11/09/2015

メリとハリ

「あと、15分!」「あと5分!」

ランチ以外は食事の後片付けのあとにグループ瞑想があるので、超ラッシュで作業が行われる。なるべく仕事をあとに残さないようにしたいので、その勢いは凄い。一番大変なのはディッシュウォッシャー。その役割になってしまったラテン系の彼女に負担がかからないように、私がサブでラックに食器を盛り付けることを手伝った。キッチンマネージャがその負担を考慮し、ディッシュウォッシャー担当を交代制にしたらと提案してきたとき「雅が手伝ってくれるんだったら問題ない」と彼女が断るくらい、私たちの息は合っていた。

あの、とにかく効率よく動くために全神経を集中させるアドレナリン溢れるような瞬間は嫌いじゃなかった。その集中力には自分でも驚くくらいで、一種の爽快感がある。

「私たちはずっと同じペースで静かに過ごしていられるからいいけれど、サーバーたちはあんなに忙しくしているのにグループ瞑想に出るなんて凄いわ。どうやったらそのバランスが取れるのかしら?」

最終日にそう生徒の一人から尋ねられたけれど、我々にとったらその『メリハリ』が逆に鎮静をたやすくするのではないかと思えたくらいだった。もっとも私がボランティアに出向くまでは同様にそう懸念したものだけれど、実際やってみたらこっちのペースの方が好ましかった。リラックス感を得るために全身を一度硬直させてからという方法があるけれど、まさしく私たちの作業はそれに近いのかもしれない。

ぎりぎりで瞑想ホールに入り、体制を整えてすんと息を落ち着かせたならば、あとは内側が沈静化するのを待ち、ただ静かなモーメントを受け止める。キッチンのサーバーの仕事の合間に1日3時間だけグループ瞑想に参加することができる、という状況だから、最初からリトリートの瞑想効果などに期待するところはなく、それがかえってよい結果を生んだのかもしれない。




最初のうちは猿が枝渡りをするような『モンキーマインド』が当然として起こっていた。思いはごく軽いもので、レズビアンのキッチンマネジャーに魅惑されている自分を意識したり、キッチンの各メンバーの愉快さを思い出したりと想念は湧き上がる。そしてそれに気づいて呼吸とヴィッパサナーの瞑想テクニックに意識を戻すということの繰り返しであったけれど、だからといってちゃんと瞑想できていない自身にフラストレーションを覚えることもない。今までまったくとして瞑想していなかったので、10日間のサイレントリトリートを再度トライするよりは楽な瞑想の機会に戻れるというのがありがたかった。

ネットに繋がることは、受講生徒同様サーバーも禁止されている。しかし、空き時間にライブラリーにあるダンマ関係の書物を読むことは許されている。最初の数日は早起きと慣れない肉体労働で時間があれば昼寝ばかりしていたけれど、ある程度の余裕を覚えたある日書棚に目を通し、その中から『ディスコース要約本』をピックした。

友人がNorth Forkでコースを取ったときは、ディスコースのときに日本語訳の音声を聴いたという。しかし、私はレジスターのときにそのもう仕込みを怠ったため、着いた初日にリクエストしてみたけれど音声翻訳は与えられることなかった。創設者のゴエンカ師のアクセントはかなり強く、その難解さは生徒たちの間ではおきまりのジョークになっている。なので、私の初回コースの講義の理解度はかなり低かった。後ほど勉強という手もあったかもしれないけれど、過酷な10日間を乗り切ったという体験そのものに満足していたから、その後すっかり放置していた私だった。

それを今、就労の合間の休憩時間にディスコース要約本を読むことによって、やっと自分の中で経験と手法の意味がメイクセンスされる。ゆっくりと噛み締めるように、ときには数ページ戻ったりと、たかが薄い英語本だったけれど、わたしは注意を払って読み進めていった。そして、改めてヴィッパサナーの素晴らしさを理解するような思いだった。そして、その本を読み理解が深まった後での瞑想のセッションは更に深くなり、身体に生じる現象を理解することができ、それが日常にどう活かされるべきなのかにも気づくことができたのは、一種の感動ものだった。前回の講義中に何度も耳にし、最後まで理解しないまま終わった『サンカーラ』。それが何かを実際体験理解してみると、コース終了後の自分の生活にも更なる変化が訪れた。




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