4/29/2014

幸せの青い鳥


7週間。2ヶ月弱の日本は実家での滞在は長過ぎるかなとか思えたけれど、過ぎてしまえばあっという間だった。それは私だけの感覚ではなく、母も長女姉もあっけらかんとしてそう告げて来たのでそうなのだと思う。Benjamin Franklinのクオートで『guests like fish begin to smell after three days』というのがある。(家の客は長居されるとうざくなる)というのがあったけれど、帰国する前はそんなことをちょっと心配した。

「雅ちゃんは私たちに遠慮しすぎです。辛い時に頼られるのは家族として嬉しい。直ぐに帰ってきて」

そう、長女姉に促されてやっと帰国を早める事を決心したけれど、本当にそうしてよかったと思える。長い間の居候を肩身が狭い思いを覚えさせられることなく毎日は笑いに溢れ、義兄とも以前にも増した親しみを感じる会話がもてた。家に居て母と一緒の時間も充分に取れたし、レイキを施すこともした。




人生の大きな変化を迎えているのは私だけではなかった。義兄は私が着いたその翌日から職場が変わり、その環境、通勤、勤務時間の変化で毎日疲れまくっていた。同じ会社ではあっても59歳にしていきなり仕事が変わるというのは容易いことではない。そして、その変化は家事を受け持っていた母にもしわ寄せが来て、リズムが狂い母も膝の痛みと疲れを訴え始めていた。それが、まだ仕事を続けている長女姉に仕事を辞めて家に入るようにとのプレッシャーがかかり、ある種の緊張感が生まれていた。

私の目の前で母と長女姉の口論が起きる。「どうせ私が辞めればいいことなんでしょ!」と叫んで家を飛び出した長女姉のキレ方はまるで高校生なみだと思わされたくらいだった。そして、翌日まで持ち越された彼女の憤りは、それを諭した私に声にならない悲鳴と嗚咽で噴火した。

「本当にもう嫌!私の人生って何?長女なんてまったくいいことない!長女なんて!」
「! …ごめん、お姉ちゃん、ごめん。そうだよね、お姉ちゃんの気持ち、理解してなかった。ごめんね」

母の支配下で一生を過ごして来た姉。ふと愚痴をこぼしたとき、親からの援助を一切受けなかった次女姉は「それが長女の運命よ」と冷たく言い放ったという。そして、奔放の限りをつくした三女から偉そうに諭されて、追いつめられた長女姉が生まれて始めて崩れた瞬間だった。震える彼女の肩を抱いて謝りながら、私は本当にすまない気持ちにさせられた。『自由』も『自信』も感じたことがなかった長女姉。そして私の自由は彼女の犠牲の上に成り立っている部分もある。

「ごめんなさい。こんな風に悲鳴を上げて泣いたことなんて生まれて始めてよ。多分、震災からのストレスがたまっていたのだと思う」

義兄の会社は震災以降大きく傾いていた。一時はたっぷり退職金をもらって老後も安泰だと思っていた期待が裏切られ、減給されて不安も募っていたのだと思う。しかし、それについて義兄や長女姉から嘆かれたことは一度もなかった。長女姉が仕事を辞めるということは、彼女の分の稼ぎが減るだけでなく、母と義兄と彼女が家にいて顔を突き合わせる毎日というのを想像するだけで憂鬱になるというのも、たしかに頷ける理由だった。

彼女の悲鳴と嗚咽は階上にいた義兄に届いていたらしい。私と長女姉が話し合い、その後義兄が長女姉を問いただし、前向きな解決策が提示された。義兄が早期退職をして母に変わって家事を受け持ち、老いた母は隠居。その彼が再就職をしたあかつきには長女姉もきっぱり仕事を辞めて家に入るということだった。

「凄いじゃない、お義兄さん、本当にそんなこと言ったの?」
「うん。前にちらっと調理学校にでも通おうかとか言ってたときもあったのよね」

私は義兄をとても尊敬する。婿養子として実家に入って来たばかりのときには、無口で暗い感じがしたし、家族ともあまり交流を持とうともしていなかったのだけれど、父が死んだ後からそれがだんだん変わって来た。なんといってもありがたいのが、毎月父の墓参りを欠かすことなくどんなに寒い日でも素手で墓を拭いてくれる。それは母も頭が上がらないほどに感謝している。そして、前回の私の帰国から感じられて来たのは、歳をとる程に彼の性格が柔らかく明るくなり、表情が豊かになったということ。飼い猫のラグドールの『あずき』は母だけでなく、義兄の雰囲気さえも大きく変えた。

「雅ちゃんがいてくれてよかった。雅ちゃんがいなかったら、自分の中に閉じ込めて悶々とするだけで前向きな解決策なんて生み出せなかったと思う」

そう言う翌日の長女姉は少し晴れやかになっていた。私の前で思いっきり感情を出してくれた彼女に感謝する。彼女にはそれが必用だった。義兄が物わかりの良い人だということも彼女を大きく救っていると思う。




イタリアンファミリーのような大家族の楽しい食事風景に憧れていた。「今度結婚する人は、そんなことが実現出来る人がいいなぁ」なんて友人に話していたこともあるけれど、皮肉にもそれが自身の実家で経験するとは思ってもみなかった。笑いに溢れる仲の良い家族。憧れていたものを探し求めて国外に飛び出したけれど、結局渇望していたのものを実家で見つけた私だったのだ。『幸せの青い鳥』は家に居た。




「帰る家がない」

夫と喧嘩をして離婚話がでるたびに、私はそう思わされていた。帰る家を失わされた恨みを母に対して長い間抱えてきた。母を恨む『心の陰』が私のアイデンティティーにさえなっていたような人生だった。それがここ数年の間にまるで氷解するかのように黒い固まりが消えて行く。その度に私は更に自由を幸せを感じていった。そしてそれに反比例するかのように、夫との仲は静かに崩壊していくようだった。

「こんなことを言うと不謹慎かもしれないが、君がそんな目にあって俺はとても嬉しいんだよ」

私が次女姉と喧嘩し、母と揉め、『家との断絶』を決意した時、夫は微笑みながらそう言った遠い昔を今更のように思い出す。信じられないことかもしれないけれど、確かに夫はそう言ったのだ。私が完全に自分の手の中に入ったということが嬉しい、と。

私が家族を失うと夫は安心し、私が病気になると彼は優しくなる。そして、私が自身の意見を持つ精神的に独立した女になると彼は生気を失い機嫌が悪くなり、家族と復縁するとどことなく不安になる。一緒に暮らしていると近すぎて見えないものがある。そして、気持ちを離してじっくり考えてみるとどことなく『病んでいる関係』を感じさせられる。この7週間の別離の間、残念ながら私は彼を一度として恋しいと思ったことはなかった。二年前の帰国には気持ちを入れ替えて「もう一度トライしたい」と決心してアメリカに戻った私だったけれど、今回は気持ちがどんどん固まっていく。やるだけのことはやったのだ、と。






4/27/2014

誰にも読まれていないかのように書く


私のオフ会での感想を書いてくれたKudoちゃんの記事を読んで、ふとそのときの会話を思い出す。

目の前には彼女と、そして役者を目指すSちゃんが居た。私はSちゃんに何かを伝えたかった。そして英語のクォートを引用した。

「英語でね、こういう言葉があるの。Sing like there's nobody listening, Dance like there's nobody watching.」

それ以上の何を説明したのか覚えていないけれど、それを聞いた彼らがそのセンテンスから何を感じるかでよいかと思った。でも、私は彼にこういうことを言いたかったのだと思う。『売れる役者を目指すな』と。受けを狙った瞬間自分を失う、それよりも地道に自分自身が何者かを知った上で自分にしかない味で演技をしよう、と。多分に。役者は演技をしたところで役者なのだろうけれど、自分でいることで役がついてくるのではないかと思う。




77歳のホスピス患者と春の日だまりの中のスイングチェアで揺れていた時、「君は何が得意なの?」というような質問を受けた。多分に仕事の話とかをしていたときだと思う。そのときに、私は躊躇せず「I can express myself」と応え、その即答に私自身が驚かされた。考えて出て来た言葉ではなかった。

こんな風に誰かとの会話の中に突然きらめく言葉が降りてくることがある。私自身、自身を表す言葉としてそう告げたのは初めてであるし、言葉を聞いてから「あぁ、そうなのか!」という気持ちになり嬉しかったし、何故かしらありがたかった。

運動がてらで始めたダンスも結局はそういうところに行き着いた。自分の踊りが人に観られる、観てもらいたいと思っていたときは苦しかったし、自分が出せなかった。正しい振り付けを覚えようとしただけで萎縮した。でも、Ecstatic danceの『5リズム』のワークショップを取った時、初めて『自分が音になった』そう『自分が消滅した』瞬間さえ感じた。まさしくDance like there's nobody watchingだった。

ダンカンダンスでどれだけのレパトワを踊れるかなどもう気にしないし、ただ女神の衣装を着て自分を表現できるその場が与えられていることだけでありがたい。アルゼンチンタンゴでどれだけの技ができるかを意識しないし、ただ相手とひとつになることだけに専念してればそれでいい。




そして今『Write like there's nobody reading』という言葉が思い浮かぶ。ブログを書くようになってから久しい。その度の気分でいろんなサイトで書いてきたけれど、読者を意識して書くと制限がかかることで自身を失うことにも気づいた。だからと言って、非公開にするまでのこともなく、読んだ人から共感を得られればそれで嬉しいことも確かだった。要は交通量の多い表通りは必要なく、知った人だけが入り込むことが出来る『裏通り店』または『奥座敷』のようなブログ構えが自分にとって居心地のよい場所なのではないかと思う。

読者を楽しませる為には書いていない。読み手の感じ方なんてさまざまなので、それを気にしたらたまったものではない。あくまでも自分自身の記録の為に書いている。気づきを書き留めておくことで自分の中に定着させたり、書くことで自身を進化させるツールにすぎない。自分の意見を認めてもらいたいという欲求は薄いけれど、共振が出来る人と出逢えるのは嬉しい。『自己満足』のレベルがどこかで役にたてばそれはナイスなプラスであり、Work like you don't need moneyなのだと思う。実際お金にならないことにそれだけ時間を使えることは、相当豊かなのだと思う。




「あなたの仕事は何ですか?」という言葉を尋ねられるのがあまり好きではなかった。『あなたは何者=それでお金を得ることができる』という普遍的な質問に同意できなかったし、仕事をしなくて済むならそれに越したことはないとも思っていた。『私=職業』ではない。『私=情熱を傾けられるもの』であってほしい。そして、そう言うなら、私は『自身を表現すること』にいつしか情熱を感じているのだと気づく最近なのだ。




4/26/2014

大阪オフ会


告知を続けていた大阪オフ会も、10名でテーブルを囲むアットホームな楽しい会で盛り上がりつつがなく終了した。関西に出向く以上は昔お世話になったママのお店に人を集めたいと思い募集をかけてはいた。でもブログは一ヶ月休んでしまったうえサイトの引っ越しまでしてしまったのでどんなものかなと思ったけれど、そんな人数で落ち着いたことは、逆に2年前のオフ会のときよりももっと親密な温かいものになった。

ママのお店は大変に大人で上品な調度品のある、靴を脱いで上がるこじんまりした空間で、それがかえって私の家に招待したかのようなリラックスした雰囲気になる。前回に引き続き参加してくれた人たちはまるで同窓会のようなノリにもなり、時間が経ったその間に素敵なステップアップをして人生の舞台が変わりつつある人もいた。それを知るのは自分のことのように興奮するし、刺激的でもあった。変わりない人はそれはそれで嬉しい。

前回あまりにも気が利いて動くので「ホストかよ!」と皆にウケていたイケメンSちゃんは、役者を目指す為に東京に引っ越す手前の忙しい時に参加してくれた。そして、主催者の私がおしゃべりに夢中なときに、ひたすらみんなの飲み物を注ぎ足し続けてくれていた。最終的には椅子の上に正座してしまうくらいの私のノリは、サンフランシスコの友人宅でポットラックパーティをやっているその時と同じままであり、確かに初対面ではあるけれどぽんとリラックスした空間が出来上がった。

私はいろんなカテゴリーの記事を書くので、読者が何を切っ掛けにして私のブログを知ったのかを知るのは興味深かった。それは実にさまざまで、何気に知ってから私に興味を持って『ほじくって』くれたり続けてブログを訪問してくれているらしい。なんと数日かけて過去記事を全部読んで下さったという人もいるから、本当に驚く限りでありがたいこと。だから今回のオフ会も、いろいろな話題に事欠かなかった。盛り上がってしまったので予定時間を一時間半も過ぎてしまい、慌ててお開きにしたらみんながテーブルの後片付けまでしてくれた。あまりにも普段のノリだったので、オフ会集合写真さえも撮るのを忘れてしまったほど。前回は東京も含め人数が多くなってしまい参加者との交流が殆ど取れなかったのが心残りだったので、このように10名くらいの限定で会を開く方が良いということが確認された機会だったように思える。




土曜日のオフ会に備えて木曜の夜に大阪入りした。『お父さん』を呼ぶから何時に来るか知らせなさいというママの言葉に「?」と思ったら、82歳の『お父さん』と呼ぶ彼が最近血液関係の癌になったと痩せた姿で会いに出て来てくれた。以前は毎日店に通っていた彼も、今は週に数回になったとのこと。そんな彼と話していたら、ママが熱っぽいと言って動かなくなった。オフ会はどうなるかとひやっとして、レイキでどうにか復活してもらったけれど、そんなママの姿が実家の母と重なった。「お店やってると休まれへん」というママも、もう72歳。健康診断もろくに受けず気力だけで続けて来たけれど、気力だけじゃやっていけない。店がなくなるのは寂しいけれど、そろそろ引退してもらいたい気もする。複雑な思いが残った。

『20年』

気質は『相変わらず』という言葉のままだけれど、私を含め確かに肉体は朽ちて行く。




鞍馬山に登った翌日、一日スケジュールをブロックしてホテルの温泉に入り朝食をとった後も一日籠って寝ていたら、4時半頃電話で起こされた。10年前に友人の紹介でサンフランシスコで世話をしたゲイ友だった。近くに来たから会いたいと言うのでロビーに降りてみたら、自転車で乗り付けていた。そういえばオフ会にも遠くは三重県からもやって来てくれてはいたけれど、自転車で店にやってきていたのが3人程いた。ローカルな気軽さに笑った。

ゲイ友は鬱になっていて仕事を休んでいるとのことだった。人生初めての鬱で苦しんでいるらしい。

「どうしよう、ブログもFacebookも止まってるねん。『鬱で更新出来ません』って知らせるべきなんかな」

彼はある種エンターテイナーなので、Facebookは1000人以上と繋がっている。『客寄せピエロ』でいることにも疲れ果てたと言う。

「どうだろう?ブログで伝えたいならそうしてもいいけれど、Facebookでは必用ないんちゃう? どのみち、止まっていたら気にする人は声をかけてくれるし。鬱になるとね、誰が友達だったか良く解るよ

自分が絶好調で華やかなときに近づいてくる人は、その人気にあやかろうとする人もいる。ろくな繋がりもないのに『友達』と私を呼ぶ。そして、そうでないときにはまるで潮が引くように去って行く。そういうのを私は経験してきた。そして、私がブログを書こうが、それを読むこともないままに個人的な連絡をとりあう昔ながらの繋がりこそ、私が『友人』と呼ぶものかもしれない、と、この歳になって良く解る。

そんな訳だから、ある意味『痛々しい』最近の私だったにもかかわらず、会いたいと言ってくれたオフ会に参加してくれた人にはとてつもないありがたさを感じる。そういう方々に会う為にも、帰国してからの復活に力を入れられた。そして、そんな人々だったから、みな温かく優しく、居心地のよい空間が一瞬でできあがった。良いときも悪いときも赤裸裸なブログを書いて、それを知って近づいてくれる人々は『自分を受け入れている』という前提なので、私は安心してありのままでいられる。子供の頃いじめにあった私は、長い間集団に馴染めなかったり『初対面』に緊張を感じ続けて来た。それが、今そんなふうにリラックスできる環境を生み出せるのは、ブログを書く事の『素敵な副産物』なのだと思う。





ぎりぎり帰り際にツーショットを尋ねられ、集合写真を撮るのを忘れていたことに気づいた。
二度目の参加者Kudoちゃんはヨガのインストラクターで、洞察力の鋭いブロガーでもある。
今回も『表現者と言う名のライフワーク』という素敵な記事を書いているのを発見して感激。

ちなみに2年前のオフ会はこんな感じ。私、歳取ったかなぁ?





4/25/2014

I ♡ KANSAI


新幹線を降り、新大阪から大阪に向かう電車の中ではっとした。同じ日本でも電車の中のエネルギーが違う。混んでいないせいかなと思い直したけれど、やっぱりそれは地下鉄に乗り換えても同様に感じた。後ほど梅田の混雑した地下街を歩いても、私は東京に感じた不安を覚えなかった。人の発しているエネルギーの違いで、こんなにも自分が感じる疲労感が違うものかと可笑しくなるくらいだった。

そのエネルギーの違いを何かと考えた時に、それは人に『自分』または東京にない『余裕』があるのではないかと思えた。もちろん、東京は遥かに都会だけれど、ある地点の密度的なものは大阪でもそう変わらない。金曜の夜の梅田は、まるでお祭りかと思える程の人が歩道にあふれかえっているし、人々も同様に忙しく働いている。

「大阪でなんで『北海道郷土料理』やねん?」

そういうツッコミを入れながらも、その店を予約してくれた友人と3人で久々に飲み食いした。20年前に私が大阪に住んでいた時に働いていた会社の同僚だ。そう、『20年前』であり、私がそこに勤めていた年月は僅か3年に過ぎない。昼間に会ったもう一人の友人は先に辞めていたから、多分に一年半くらいしか一緒に仕事をしていなかったかもしれない。でも、20年間ずっと繋がっていた。あり得ない、と思う。が、もしかしたら関西人には普通のことなのかもしれない。

前回帰国したときの2年前からの流れを包み隠さずに語り、友人のそれぞれが感想を言い、悲惨さも笑いになるような感じで話してしまえば元気が出て来た。

「お茶しよか~」
「グランフロントにいこか~」
「それ何?」
「大阪駅に新しくできたビルやねん。雅さんまだ行ってないの?」

そう言われて目指してみれば、大きくサインが見えたのでそれを『グランドフロント』と私が読みあげる。

「ちゃうねん、グランフロン♪くらいに軽く言うねん。『ド』は発音したらあかんねん」
「なんでや、『ミスド』いうやん」
「ねーさん、それ、まったく関係ないって」

大阪で友人と会い始めたら、私もすっかり関西弁になってくる。それが関西のどこの地方のそれと同じか解らないけれど、大阪に住んでいた3年間のうちにしゃべるようになって、経理の人から「雅さんの関西弁、おかしいわ」と笑われた。そういう努力が実ってか土地の人からは可愛がってもらえた。今回オフ会を開催した店のママは、当時経済的にも精神的にもしんどい思いをして落ち込んでいた私に永遠とタダ飯を食べさせてくれた。私は彼女の店に行くたびに「ただいま」と言う。

ヨーロッパを思わせる路面カフェは夜遅くても満席だった。ウエイティングリストの前には誰もいないことから、ちょっと待ってみたら店内の席に直ぐ座れた。ところが落ち着いてみたら、床の通気口からの風が激しくて、友人の髪が宙に舞った。まるでマリリンモンローの映画みたいに。

ちょいイケメンのウエイターが来たので友人がその気流を弱めてくれるように頼んだけれど、ウエイターは「すいません、それ、ビル全体のものでウチが調節できるものじゃないんですよ~」と言う。

「え~、しょーもないな」
「酷いでしょ?」

そのウエイターの「酷いでしょ?」の一言ではっと思った。そう、これが大阪であり、アメリカに近い働き方なのだ、と。仕事はしてるけれど、そのパーソナリティはそのままそこに存在している。これが東京だったら、ひたすら「すみません、申し訳ありません」とこちらが申し訳なく思うくらいに低姿勢で超丁寧に謝るところだと思う。

「目が乾いてたまらんわ、じゃぁ、こっち移動しよ」

と、客も客で通気口から離れようと、3人でがたがたとテーブルを移動させてしまう。東京ならそんなこと恥ずかしくてできませんから大人しく我慢しますというところかしら。

関西人はのびのびしている。楽しんでなんぼというところがある。もちろん、個人的には東京に住む人と何変わらずに悩んだり落ち込んだりしているのだろうけれど、そういう気質の人間が多く集まっている土地に漂うエネルギーは、確かにまったくとして違うのがはっきりと感じられる。感情も表現も直接的だから、関西人が標準語でメールをしたらどきっとするくらいのキツさもあるかもしれない。音が聞こえないと解らないニュアンスが関西人の表現にあると思う。それもアメリカの直接的な表現に近いのかもしれない。解りやすいと言えば解りやすいし、短絡的でもある。そして、最終的にはとっても温かい。『人情』というものだ。それは20年という時間で私に証明してくれている。ラテン気質に近いと言ってもいい。私にとっては、日本でありながらもどこか海外の街に感じる静かな興奮を覚えられる、そんな土地が大阪だ。




レイキプラクティショナーにとってもメッカでもある鞍馬山、そして伊勢神宮への旅は、15年以上も前にアメリカのカレッジで一緒だった友人と一緒にでかけた。彼女とは暫く音信不通だったけれど、最近急に連絡を取ってきて一方的にマクロビの本を送ってくれたりしたので、こちらで電話で話したらそんな流れになった。10年ぶり近くで会ってみても違和感はまったく感じられない。あのときのままだ。

京都に生まれ育った彼女ははんなりした京都弁でのんびりしている。お互いのテンポが違っていたので、なんだか珍道中になったけれど、それでも過ぎてしまえばとても充実した旅だった。別れ際に「お伊勢参りの珍道中だったね。なんだっけ、すけさんかくさん?」と言ってしまってからそれは水戸黄門だと気づいたけれど、京都に向かう彼女を電車に残して私は慌ただしい別れを告げた。見つめ合う電車の窓を通して投げキッスを送りあう。そして彼女の乗る電車が去り、自分が乗る名古屋行きの電車を待ちながら、それは『やじさんきたさん』だったのだと思い出した。そうだ。遠い日に読んだ『やじきた珍道中』はお伊勢参りの話だった。

どれだけ自分が変わっただの進化しただの言ってはみても、それは外見だけにすぎないのかもと思わされた古い友人との再会だった。『イメージ』というのは容易く変えられる。でも、その本人の気質やエナジーというのは決して変わることもなく、その空間を共にしてしまえば外見というのはそう意識しないものなのだと思う。

4/14/2014

もう大都会には住めない


都心から電車で2時間の実家に戻って来た時にはほっとした。実家がある場所は主要道路から離れた閑静な住宅街で、その静けさは小鳥のさえずりだけが聞こえるアメリカの自宅と殆ど変わらない。




東京での平日の夜の予定がキャンセルになりうっかり帰宅ラッシュの地下鉄に乗ってしまった時に、そこに充満している『お疲れエナジー』にやられた。特にスーツ姿の中年の男性たちの表情には見るに辛いものがあり、そして遠い昔に自分が何故日本を離れたかったのかを思い出すきっかけにもなった。

宿泊していた銀座のホテルは新橋駅から近い。人々に押されるように電車を降りても行く先が見えないほどの真っ黒な人々の迷いのない行進に恐怖心さえ覚え、出口を見失っても立ち止まることも出来ずパニックアタックが起きてしまった。とにかく流れから逃れることはできたけれど、大きな柱に張り付いてしばらく身動きができなくなってしまった私だった。実家に帰って来て以来心身共に元気になってきたところだったし、東京でも順調に行動していたから、このときは少なからずショックだった。

とりあえずどうにか地上に出て、目の前にあったミスドに落ち着き一息つく。飲茶メニューが珍しかったのでそこで夕食をすましてしまうことにした。列に並ぶ若い女性の髪型があまりにも華やかに盛ってあるので日本人のお洒落度は凄いなぁと関心したけれど、やがてそれは『銀座の夜のお勤め』の女性なのだと理解した。そんな彼女達をぼんやり眺めながらも、永遠と響き渡るカウンターの従業員の独特の鼻にかかった、そして私には丁寧過ぎる程と思える接客言葉が気になった。そこにパーソナリティはなく、その後ろにある『私』はいつどこで目覚めるのだろう?

みんな、仕事してる。

当たり前のことなのだろうけれど、当たり前に思えなかった昔の自分を思い出した。そして、今日までの自分の生活は奇跡に近いものがあるかもしれない、とも思えた。

日本には素敵なモノが溢れていて、それもアメリカの生活では信じられない位の優れもので、美味しい食べ物も沢山あって、TVも慣れたらそれなりに面白く思える。そして決定的なのは『人生考えなくてすむ』。外にある刺激にさらされてるだけでなんとなく日々は過ぎてゆくし、それで悪いことじゃない。「もしかしたら私、日本に住めるかも」と思わされたけれど、その日初めて虚しさを感じてしまった。こうやって立ち止まってしまうから、日本で生きていけなかった私だったのだということも思い出した




そんな経験を東京に住む友人にメールで知らせたところ、帰りのラッシュよりも朝のラッシュの方がハッピーではないエナジーが強いような気がする、という応えが返って来た。帰りの方は、疲れてはいるけど家に帰れる安堵感というか開放感があるのではないかと。彼女自身がそうだからという理由でしかないけれど、それも一理あると思った。今ではすっかり忘れている事実だけれど、こんな私でも20代の前半には大手企業に勤めていたときもある。高田馬場から新宿までの山手線の混み具合といったらそれは悲惨なもので、電車から駅に押し出された時に人混みの中で片足のパンプスを失った。振り返ってもそれが見いだせる訳もなく、半泣きでオフィスまで歩いた記憶が鮮明に思い出された。あのまま大手企業に勤め続けていたら相当な安泰人生だったぞ、と、あり得もしない『もしも』を考えて一人笑った。若い頃はそんな計算もできないから、半年で辞めてしまった私だった。あの頃、ひたすらアメリカ西海岸の空気に憧れていた。

『サラリーマンの疲れた姿は、家族を養うためにそうなっているのだと思って見ると、疲れだけれはなく、愛情もどこかに感じられるような気がします』
メールのその一行に、彼女の人柄を見たようにも思える。そうやってポジティブに世界を見る事も大切なサバイバルのツールだと思う。


「東京はいかに目立たなく、自己を殺してグレーになることが大事。だからグレーじゃない、すなわち『出る杭』は東京で生活する上では必要ないのよ」
以前サンフランシスコに住んでいて、今は東横線沿いの街から代官山のアパレル会社に勤める友人に話したら、そういう言葉が帰って来た。その点では大阪は逆だと思う。私が長い海外生活の後30歳になるときに日本に戻り住んでみようと思って選んだ街は大阪だった。「大阪の方が海外には近い」とその友人も言う。
『人の行進』それがまさに大都会であり、流れが激しく、一旦そこにある大きな石の部分で休憩しようと思っても後ろから来た人に流されて結局そのまま息もつけないから、流れに乗り流されることでしか生存できない。その『流れ』が必用なときもあるし、いらないことも多い。でも、自身を放り込まなければ知らないこともあるし、忙しい波にのまれて生活することが自分にとって必要かないかそれだけだ、と。
『大都会の流れ』はアメリカだって変わらない。NYは川で、上流下流があって、流れに沿って生活し、流されたらどこかに放られてしまうから、それに耐えうる『強い自身』をもつしかないし優しくもなれない。人々の行動は「どいてよ私通るんだから」そのものだ。そのエネルギーの渦に耐えきれずにNYからカリフォルニアに移り住んで来た人々は沢山いる。そして、それに比べればサンフランシスコは流れのない湖のようなものだと。そこに生息する独特の人種があって、多くの人々が賞賛する土地ではあるけれど、そこにいたらその湖の中に浸かっている人にしか出逢えないから、再度刺激を求めて日本に帰国したりどこかに流れて行く人々もいる。


先ほど近所に住む77歳の叔父が、自分で作った野菜を配りにやってきた。プレッシャーのない生活の中で元気に生き、畑仕事を趣味にし、売るまでの量も作らないから親戚やご近所に配り歩いてみんなからありがたがれている。なんて幸せで理想的な老後なんだろうと感心してしまう。若い頃は絶対に実家のあるこんな退屈な土地に住み続けることなんて考えられない、と思っていたけれど、50歳を過ぎた今、程よい静けさと人々ののんびりした気性、そして程よい都会との距離があるこの土地の良さが解ったように思える。
帰国する前にもう一度東京に遊びに出ておいでよ、と友人に誘われたけれど、既にもう『お腹いっぱい』感が満ちていて、それに応える気力はない。エネルギーが満ちあふれ、自分の可能性にチャレンジしたいときこそ大都会で行きていくべきで、エネルギーが弱まった中年過ぎになっても住むところではないのかもしれない。もちろん、その土地しかしらない人にとっては『住めば都』でしかないのだろうけれど。

次は大阪。梅田の地下街の放射線状に行き交う人々を想像して、はやくもビビる私。



4/12/2014

秋葉原メイドカフェ初体験



前回上京したときは渋谷と自由が丘の顔を見たけれど、銀座に滞在した今回足を伸ばしたのは赤坂と秋葉原と浅草のみ。なんでアキバ?と思われるかもしれないけれど、ダンカンダンスのワークショップが行なわれるスタジオは秋葉原駅前にある。昔の秋葉原といったら電気街というイメージだけれど、今はすっかりアトレのファッションビルを始め『AKBカフェ』と『ガンダムカフェ』そして、あちこちのビルの壁には『萌え系』の少女のアニメが大きく描かれている『アキバ系』という文化の街になった。数年前に日本のワークショップをとりに行った時には、あまり周りを徘徊することもなかったけれど、今回は少し早めに行って是非『メイドカフェ』を覗いてみようという気になった。

駅前広場にはミニスカートとルーズソックスの4人組の少女たちが、なにやら宣伝のためにビラ配りをし、オタク系青年達がその可愛い彼女達と写真を撮りたがっている風景も、いかにもアキバらしくて微笑ましかった。街を歩いていても、日本語以外の言葉が多く聞こえるインターナショナル色が濃い場所は、私にとっては比較的居心地が良い感じがする。

スタジオから一番近いメイドカフェ『@ほ~むカフェ』を目指した。小さなビル内の何階もがメイドカフェになっていて、とりあえず小さなエレベーターに乗り込んだらとても姿勢の悪い極めてそれ系の若い男性と一緒になった。入り口で待つことしばし。先ほどの青年が『ご主人様認定証』を提示し、私はお初の来店だと告げると来店時の注意事項の同意書を読まされた。モンダイが起きないように、撮影禁止を始めいろいろな制約があるらしい。


 @ほ〜むカフェの入り口




「お嬢様のお帰りです~~~~!!!!」という声と共に、店内に案内される。ボックス席のような店内を想像していたから、ステージを眺めるカウンター席に案内された時にはちょっと意外な感じがした。メイドの女の子はきゃり~ぱみゅぱみゅみたいな今時の女子ばかりでとにかくユニフォームが可愛い。今現在存在してるのかどうか解らないけれど、80年代の原宿には『アンナミラーズ』という似たような胸元を強調したエプロンミニスカートが有名なパイ屋さんがあったことを思い出した。あの頃は『萌え』という感覚はなく、真面目な接客であくまでもユニフォームは密かな人気だった。

メイドさんと記念撮影や、席で直接話ができる機会を持てるゲームのセットメニューがあるけれど、とりあえず600円の入場料を取られることだし単品のドリンクを頼むだけにする。女子の客も結構いるし外国人観光客もいたけれど、とりあえず7割近くはアキバ系と呼ばれる類いの青年なのだろうな。私はもう嬉しいやら可笑しいやら、店内で何が起こっているかを興味津々で観察するのにキョロってしまう自身を押さえるのに精一杯。一人座っているときにはすっごく暗ぁい感じの青年なのに、メイドさんがやってきて話をするともう目尻が垂れていきなり元気よく話しているのも寂しいというか可愛いというか。いわゆる『コミュ障』というもので、普通の生活ではとても女の子に話しかけることはできないけれど、ここでは安心して話が出来るという感じなのだろうな、と思いながらじっと観察してしまう。




両隣は双方にお一人様の暗ぁい感じの青年。左側からプンと汗臭い匂いが漂よってきたのにはひるんだけれど、右側の多分に若いのだろうけれどちょっと『おっさんが』入った熊体型の青年は大丈夫そうだったので、もうどうしても我慢できずに話しかけてしまった。

「あの… お話伺っていいですか?」

そんな好奇心の固まりの私を怖がらずに普通に返事してくれたので安心した。彼の手元の認定証がゴールドだったので、今までにどのくらい来店したのか尋ねてみると「50回くらいかな」と応える。

彼はなんと兵庫県からやってきていて、出張のときもあるし私用のときもあるけれど、数日の滞在で10回くらい通ってしまうそう。ちなみに店に居られるのは一時間だけだから一度出てぶらついてから戻って来たり、そのまま列に並び直して再度入店したりするそうだ。彼はドリンクだけを頼んでいたけれど、好みのメイドと一緒にチェキで記念撮影もしていたしゲームをやりながら個人的な話をしていた。その会話を盗み聞きして、なるほどキャバクラに通うのと同じような感覚なんだろうなと思う。夜に限らないし酒も飲む必用もないし、まぁ安上がりに可愛い女の子を相手にする遊びを楽しむのにはちょうどいいかなという感じもする。彼は測量士という立派な専門職で日本全国出張が多くほとんど地元にいることはない。メイドカフェはここ一年くらいハマっているらしい。とりあえず、話をしてみれば普通に好感が持てる青年で『熊系』が好きな人だったら悪くない感じ。




オムライスやドリンクの泡の上にメイドがリクエストで好きな絵を描いてくれる。そして更に美味しくなるようにと愛を注ぐおまじないのかけ声をかけるのだけれど、「萌え萌え♪!」とか「まぜまぜ♫!」とかメイドの後について声を張り上げる人々を見るのは笑える。そして私の番がきて、なんとも照れくさいながらもやってみれば意外に楽しい。



 メイドさんが書いてくれた猫の絵




メイドさんたちは一生懸命サービスしている。従業員控え室では「あいつ、キモいんだよ~!やってらんね~よ!」とか多分に言ってるのだろうけれど、それでもお店ではキモいお客でもとにかく愛を持って優しく可愛らしい声で頑張って働いてるのを見ると、やっぱりそれなりにえらいなと感動してしまう。

私が30代くらいの頃は、過剰に飾り立て知性を感じさせない舌ったらずの声で話すギャルに嫌悪感を感じたものだった。それなのに今はそんな感情はまったく生まれず、それどころかほんわり『癒し』を感じたくらい。そしてそんな子たちに萌えるお兄さん達の気持ちもちょっぴり解るような気さえした。私もオバさんになったものだな、と思う。

一時間が経つと「お出かけの時間です」というお知らせが入る。会計を済ませると、メイドが「お嬢様のおでかけです~!!!」と叫び、みんなが「いってらっしゃいませ~!」と声を張り上げる。『お嬢様』と呼ばれるのは照れくさいけれど、やっぱりどことなく嬉しくなるのが本音。


  最後にご主人様認定証を作ってもらいました






4/09/2014

銀座でアルゼンチンタンゴ


週末のダンカンダンスのワークショップ参加の為に上京した。今回は他のワークショップの便利を考えて銀座のホテルにステイした。金曜日に東京入りしたので、その夜にどこかでアルゼンチンタンゴのミロンガをやっているところはないかとネットで調べてみたら、赤坂にあることを知りそこを覗いてみることにした。J-Akasaka3Fにある『PARA DOS』というところ。

見知らぬ所だったらミロンガの前にあるレッスンを取れば、そこで参加者と少し顔見知りになれるものだけれど、もたもたしているうちに時間に間に合わず、やむを得ずレッスンの終わりの頃を見学するだけになった。会場に入ってその狭さに驚き、受け付けにも誰もいなかったので固まってしまった私。とりあえず、レッスンの邪魔にならぬように椅子に落ち着きタンゴシューズに履き替え見学していたけれど、なにやら怖い厳しいイメージと言うか、どこかなげやりな印象をその外国人のインストラクターから感じた。

人数は極めて少なくミロンガが始まっても誰も踊りださず、雰囲気的にフレンドリーという感じでもない。まるぞりの白人がいたので、ひたすら彼のことを見続け、目があったときには「うききっ」っとした笑顔を見せてみたけれど、相手は逆にちょっとひるんだ感じで即好意的な反応を得られた訳でもなかった。

む~ん、やっぱり日本ではうまくいかぬか、と半分諦め気分になり「これは数時間座っているだけで終るかしら」と覚悟を決めた頃、先ほどのまるぞり白人がやって来て隣に座ってくれた。

「俺、今日初めてレッスンとったんだよ。だから踊れないんだ」
「あら、そうなの? 私、ここに初めて来たから誰も知ってる人がいないから、話してくれるだけでも嬉しいのよ」
「いつも何処にいくの?」
「私、東京のミロンガ初めて。ツーリストだから」
「ツーリスト? マジ? ツーリストでいきなりミロンガきちゃうの?」
「そうよ、サンフランシスコから来たの。東京のミロンガ見てみたくて」

結局、彼はインストラクターの知り合いでたまたま彼のレッスンを覗いたらしく、踊れないからということでもう一人の白人男性に私を紹介して一緒に踊るように促してくれた。もう何十年も日本に住んでいる黒髪の紳士はあたりが良く優しかった。多分にラテン系というところか。

外国からくるのはヨーロッパからの人が多く、カリフォルニアから来た人を珍しがって、その男性は踊りながらいろいろ話してくれた。

「君のエンブレイスはとてもいい。胸がついているのでエナジーがとても良く伝わる」
「そうね、私の先生はクロースエンブレイスをかなり強調して教えたのよ。『ひとつになりなさい』が合い言葉だったから」
「そりゃぁいい。世界中の全てのインストラクターがクローズエンブレイスを強制すべきだな」

そう笑う彼と私のダンスの相性は良く踊りやすかったので,それ以降も何度か誘ってもらえて嬉しかった。




最初に座っていた場所に戻ると、隣に座っていた日本人女性が私たちの会話を聞いていたらしく、「サンフランシスコから来たの?」と興味深げに話しかけてくれた。彼女はとてもストレートな物の言い方をする、多分に群れないタイプの人間なのだと思う。日本社会にある独特の馬鹿丁寧な距離感を感じさせないそれは、私にとってはありがたかった。仲良く話しながら、ブエノスアイレスのミロンガにでかけたときのラッキーさを思い出していた。

あまりにも狭いダンスフロアは5組も踊ってしまえばいっぱいいっぱいという感じだけれど、踊っているカップルが皆かなりの上級なのに驚いた。隣の女性が「そうね、ここは上手い人が集まっていると思う」と同意する。

先ほどの黒髪の白人Rに誘われてまたダンスホールで踊ると、今度は彼が私を彼の座っていた席に連れて行ってくれた。そこには日本人女性二人と日本人男性が座っていたボックス席で、みな英語をしゃべる『帰国子女系』だった。それで日本人同士でありながら、私たちは英語を交えながら会話をした。

黒髪の白人が半ば強制的に日本人青年に私と踊るように促し、それで相手をしてもらえたけれど彼はとても上手かった。なんでも世界中いろんな国のミロンガで踊った経験があるらしい。

「あぁ、カリフォルニアの風を感じるなぁ。自由だねぇ」

そう言って笑っていたけれど、要は日本人の型がきまったスキルフルなものに比べて、ちゃらちゃら適当にやってる私のダンスを『遊びが入るのが面白い』と表現してくれたにすぎない。まぁ、『楽しく踊れてなんぼ』だと思っているからあまり気にしない私だけれど。




「明日は銀座の『ORIGIN』に来るといい。そこは、ここよりももう少し広いし、きっと君が気に入る雰囲気だと思うよ」

そうRに言われたし、私もそのつもりだったので、翌日はダンカンダンスの後のワークショップで疲れていたけれど、再度ミロンガに足を運んだ。今度は泊まっているホテルから徒歩で行けたので便利だった。着いてみたら前日に知り合った女性Iさんが一人で座っていたのでほっとした。彼女の隣に落ち着きしばらくダンスフロアを眺めて気づいたけれど、雰囲気は更に気取ってレベルが高いという感じだった。まず、女性の質がいい。皆上手いだけでなく、恐ろしくスタイルがよくセクシーなドレスが似合う背が高い人が多い。

「あぁ、そうね。インストラクターの趣味なのよ」

そう隣の彼女に言われて納得するところがあった。インストラクターは決して全ての人平等に優しいタイプではなく、いわば『生徒を選ぶ』タイプの人かもしれないと思わされる所があった。

昨日最初に話しかけたまるぞりの白人がやってきてぽつねんと一人で座っていたから、彼の隣に滑り込んでいろいろ話をした。そして、昨日のインストラクターの彼は、銀座のカルティエのイベントでショーをやってからこちらに来るのだと教えてくれた。情報では彼が主催する最後のミロンガということになっていたけれど、アルゼンチンに帰国する訳ではなく、別のビジネスに転向するらしい。「あ、burnt outしたのね」と私がへろりと言ったら「その通り」と男も頷いた。

そのインストラクターに限らず、サンフランシスコの数々のインストラクター達にもよく見る現象。情熱を感じて始めたタンゴインストラクターの仕事だけれど、繰り返し繰り返し教えているうちに燃焼しきってしまい、人と接するのさえ疲れてしまう。そうなると、顔見知りの友人とは話しても、あえて新しい人に気を使って話をしたりすることさえ面倒臭そうな態度になる。その彼の印象がまさにそれだった。

フロアで踊る人々たちは、全ての人が恐ろしく上手かった。まるで競技会を見ているような気分にさせられたくらいだから、全く誘われることがなくてもつまらなくなかったけれど、後半黒髪の紳士Rが現れて、結局は彼と踊っただけで終った。日本人の男性からは誘われることはなかった。

そういえば、まるぞりの白人から名前を聞かれて応えた時「日本人なの?!」と驚愕されて、はぁ?っと思ったけれど、日本人でないとしたら何人に見えるのだというのだろう。まぁ『サンフランシスコから来たアジア人』という先入観があったのだろうな。

「君はなかなかナイスに自然にこの場にblend inしてるな」

そう黒髪の紳士Rに言われたときは嬉しかった。こういうところで揉まれていたら、きっと凄く上達するのだろうけれど、何故かしら私はタンゴ熱がそう長持ちしない。結局この冬は一度しか出かけなかったし、どこかに出かけた時にふらりとミロンガにでかけて、ちょっと踊る機会が持てればそれでいいかな、のレベルのままで止まっている。

タンゴインストラクターをリタイアする彼が最後のデモを4曲踊ったけれど、それは素晴らしいショーだった。ミロンガ入場料2500円はアメリカのそれと比べて高いなぁと思わされたけれど、それだけのショーを見せてもらった後は安すぎるくらいと満足できた。

アメリカでもブエノスアイレスでも「日本人のタンゴはとてもレベルが高い」と聞いていたけれど、まさしくそれを実感した東京のミロンガ経験だった。




4/04/2014

こたつたこ



今はデートに連れ出してくれるイイオトコの甥も、私が一年間の海外放浪の後に実家に戻った時は4歳だった。当時私は27歳。その頃の想い出話をすると、甥はちょっと照れながらも嬉しそうな顔をする。今のアメリカ生活での両隣は子無し夫婦なので、私が幼児に接したという機会は人生そのときと、後は友人J姉の息子さんくらいであまり経験があるとはいえない。

前回私が実家に帰って来たときは、姪の息子のハル君はまだあかちゃんだったけれど、今は彼も2歳半の元気のよい男の子。目が離せない盛りだから、近所に住む姪は私がいることもあってこまめに実家を訪れる。人見知りのハル君は最初なかなか私に慣れなかった。綺麗な若いお姉さんやイケメンお兄さんをみるとデレデレ照れ照れだというので、ちょっと私も大人しくしていたらニコニコしてくれたけれど、3週間もいれば「ゴルァ!」と体育会系になる私を家族と理解して『ウチズラ』を見せ、ばしばし叩いてくる。

「なんだかいきなり優しくないおばさんが来て、この家に住み始めたと思ってるだろうなぁ~」

なんて、いきなり来るなりお尻を叩いたからちょっとやり返したらふみ〜っと泣くハル君を笑う。どうやら私は優しい綺麗なおばさんにはなれないようで、ついついおちょくってしまうけれど、そのうちハル君もワイルドに遊べる相手だと理解したようだ。押し出しで部屋から私を追い出すゲームを延々と繰り返す。結構私もしつこく相手をしてあげているけれど。




あまりにも可愛いので、ぎゅう~~~っと抱きしめたいくらいなのだけれど、どうしても私に身体をつかまれると嫌がる彼。抱っこもできないので、欲求不満で悶絶してしまう。それでも、私がPCを叩いていたら、画面に出てくる猫画像につられて隣にやってきた。そのうち体全体の体重を私に預けてすっかり見入っている。その重さを感じて、ほとばしるような嬉しさを覚える私。幼児独特の匂いさえも覚えて心が柔らかくなる。

遠い昔、ポルトガルの海岸沿いの田舎町で大きな犬が私の足元にやってきて、どかっと全体重をかけて寄りかかって座ったことを思い出した。『信頼されている』ということが実感できたし、それだけその辺の人々が優しいということの証明でもあるのだと理解したあの時、酷く感動して泣きたいくらいだった。

「あぁ、この重さが素敵♪」

そう瞳を♡にして喜ぶ私に、姪が遠目でけけけっと笑う。

3時間も一緒に過ごして、ぎゃん泣きが止まらなかったりしたらもうげっそりしてしまうし、彼らが帰れば『嵐去る』という感じだけれど、それでもやっぱり可愛いし見ているだけで楽しい。これが24時間仕事の専業ママは本当に大変だと思うけれど、彼女達が感じている『幸せ』を少しだけ味わっている。





彼らと一緒に日々を過ごすことによって見るようになった幼児番組。今まで気にしたことはなかったけれど、視てると結構面白い事に気づいた。

特に興味を惹いたのが『日本語であそぼ』。これって日本語を勉強している外国人が視てもいいと思う。そして、一度視たら「なになにこれ最高!!」って大ファンになってしまったのが『こたつたこ』。「らりらりら~♪」って、いつまでも脳内ぐるぐる回りっぱなし。





この『こたつたこ』をYouTubeで探していたら、更に面白い動画を発見。どうもこのテのものが私のツボらしい。








85歳の母は『ひい孫』の為に幼児番組のダンスを真似て一緒に踊って「いい体操だ」と笑う。それを眺めて『Xbox』のダンスミックスのゲームをしているのとたいして変わらないと思った。私もこれからそれに加わろうかしら。85歳と2歳半と52歳が一緒に踊る姿というのも、かなりシュールだと思う。






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大阪オフ会のお知らせ

日時:4月19日(土曜日)午後1時から4時まで
場所:大阪肥後橋近辺の隠れ家風酒家 
会費:お一人様3000円

立食バイキング方式で美味しいお料理を召し上がって頂きます。
飲み物はお茶付きですが、酒類をご希望の方は
別途個人でお買い上げ頂く形になります。

お申し込みは  miyabi.offkai@gmail.com まで。
お名前、ブログを書いている方はURLとハンドル名も宜しくお願いします。
どちらからいらっしゃるかも教えて下さいね。