12/07/2016

Facebookに再度トライ


あっと気がついたら11月の更新を怠っていた。ブロガーの更新は今では月いちの近況報告場所になっているのに、それさえもしなかったことはもうブロガーは記憶の奥底に葬られているのだと思う。私はもう「雅ランティエ」として生きていない。

10月いっぱいでサンフランシスコの部屋を出て、元旦那の住む家に戻り二週間のあいだに更に残っている自分の所持品を総ざらいして処分した。

クロゼットを開けた時に、ゴルフクラブ一式やVitamix,キッチンにパニニグリルやフードプロセッサーなどが残っていて驚き、それをオンラインで売ったりタダで譲ったりした。

サンフランシスコで着潰した服を処分し、更にクロゼットに残っていた服を寄付し、それでも処分するには惜しいもの、手放せないものは日本の実家に運ぶことにして、アメリカからクロネコヤマトの宅急便の大箱ひとつを送り、大小のスーツケースと機内持ち込みを含めた全53Kgが私の物質としての全財産になった。この身軽さは信じられないほどに気持ちがいい。




少し前からFacebookを始めている。旅好きな方たちから旅の情報を集めたりするのに新しくアカウントを作ってみた。正直、以前Facebookをやっていて面倒なことが起こったりしたり心理的に負担になっていたのもあり、いつやめても問題にならないようにリアルな友人とは繋がっていない。ところがリアルな友人と繋がっていないことが幸いしたのか情報用として作ったにもかかわらず、なんだか今回は投稿が続いている。

今までブログを書いていた時の旅の記録は後ほどまとめて掲載していたけれど、今回はリアルタイムで残しているのが違うところ。一人旅だけれど、コメントが入って伴走もあるせいか、結構楽しかったりする。

名前は当然として「雅ランティエ」を使っておらず、現在「のまどまこ」というふざけた名前で登録してある。まぁ「まこ」は日常で使われてる名前だから少しリアルに近いということでFacebookには許してもらうことにしよう。

バナーの作り方を調べたけれどわからなかったので、このリンクで飛んでください。→Facebook のまどまこ

そのうちに、旅ブログを専用に作るかもしれないけれど、とりあえず現在はFacebookに記録を残しておきます。




ということで、母の88歳の米寿のお祝いに参加するのを第一の目的として11月16日に日本に帰国した。

宇都宮の実家でのんびりした後、以前から綿密に計画していたJRパスを使っての7日間の日本縦断往復旅行にチャレンジした。やりたかったことのひとつであったけれど、バンクーバーで旅体力の低下を意識してからは7日間でそれをするのは無謀かもしれないとちょっと心配した。

先日無事それから帰還。ちょっときつく感じた時もあったけれど、お天気に恵まれ順調に計画通りに十分すぎるほど日本を満喫してきた。以前鎌倉の33観音巡りをした時があったけれど、それと同じ終わった時の充実感があり、未だにその余韻に浸っている。

7日間の旅の荷物はこれだけ

10/30/2016

『旅体力』の低下

街中はハロウィン一色になってきた10月の末。サンフランシスコの部屋を離れる引越しでハロウィンイベントはなし。11月から2週間夫の住む家に戻り、再度アメリカを離れる準備をする。




10月中旬に、カナダはバンクーバーの友人を訪ねた。旅行というほどのものではなく、移民手続き関係でしばらくカナダから出られない彼女を知り、私の方から会いに行った。前回大阪で会ったのはいつのことだったろう。

空港で声をかけられた時に、あまりにも違う雰囲気の彼女に驚かされた。単に年をとったというだけではない、顔つきに著しい変化があった。母親の顔だった。

友人に隠れるようにして6歳の息子が恥ずかしそうに挨拶をする。前回は彼が幼稚園に行っている時間だったので会うことはなかったが、彼女がブログに写真を頻繁にアップしているので顔は見慣れている。彼は英語だと安心するらしく英語での会話ですぐに打ち解けてくれた。

バンクーバーは10年前に旅行で来ていた彼女と落ち合った以来の街だ。あの時はオリンピックで地価が沸騰している話題で持ちきりで、いつしかオリンピックは行われ知らぬ間に終わっていた。うなぎのぼりだった物価の上昇も最近になって少し落ち着いているという。

オリンピックの聖火台がある公園を散歩しながら話し、翌日ハイキングに一度行ったくらいであとはとにかく私たちは話し続けた。昔話は楽しい。25年前に1年だけ同じ職場で働いていたというだけの関係なのに、こうして機会があれば落ち合って話ができる関係を築いているのも、彼女が大阪の人間だからだと思う。

私たちは10歳年齢が違うが、45歳の彼女が著しい衰えを自覚していることを語っていた。なんでももう旅の計画を立てることが苦痛だという。たかだか一泊するための宿泊地を検索することさえも面倒だというのだ。だから私が今こうして旅をしていることに驚愕と尊敬の念を抱いてると表現していた。あれほど旅をしたがっていた彼女の口からそう訊くのは意外な感じがした。

日本にいる時はママ友その他社会のプレッシャーで色々気をつかわなければならないけれど、ここバンクーバーでは何も気にせず服装さえも気にせず、購買欲もないという。シングルマザーの生活はしんどいけれど、日本にある面倒臭いこともない。息子がこちらで生活したいと望んでいるので、してあげられることをしてるという。確かに彼女の表情にあるのは、欲をなくした落ち着いた女性そのものだ。

旦那は日本で単身で仕事をしているけれど、数ヶ月に一度仕事の暇な時期にロングステイでやって来る。そんな彼と家族ごっこをして、それで全てがうまく回っているのだと説明した。一時は離婚を真剣に考えていた彼女が、意外な形で丸く収まったことに感心していた。




「普通はリビングに薄いマット敷いて寝てもらうんだけれど、息子が自分のベッドを譲るというからそうして。ギリギリで寝られるはず」

そう6歳の坊やから優しい提案をしてもらったのは良いけれど、そのマットの硬さと小さな布団に不安を感じた。そして、彼女たちと同室で寝た最初の夜はほとんど眠れていなかった。

考えてみると、バンクーバーに来るフライトからすでに私は疲れを感じていた。そしてこの硬いマット。幸運にもサンフランシスコの部屋のベッドは今までになくふかふかのお姫様ベッドだったので、それに慣らされた身体が悲鳴をあげていた。

「あぁ、これはヴィッパサナー瞑想合宿レベルの辛さだな」

そう眠りの狭間で思い出していた。

2日休みを取った彼女と過ごし、3日目は起きるに起きられず、仕事に出かけた彼女の部屋で情けないほどダラダラと過ごし、午後に近所にマッサージ屋を探しダウンタウンを軽く散歩するだけで終わった。『旅体力』の低下を痛感した。ダンスをがんがん踊っているから体力があるつもりでいたけれど、それとは全く関係ないものだということに気づかされた。

翌日はマッサージのせいでかなり楽になっていたのでありがたかったし、帰りのフライトも映画を見ているうちに着いたという感じで、少しの『慣れ』を意識した。これを知らずしていきなり日本に飛んでいたらどうなっていたことやらと少々焦った。私の身体も確実に衰えている。




彼女と息子との時間はとてもほっこりしたものだった。彼女は欲しかったものを手に入れそれに満足している風であった。彼女はいつでもガールフレンドであり、パートナーであり、そして母親である。『誰かのサポートして生きる』という役どころが性なのだろう。

友人が空港まで送ってくれて、クルマを降りたところでハグし別れを告げた彼女の顔つきは3日前のそれとは全く違っていた。昔のききっとした顔つきに戻っていた。




ぼちぼち考えていた計画に取り掛かり、綿密な旅のスケジュールを立て始めた。日取りや地理的な勉強をして訪れる場所や宿泊所をリサーチし始めると、ノンストップで根詰めて没頭する私だけれど、少なくとも面倒だという気持ちは起きていない。それどころか、全く皆無と言っていいほど知らなかった土地の特徴が、だんだん浮かび上がって来るという過程にエキサイトしている。素直に楽しい。

あとはどれだけ体力がついて来るか。それを後ほど実感することになるのだろうけれど。









9/08/2016

寒い寒い夏

何気なくブロガーの方をチェックしてみると、それでも私の名前で検索してブログを訪れてくれる人、アメブロからのリンクをつたって訪問してくださる人、そして、多分に定期的にチェックしてくださっている方々がいることに気づき、そろそろ更新をするべきかなという気にさせられた。なので、やっとこの辺で近況報告を落としておくことにする。2ヶ月放置してしまったことだし。




と言っても、特に報告することも余り無いのが事実。私の生活は4月にサンフランシスコ市内のヒップなエリアにあるお洒落なビクトリアンハウスを間借りする、3人のゲイ男性と大きなうるさい『お父さん』と呼ばれる犬とほっこりした生活が続いている。

6月にルームメイトが子猫を飼いだしたけれど、自分の犬も子猫相手なら仲良く暮らしてくれるだろうという呑気な期待が見事に裏切られ、ガミガミ親父の犬がさらにうるさくなったという展開になった。それなのに彼らが2週間のイタリア旅行に出かけ、結局私が動物たちの面倒をみることになり、なんだか孫の面倒を見るおばあちゃんのような気持ちにさせられていた。寒いのもあってすっかりひきこもりになっていたのだった。

そう、寒い。ベイエリアに20年も住んだ私だけれど、実際サンフランシスコの市内に住むというのがこんなに寒いものだとは想像以上のもので驚いた。その寒さは腹が立つくらいのものなのだ。



サンフランシスコベイ横の太平洋は、ちょうど暖流と寒流がぶつかるところで霧が発生しやすい。『世界で一番寒い夏』というのが有名なこの地だけれど「こんなに寒い夏は珍しい」と友人が言い訳をしていた。それはローカル新聞でも何度も取り上げられていて、7月の寒さは過去の記録を上回り、さらに8月も気温が21ど以上の日がたったの1日しかないことが先日のローカルニュースになっていた。

よりによって寒いのが苦手な私が住んでいる期間に限ってそういうことになっていた。

それだからこそ晴れて少しでも暖かい日中であるならば、人々は夏の格好をして笑顔眩しく人生楽しそうだし、私も幸福感に満ち溢れるけれど、それも夕方になるとまた冷たい風が吹き付ける。大判のショールは手放せないし、外に出て外気を感じ、家に戻ってユニクロの薄型ダウンジャケットに着替える日も幾度となくある。

バリを離れて以来、雨というものに遭遇していないように思える。濃い霧の中を歩いた時に、湿った空気を感じでどこか懐かしさを覚えたけれど、そんな日もごく少ない。ベイエリアは乾いている。日本の台風のニュースもピンとこない。

この月曜日はアメリカはレイバーデイの休日だった。友人が恒例のBBQの集いを企画してくれて、橋向こうのバークレーマリーナのピクニック場で楽しい時間を過ごしたが、その暑さにクラクラしてしまった。橋を渡るだけでこんなにも気候が変わってしまう。

寒さに腹を立てていて暑い方がどれだけマシかと思っていたけれど、この暑さを経験してやっぱりほどほどがよいなと認識させられた。なんのかんの言っても、やっぱりベイエリアは住みやすい。この四季のない変化のなさで甘やかされている状態に飽きてしまう人も多いのだけれど。



寒いのだけれど、サンフランシスコにはカルチャーがある。

「私の国にはこういうダンスをやっている人があまりいないのだけれど、ここはみんながアーティストみたいな街。引っ越してきてよかったわ!」

そう、ダンスのワークショップで知り合ったベネズエラ人の女性が言っていた。確かにそうだし、この街は全ての人を受け入れる。みんな違っていていい。だから居心地がいい。

けれども私は、やっぱり暖かいところに住みたい。南国の湿った空気が恋しい。

今現在は理由があってここに滞在している。自分の自由のために今このタイミングでしておかなければならないことがあった。それもある種、人生上の決断であり、先日大きな山を通り越してホッとして少し放心していた。

放心しながらも客観的に自分を観察して、どこまで貪欲に自由を獲得しようとする私なのだろうと、そういう部分では本当にマインドはアメリカ的なのだろうなと感心した。

なんとなく後2ヶ月でこの地を去ることになるだろうという予感を覚えている。そうとなると、寒い寒いと文句たれの自分がどれだけこの地を愛しているかにも気づかされる。

それと同時に今までタラタラした生活が、次の段階の準備が始まるある種の緊張感を伴ったものに少し変化した。調べ物もたくさんある。

登山をする者が自宅でギアを揃えていくときに、こんな高揚を得るのではないかとふと思った。




6/22/2016

新しい時代の幕開け

ダンカンのパフォーマンスが終わってから、しばし放心してだらだらとした日々を2週間弱続けていた。

さすがに身体が鈍ってきたのを感じたので、ヨガとエクスタティックダンスを始めたけれど、それ以外は穏やかなルームメイトたちとのまったりとした日々が続いていた。自分のチョイスで少し引きこもり気味になっていたようだ。

ふとしたきっかけで去年ハワイに住んでいたときのことを思い出し、あの当時のスピリチュアルな出会いのインテンスさに今更ながら驚かされた感じがした。それと比べたら今現在の私なんて何も起こっていない極めて平凡な日々、という感じ。だからと言って『停滞』を感じているわけではない。多分これが普通なのだろうし、この静けさになんとなく展開の予感さえも覚えていた。

『スピリチュアリティ』という言葉を胡散臭いと思っていた時代があり、嫌でもその方向を学ぶ機会が訪れ、そして今はそれがディフォルトとなって、スピリチュアリティを意識しない自分になった。

驚くべきシンクロニシティにいちいち興奮していた私はそれを人に伝えたかったし、それを信じる人と一緒にいたいと思った。でも、やがてそれが『日常』になると、驚きも興奮もなくなり、シェアすることもどうでもよくなってしまった。それを否定する人といても平気だし、相手の見る世界を存在する世界を尊重する。そしてスピリチリュアリティの探求さえもなくなってきた最近だったことにふと気付いた




それでも宇宙は面白い。ぽーっとしている私にちゃんと気づきを与えてくれる。ここしばらくご無沙汰していたカナダのヒーラーからぽろりとメールが降りてきた。彼女とは去年UFOのスカイワッチングのツアーで同室になりポートランド観光を一緒にして気が合った。そして、それとシンクロするようにハワイ滞在で知り合ったヒーラーから連絡がきた。それでお互いとしばしのやりとりが合った後に、この夏至の『夜明けの晩のおわり』のことを知ることになる。

それを読んで感慨深い気持ちになった。『何が起こっているのか』はその渦中にいるときには気づきにくいけれど、振り返ってみるとあまりにもクリアなそれに唖然とするときがある。

私の『覚醒』の意識は2008年のある日クルマを運転しているときに感じることができた。それがあまりにも不思議な感覚だったので、当時書いていたミクシィにそれを記録している。その後、あまりにもイッチャッタ感じの記事が続き、書いている本人もそのコミュニティにふさわしくないような気がしたので、その気持ちを落とすための別なブログを立ち上げ、それが『引き寄せの法則って本当よ!』(後の『みんなそれぞれの宇宙』)というアメブロだった。

『引き寄せの法則のからくり』を書きながらも2012年のマヤカレンダーが終わるという12月に密かな興奮を覚えていた。『アセンション』の意味もよくわからないままにしても統合の時代への『百匹の猿現象』を予感し、自分に起こる不思議な事象に興奮しながら、宇宙に身をゆだねる決心をして、今の場所に来た。

私の住むパラレルワールドはとても穏やかで優しい。

最近感じていた大きな区切り感はこれだったのか、と大きくうなづけた感じだった。




『全ての生命(いのち)が響きあう場所で天に導かれて愛を生きる』それがこれからのあるべき生き方であるらしい。

『サレンダー』は宇宙に導かれるままの生き方。どうやら私の歩いてきた道、これからの道もこれで良いのだとお墨付きのような気分になれた。

360°自由な私。未来の計画さえもない。あるのは宇宙への信頼だけ。






6/08/2016

55歳の春

「ねぇ、おみやは誕生日どうするの?」
「なーんも考えてない」
「考えてないって、せっかくのGo Goじゃない。何かパァーっとしたことしたらいいのに」

おかまくんにそう言われるまで、実際自分の誕生日のことなど気にもしていなかった。事実誕生日の頃はその月末にあるダンスパフォーマンスのリハに追われる毎日で祝いどころじゃない状況になっているだろうと軽く予想がついていたので、自分の中で既に諦めている感じもあったかもしれない。

おかまくんはどこかに一緒に旅行でもしようと提案してきたけれど、それをやんわり断って、J姉の家でサンフランシスコの家族のような古い友人が集まってご飯でもしてもらえればそれが一番の望みだと伝えた。




この5月私は55歳になった。

45歳はお気に入りの若くて可愛い女子を集めてNYのおかまバーで破廉恥なパーティをした。あの時は22歳年下の『子犬君』と知り合ったばかりだし、人生一番美しかった時だった。50歳は仲良しの女子を誘いスカイダイビングをし、夏にインド旅行のチャレンジに挑んだ。

55歳のときに何か特別な祝い方をしようと思いながら50代の前半を過ごしてきたが、実際心の準備ができぬ間にその時がきてきてしまったという感じだ。別な言い方をすると、45歳から50歳までの5年間の体感と50歳から55歳に至るまでの5年間の体感が全く違う。まるでまだあと1年半くらい先のようにさえ感じられたくらいだ。

それだもの、きっと60になるまでの今後の5年はもっともっと短く早く感じられるのだろう。そんなことを60歳の男性に話してみたら「そうだよ。風のように時間が過ぎていく」と応えていた。

妙な感覚だけれど、「時間がない」というまんじりした気持ちがあると同時に、私にはたくさんの時間があることに気づく。自分の残された時間を自分のために使うことができるこの幸運な境遇を、無駄にすることなく最大限に活かして残りの時間を生きなければならないという強い気持ちがふつふつと湧き上がる。




何かが水面下で動き出しているのを感じることができるのに、それが何であるのかは自分でよくわからなかった。心を澄ましてそれが浮かび上がってくるのを待っていたという感じがあった。

その中のひとつの行為として、2009年から綴っていたアメーバブログをとうとう終了する告知を出した。このブロガーの『サレンダー』に逃げてきた時期はあっても落ち着いたところでまたアメーバに戻っていたけれど、自分の中で何かが違うという違和感を振り切ることができないまま、惰性で続けていた旨も承知のことだった。

2009年に天からの声を聞きブログを開設。まもなく愛犬が亡くなり夫との関係が変わっていった。自分で無意識ながらもそのブログの伏線は『離婚をしたいという欲求』だったということに今になって気づく。離婚などできる自分ではないので日常をポジティヴに描きながらそんな気持ちを振り払ってきた私だった。

改めて時間が経って振り返ってみると、やっぱり『願いは叶う』のだなと思う。私は自分の働きかけではなく、皮肉にも事件が重なり夫が離婚を運び、それもダメージを最小限に抑えた『ニコニコ離婚の実現』であり、時間をかけて別れた夫との関係も『元夫婦』というベストなものに変わっていった。離婚のストレスは相当なものだ。それが癒えるのに平均5年から6年かかるらしいと何かの本にあったと誰かが言ってたけれど、その『癒えた実感』を得ていた最近の私なのだと思う。その実感が大きな区切りとしてアメーバブログ終了に結びついたのだろう。




バリで出会った男とチェンマイで一緒に暮らすという恋愛を冬の間してきた。密接な関係は3ヶ月。遠距離はしないままも意識下に常に彼の存在がある時間をも恋愛期間とするなら5ヶ月の関係だった。4月に2度サンフランシスコで男と再会し、そして終わった。身体に染み付いた『彼恋しさ』が日ごとに薄らいでいくのを実感しながら、先日ふつりとそれが全て消え去ったのを認識した。

どんなに男が将来を語ろうとも、離婚したてで羽を生やした私が彼とずっと一緒の人生にコミットするのには余りにも早すぎた。そして最高の性的相性のまばゆさの後ろにあったモンダイは時間をおいて再会すると露骨にその姿を現した。最初から予想はできていた。彼がそれを受け入れないでいただけだった。

私は次の結婚を求めてはいない。このままずっと恋愛だけを楽しんで生きていくのでも構わない。ババアになっても恋愛はできる。80歳になったとしても。




4月からダンカンダンスのワークショップでギリシャ神話のナインミューズのリサーチをし、グリークシアターの歴史などを学んだ。ダンサーのひとりひとりがミューズを割り当てられ、私は『悲劇の女神メルポメネ』を選んだ。

メルポメネをリサーチしながらそれを舞いで表現し、やがてはショーに向けてソロを踊ることになる。

小さなプロダクションでひとつのパフォーマンスをクリエイトするというのは並大抵のものではなく、相変わらず肉体的にもしんどかったけれど、秋のパフォーマンスに続いて数をこなしながら自分の中で成長していくものをはっきりと感じ取っていた。

ダンカンダンスのナンバーの衣装は相変わらずのシルクのチュニックだけれど、ナインミューズの舞いでは身体にぴったりと張り付くロングドレスを渡された。それを怖気づくことなく受け入れて素直に着用した自身に静かに感動した。ダンサーズボディを手に入れ30代のプロダンサーと一緒にパフォーマンスできる55歳の自身が誇らしかった。力強い女神として歩き、舞う。髪を盛り上げてかんざしをつけた自身を鏡の中に見たときに、以前目にした観音像と重なった。

55歳の誕生日のイベントは自分が考え自身に与えたギフトではなく、このダンスパフォーマンスショーまでの過程での感動だった。学びがあり、人として女としてもう一段階上のレベルに上がれたたような気がした。もちろん自分の中の縦の視線で。

この歳ともなると、横の目線で他人と自分を比べることもない。だからこれ以上でも以下でもない。今現在のこの位置に到達した自身にまぎれもなく満足している。





ショーのダンカンナンバーでのモーメント


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4/13/2016

元夫のムーブオン


元夫が家に住んでいるので荷物を置いておける利点があるうちだけできるノマドライフ。数ヶ月毎に顔を合わせ短期に家に滞在することで元夫との関係が客観的に見えてくるような感じがする。

リタイアした彼が2月に1ヶ月間インドとスリランカの旅のツアーに参加していたのは驚きだったけれど、今回3月頭に帰ってきて、空港に迎えにきてくれた彼が顔を合わせるなり4月にも2週間ハワイはカウアイ島に出かけるとの報告があった。

「女と出かける」

「あ、そうなんだ」

彼が言葉少ないので私も深く追求することはしなかった。




私の滞在中はキッチンでたまに顔を合わせれば普通に話をしていたけれど、彼は毎日こざっぱりとした格好でどこかに出かけて行き、長い時間帰ってこないときもしばしばだった。

夜は夜でもう8時半から9時くらいにには部屋にこもってしまい、ドアの向こうではずっとぼそぼそと誰かと電話で話をしている。こんなのは以前にはまったくなかった。

インドの旅の続きなのだからそんなに新しい服もいらないはずなのに、部屋には新しい服が山積みになっていたし、どこか気合い入ってるなという感じがする。

新しいガールフレンドの存在が、彼をさらに穏やかにしている感じもうかがえる。




最新の超軽量のMacbookを購入したのでiPad miniはいらんかな、と旅の間家に置いてきていた。

元夫に使うならどうぞと渡しておいたのだけれど、結局は使わないらしいので、今回サンフランシスコ市内での生活に持ってこようとしたら、リセットしてなかったので夫のメールがろこつに出てきてしまったのには焦った。

覗いちゃいけないわよねぇ〜って思いながらもつい見てしまったら、結構な量のオンラインデートのリスポンスが残っていた。それもひとつのデートサイトだけではなかった。

以前婆友がオンラインデートサイトに登録したらおすすめの相手に元夫のプロファイルが出てきた、と報告してくれたので、それなりにしてることは知っていたけれど、複数のサイトに登録してこれだけのコレスポンデンスがあるとは意外だった。

どうせまた若いアジア人の女狙ってるでしょ、と思っていたのだけれど、なんと彼はほぼ彼と同じ年の60代後半から70ちょいの白人の女性とやりとりしていた。

さすがにさらっと流してすぐリセットしたけれど驚いた。




家でだらだらしていると、離婚の発端にもなった元夫が好きだったご近所の女Dが犬の散歩の途中でドアベルを鳴らし以前のように部屋でしゃべっていったけれど、その話をしたら彼女も驚いていた。

「白人の女って、多分ジューイッシュ女なんじゃないかしら。以前グループで遊んでいたときにも彼はジューイッシュのおばちゃんたちとウマがあってたから」

そう言われてなるほどねと納得した。

再婚して遠くに移り住んでいたお隣さんが、12年間他人に貸していた家に戻ってきた。私が離婚をしたことを報告すると、特に驚くまでもなくさらりと納得していた。

彼女はかなり私より年上だろうけれど、離婚経験者であれば共感できることはあるのだろう。他人行儀な隔たりもなく、女としてさらりと本音を話すことができる関係というのはありがたい。




「俺はもう長くない。身体で感じるんだ」

同情が欲しいのかそれともシンプルに現状報告なのか、元夫はそう言うけれど、彼は10年前からそう言い続けていた。

「だったら、身体が動くうちにアシスタント付きのリタイアメントコミュニティーに引っ越ししておいたほうがいいよね。私がどうこう決めることじゃないだろうけれど」

私にはそのくらいのことしか言えない。

「今はまだ決めたくない。あと1年家を売るのを待ってくれ」

彼がそう言うから私は彼の望むままにする。年寄りにプレッシャーを与えたくない。

もしかしたら、今付き合っている彼女と一緒に住むという可能性もあるのかもしれない。それを思ったら今下手に無駄な動きをしたくないという彼の気持ちは十分に理解できることだ。そしてその分、私にも放浪ができる時間が増える。




「俺もお前を見習ってポジティブに生きなきゃな」

前回私が家に戻ってきていたときにそう言った前夫には驚かされたけれど、その結果ががんがんオンラインデートにアクティブになることだとは予想はしてなかった。

70歳。長い間心配していたパーキンソン病も良くはならないが悪化することもなく止まっているという感じ。

弱っちい感じだけれど、着ている服や靴は真新しくセンス悪くないし、清潔感には溢れているから、同じ年頃の女性にとったらグッドキャッチなのかもしれない。

体力とか行動範囲とか共感できることが一緒で、スローな時間を過ごすことができる相手が年寄りには一番良いし、それは私ではない。

バイタリティがあるうちの17歳差はなんら問題はないけれど、お互いの体力と世界が変わったときに、どちらかに相当の負担がかかるのが『歳の差結婚』だろう。




そんな女ができたら自分がぞんざいに扱われるかと思えばそういうわけでもなかった。

家族というか親戚のような感じで、ケアすべきことはちゃんとやってくれる。怖かったけれど、私もどうにか独立できるようになった。

財産分与についても元々は彼のお金なんだからと私から求めるような言葉は出さなかったし「それじゃダメよ。今のマーケットが家の売り時。損するわ」って周りのアメリカ人女性からは言われるけれど、それ故の結果彼が私に与えてくれるものが増えていっているのは事実だ。

やっぱりお金に変えられないものはある。




サンフランシスコ市内に二日かけて引っ越し。

1日はMINIに荷物を詰め込んで運び、クルマは家に置いておくことにして翌日は電車で市内の新居に移動した。

タクシーで駅まで行くつもりでいたけれど、元夫が送ってくれると言う。

「一ヶ月も長い間居候させてくれてありがとうね。何か必要なことがあったら言ってね。いつでも戻ってくるから」

クルマを降りるときそう告げたら

「問題ない。必要ならいつでも頼ってくれていいんだよ。気をつけて暮らせよ」

そう言ってくれた。




こだわりもわだかまりも、後悔も甘えもないクリーンな感情。『エモーショナルハイジーン』というのはこういうことをいうのだろうなと思う。

「旦那さんはたくさんのお金を残してくれるわ。そして、父親のようにあなたが独り立ちできるように世界に送り出してくれる」

自分の生き様が残した結果ではあろうけれど、14年前に怪しい占い師にそう言われたことがある。その言葉をふと思い出した。