと思う。

2018年の幕開けをチェンマイで迎え、ミルキィウエイのように無数に舞い上がるランタンの光を目で追いながら、この年がどのように展開するのだろうかと興奮する私がいた。そしてその後に続くダンスマンダーラファシリテイターコースはそう甘いものではなかった。感情の渦で自分を含めどれだけの人々の涙やドラマを目にしてきたことだろう。

コース終了後、私はまた放浪の旅を始める。今回は東南アジアの国々をあてもなく渡り歩いた。中米の旅の途中から贅沢に慣れていた遠い自分は消滅し、むしろタフなバックパッカーたちに近づいてきた雰囲気もあった。ただ体力と年齢的なものもあり宿の雰囲気は選んできたけれど、それでもドミトリーにさえ宿泊できる自分に変化していた。人々と出会う時間と自分一人になれる時間を調節しながら旅を続けてきた。

「いつまで旅を続けるの?」
「もう嫌と思うまで」

そうしたら5月のミャンマーで初めてそう思えた。水が合わなくて2週間ほどずっと下痢が続いて体力を消耗していた。それでも1ヶ月をミャンマーで過ごし、購入済みだった出国用のフライトチケットはスリランカ行きで、惰性で旅を続けた。もうブッダも寺も遺跡も見たくない気分だったので、ヴィッパサナーの瞑想合宿で10日間座った。北カリフォルニア以来の10日コースだった。後にアユールヴェーダの癒しのトリートメント三昧で日本に戻ってきたのが6月後半。東京や伊豆旅行を楽しんだあとに実家を訪れた。

その時はまだ自分が日本に「住む」ことになるとは予想していなかった。ある日心の中にあるものがここにきて見え出してきたような、過去と未来とが融合して自分のニーズにあったものがポンと目の前に差し出されたような、そんな状態に突然としてなった。頭で考えた結果というより、腹がそれを知っていて淡々と行動へを私を駆り出していた。自分でも驚くくらいに動きは早かった。その状態に興奮した。「人生が動くときの感覚」を過去の経験から知っているからだ。日本社会に定住するという行為。25年ものブランクの後ならなおさら、頭で考えてしまっては躊躇が先に出てしまって動けなくなる。考えてはいない。ただ「駆り立てられていた」。

そして現在、埼玉県は戸田市という名前も知らなかった土地で生活をしている。

人生、何が起こるか本当にわからないもの。