12/11/2015

過去の映画が重なるとき


道端のトラックから熱帯地方の果物を買って帰るときに、突然デジャブーのような感じで『Against All Odds (カリブの熱い夜)(1984)』のワンシーンを思い出した。

ジェフブリッジズが依頼されて探している金持ちの娘をカリブの島で見つけたとき、その女性が真っ黒に日焼けした肌でずた袋を下げ、スクーターでローカルな買い物をする『島の生活』をしていた。

たかだかそれだけのシーンなのだけれど、当時20歳そこそこの私に強烈な印象を与えた。この映画、フィルコリンズの同タイトルの挿入歌は有名なところなので、覚えている人もいるかと思う。

そういう映画の何気ないシーンは潜在意識に残り、後の人生の展開に影響を与えるということはあると思う。









車が入り込めない細い路地を通ってステイしている家に辿り着くが、その途中に住んでいる隠居画家老人。何気に覗き込んだある日から、時々意味なく立ち寄りどうとない話をするようになった。そこの大家のバリ人の婦人と顔見知りになり、やがてたまにデンパサールのシティからやってくる大家の息子夫婦と顔見知りになり、他愛のない話をする時間がある。

ついでだからと隠居画家老人と散歩をする。彼の二匹の犬が一緒に歩く。リードはつけない自由歩きだ。途中で彼の知り合いに出会い、また近所の顔見知りが増える。そういうまったく異色の人間が暇を持て余して一緒につるんでいるとき、映画『Station Agent (2003)』のワンシーンを思い出す。特に目的を持たぬまま平和な時間を共有する暖かさがいい。





パトリシアクラークソン演じる中年女性の、もたもたした感じがまた自分と重なるんだよなぁ。






チェンマイからやってきていたユダヤ人男性が、私に会いにまたバリにやってきた。彼のビジネス絡みではあるけれど、メインの目的は私と一緒に過ごすことだという。生返事をしておいたら、いきなり5日間のバイクでのツーリングをふってきたので仰天した。確かに一緒の楽しい時間は過ごしたけれど、一夜を共にしたわけではないというのに。

向こうは自分と同じだけ私も盛り上がっていると勘違いしていたから、私のリアクションにびっくりしていた。男はいつも夢見がちで、女はシビアなほどに現実的だ

そんなとき『Eat, Play, Love (2010)』のシーンが蘇った。ハビエルバルデム演じる男がジュリアロバーツにサプライズでボートを見せて「離れ島に2、3日キャンプに出かけよう」と持ちかけ、ジュリアロバーツがめちゃくちゃフリークアウトして怒り逃げてしまうシーンだ。それを見てひとり笑った。リアクションが本当に同じだったからだ。







「私は今の自由を愛しているの。バランスが取れているこの状態が好きなのよ。離婚を通り越してやっとフリーになれたのに、なぜ今更同じ男女の心のもつれを繰り返さなきゃいけないのかしら」

そう何度か男に告げたけど、男はその都度辛抱強く私を学ぼうとする。





バリに来ることをいつ決めたのだろう。

「Eat, Play, Loveをしてるのね!じゃぁ、バリに行かなきゃ!」

6月にヴィッパサナーのサイレントリトリートでルームメイトに自分の身の上話をし、旅行で転々としてると告げたら、彼女がそう言ってきたので「はぁ?」と思った。

確かに映画は見たけれど、ジュリアロバーツのファンではないのですっかり記憶の外だった。

そう言われてから、そういえば昔からの行ってみたい場所のひとつだったかもしれない、とそこで我に返る自分だったのかも。バリの何をも知らずとして、いつものごとく宿とチケットだけを確保して、あとは成り行き任せの旅になった。




今や私は出会う人々に「日本人に見えない」と思われるほど日焼けで色黒になった。

考えてみれば、今年はハワイはオアフから始まって、サンディエゴでも真っ黒になったし、ずっと日焼けし続けている。日焼けを恐れて外のアクティヴィティを避けていた私、ハイヒールが定番になってぺたんこの靴で歩けなかった私が、現在ビーチサンダルで相当な距離を歩いているとはなんて皮肉なことだろう。

友達はいない。私は多くのひとりの時間を過ごしている。

ときどきずっぽり日本やサンフランシスコの友人とLINEで会話しているけれど、ネット環境がない生活はやっぱり考えられない。

近所を歩いていると私の名を呼ぶ人間がいる。タクシーのお兄ちゃんだったり、近所の婦人だったり。歩いていて出会うと家はもうすぐそこだというのに、タクシーのお兄ちゃんが乗せて送ってくれたりするのはありがたい。バリの人間は笑顔に溢れる。すれ違いざまに笑顔で挨拶してくれるのはディフォルトだ。

ここのそんな『異邦人』の立場で十分なのかもしれない。私に必要なのは『距離感』なのだ。




夕方、ジャングルのシルエットが闇に消えるまで、バルコニーのデイベットで空を眺めている。肌に優しい暖かい空気にありがたさを覚えながら、何を考えるまでもなくただそうしている。

ひと月も経つと、当時の興奮は消えた。それでも奇跡的な風景を目の前に幸福感とメランコリックな気持ちを覚えながら、私は寂しいのだろうかと自問する。

でも、寂しい、という気持ちがどういうものであったのかも、よく思い出せない。




12/08/2015

盲目の男性とデート


ウブドにやってきて一番初めに知り合った男性は、盲目の人だった。

長い散歩の後、お寺の近くの骨董屋を目にして何気にそこに入った。白髪のポニーテールにまるで仙人かと思われるような胸まで届きそうな長い髭の姿の老人が入り口に座っていたので、そこのオーナーかと思い、軽い挨拶をして中を見学した。

パペットを目にして、そうだバリにはこの人形があったのだと気付き、パペットショーはどこで見られるのかと尋ねたことから私たちの会話は始まった。

立体的なパペットは他の地方のものであり、ここウブドでは平たい皮でできた影絵用のシャドーパペットのショーを見ることができるとその老人が答え、そして彼はここのオーナーの友人であり店番をしているだけと告げてきた。話をしてみたら、サンフランシスコで骨董屋を経営していて、今は買い付けの旅の途中だということだった。

彼が白い杖を持っていたので、一瞬あれ?と思ったのだけれど、彼の瞳は私を捉えていたし、動き方も極めてスムーズだったので、彼が全盲だということを告げてくるまでそれに気づかなかった。

全盲でありながら8月以来ずっとアジアの国々を一人で旅をしているということにど肝を抜かされ、彼に対する関心が募った。彼はユーモアに満ちていて、私は何度か大笑いさせられた。だから、彼自身が私に興味を持ち、後ほど一緒の時間を過ごさないかという提案には十分に乗り気だった。




名刺をもらって、彼の名前や店を検索してみたとき、彼の存在がSF Gateという地方紙の記事になっていることが判明した。読んでみたら、なんだか数年前に癌で死に別れた女房を全盲の身で献身的に介護したというセンチメンタルな記事だったけれど、そこに本当の彼の姿を捉えていない違和感を覚えた。

後ほど彼から買い付けに同行するかという誘いを受け、専属のドライバーが運転するその車の中で、私が記事を発見したこと、そしてその内容に対する感想を述べたら、彼自身も同様に不甲斐ない気持ちを覚えたということで、私の洞察力に関心し言葉をありがたく受け取っていた。

そして、そこでなんと11年前に私が初めてアルゼンチンタンゴのレッスンを取ったインストラクターが、彼の娘だということが判明して相当にびっくりした。世界は本当に狭い。




12年前に視力を失い、それから別のセンスを発達させてきた彼の行動には驚かされるものがある。

2月にサンフランシスコで行うイカット(絣)のエグジビションのために、新しい個人のコレクターを探し求め、その場で生地に触れただけでその良さに惚れ込み鳥肌を立てていた。全盲なのに、目の前の織物の色を当てることができる。明るい色だったら、そのエネルギーでわかるのだそうだ。

ランチを一緒にしていて、私がテーブルの向こうにあるナプキンに手を伸ばすと、私よりも先に彼がそれを手に取り渡してくれた。

彼は全盲のフォトグラファーでもある。マスクとパペットの博物館に行ったときは、対象に手を伸ばすものの、その手は物の手前10cmでぴたっと止まり、そこから後ずさりしてシャッターを切る。物が持っているエナジーと温度で判るのだそうだ。

私の姿を私のiPhoneで写真を撮ってくれる。私の声の方向でしっかり私を捉える。ズームアップの私の顔でさえ、しっかり真ん中に収まっていて驚かされた。




彼はインドネシア人であるもののオランダ系の血を持ち、よって独立して政権が変わったときに家族は国を出なければなかった。オランダでも生活は厳しく、それでアメリカに移住したとのことだった。そういえば、インドネシア人と言われても周りと違った肌の色にピンと来なかった。彼はどちらかといったら色白の中国人に見える。

満月の日にティルタ・ウンプルで沐浴することを誘ってくれた。彼の手を取りながら、一緒に現地の人と沐浴をおごそかに行った。彼にとっても初めての経験だったらしく、たまたま彼と知り合ったことでそれができた私もラッキーだと言える。

彼はインドネシアに盲目の子供のためのスクールをサポートするプロジェクトを始めている。そのおかげで、二日ほどは一緒の時間を過ごしたけれど、後はかなり忙しくなっていた。一度、彼の古い友人宅でのベジタリアンディナーに紹介してもらった。アメリカ人とイギリス人の年配の女性で、25年前にウブドに住んでいた時のご近所さんだったらしい。

25年在ウブドの人から聞くローカルな話は、結構興味深い内容のものだった。やっぱり人間関係は『村』独特のものなのだなと思う。




彼から最後のテキストが届いた。音声変換機能があるので、テキスト会話が可能なのだ。

まもなくこの地を離れることを知らせてくれ、私と過ごした時間は大変楽しかったと強調した。そして、私の先の旅の行方を案じてくれた。




「君はまるでフレンチのようなストレートさがあるなぁ。いいことだ。君が社交辞令でいいことを言ってるのかどうか腹を探る必要もない

そう彼は笑って言っていた。

「日本人ぽくない」という彼の言葉に「顔もそうなのよ」と言い、私は彼の手を取り私の鼻と頬骨に触れさせた。

「これで色黒だから、会う人によっていろんな国を言われるわ。サリーを着ていた時は、インド人からネパール人かと思われたくらいよ。中東とかメキシカンとか言われたこともあるし」

「そうだな、マヤ人みたいでもあるな」

「濃いメイクしてお洒落してハイヒール履いたら、イッタリアンママ〜ンにもなれるもーん」

その時は、さらりとそんな会話をしていたのだけれど、後ほど25年来の友人宅のディナーで

「私はなるべく人に盲目の人と気遣われたくないので、相手の顔を知りたくてもその顔に触れるということはシャイでなかなかできないし、滅多にしたことがないのだよ。だけど、彼女はとてもスムースに僕の手を取って彼女の顔に導いてくれた。驚いたな。彼女にはそんな私を安心させてくれる素晴らしいストレートさがあるんだ。本当にありがたいよ」

と、語っていた。私は彼の能力を知っているので、彼が見えない人だからといって特別扱いしなかったし、全盲をジョークにさえしていた。それが嬉しかったらしい。




次回私がベイエリアに戻った時には、タイミング良く彼がサンフランシスコに住んでいたら良いのだけれど。



十分にイカットを吟味する彼
品物は100年も200年もする骨董品らしいです。



12/05/2015

バリのグリーンスクール


Yoga Barnで日曜の11時からあるエクスタティックダンスに参加するのもすでに3回目になった。

ダンスの後のベジタリアンランチバッフェでテーブルをシェアさせてもらったら、そこに座っている二人の女性はお互いに一人旅のようだった。他愛のない会話をしていたら、向かいの女性の木の実がついた紐のブレスレットが目に入った。

「あ、グリーンスクールの見学してきたのね?私ももらってきた」
「そうなのよ。よかったよね、あそこ」

同席していたもう一人がその存在を知らずして、異常に関心を示したので、それをしばし説明することになった。




先週のエクスタティックダンスで知り合ったMは、帰る予定を延ばして翌朝早くに連絡をしてきた。なんでも私を連れて行きたいところがあるらしい。

『Green School』と彼が行った時、シンクロだ、と思った。つい二日前にバリの見学地をリサーチしていた時にこの名前が飛び込んできて、ちょっと興味があるとは思ったけれどウブドから離れていたので深く内容を読まずしてパスしてしまったのが再度飛び込んできた、と思った。

Mがスクーターで迎えに来て、カフェでリサーチしてみるとウブドから南に30分ほどのドライブで辿りつけるとのことだった。しかしGoogle Mapを頼りに出かけても提示する場所にそれが見当たらず、かなり迷ってしまった。それもそのはず、それはメイン道路から外れたジャングルの中に存在していたからだ。




『Sustainability (サスティナビィリティ、持続可能な)』というこの言葉は、きっとこれからどんどんいろんな分野で耳にし、目に触れることになると思う。この地球はもう人間の欲に侵されて、そのあるべき姿を失いつつある。もう繁栄の時期をとっくに通り越して、衰退の時期に入っている。地球温暖化が叫ばれ始めた頃にピンとこなかった私達も、続く異常気象を肌で実感しているはずだ。

アル・ゴア氏が『不都合な真実』という映画でノーベル賞を受賞したことは記憶に新しいと思うけれど、当時はその映画のデータが不十分だとか嘘だとかで結構叩かれていた。しかし、あれから既に10年近くの時が経とうとしている今、地球が年々どのように変化しているかはもう明らかなこと。

この学校を創立したのはカナダ人でジュエリービジネスをしていたジョン・ハーディ氏。この映画を見て強い感銘を受け、このスクールを創立した。TEDというプレゼン番組に出演、ビジョンを訴え賞賛を浴び世界中から寄付が集まったらしい。

Sustainability Scienceとはその地球温暖化や大量生産の問題を解決すべく、持続可能な地球社会を築くべくシステムを研究する学問であり、このグリーンスクールは子供のうちからそれを意識した独自の教育方針を持ったインターナショナルスクールでプリスクールからハイスクールまでの子供達を教育するエコな施設である。

建築は全て竹でできており、壁のないオープンな教室が多い。独自の水力発電所があったり、ソーラーシステムがあったり、キャンパスの中に川が流れていたり泥んこ遊びができる場所もある。毎日ツアーがあって、見学者はこのスクールの環境とシステムを知ることができる。

幼稚園児くらいの頃から自分と世界との関わり方、そして自分が意見をもって生きるということはどういうことなのかを学んでいく

教室の後ろに子供達が学んだ作品が貼ってあって『Mindful / Not Mindful』という内容が書き分けられていた。これも大切にしていきたい言葉だ。Mindfulとは心に留めるという意味だけれど、多分に『意識的な生き方』みたいなものだと思う。日本語だったら『心ない言葉』というのが『Not Mindful』であるように、人に地球に環境に優しく生きて行くことを自分たちで考えて学んでいくのだろう。




「わぁ、ここでずーっと教育を受けてきた子供達がどんなことをする人間になると思う?」

ここの見学が終わった後、Mも私も相当に感動していた。私は45分と思っていた見学時間が2時間近くだったことに驚き、暑さで相当に疲労していたから早々にウブドまで帰らせてもらったけれど、Mはまだ少し欲求不満で翌日にまた戻ったのだそうだ。

翌日私は私でまた別な知り合いと出かけていたのだけれど、その彼にグリーンスクールの見学のことを興奮して話したら、反応は微妙だった。サンフランシスコで骨董屋を営むインドネシア人で、買い付けに来ているところでたまたま私と出会ったのだが、インドネシア人から見るスクールの存在はまた違うものがあるようだ。

物静かな口調で語る彼はあまりネガティヴなことを言いたがらないようなので、詳しくはわからない。ただ創設者のジョン・ハーディ氏のジュエリービジネスのやり方に問題があったとか、そのあたりは口を濁す。

そんなことを再度スクールを訪れていたMに話すと、彼はたまたまWifiがつながる場所でラップトップを使用していたら、隣で先生達がミーティングをやっていて、いろんな問題があるような響きだった。ちなみに、ジョン・ハーディ氏はこのプロジェクトで消耗しきって引退し、スクール運営から一切手を引いているとのこと。




もう一つ、その場を訪れてちょっと違和感を覚えていたけれど、その正体がわからなかった私にある感想を書いたブログがそれを教えてくれた。

スクールのカフェやその他の場で現地のインドネシア人が仕事をしている。子供が遊び、親がのんびりカフェでくつろぎ、その横で現地の人々が肉体労働をしている。他の私立学校では全てを保護者が一体となって行われていることが、ここでは現地人が働く人となっている。まるで植民地特権階級のような立場を当たり前と子供の無意識に与えて良いものだろうか?と。

多分に外国人のビジネスがこの地でサバイバルするには、インドネシア人雇用の条件があるのでやむを得ぬところなのだとは思うけれど、どんな環境であれ新しい理想を追求するにはいつでも大きな壁は立ちはだかっているのだとは思う。




世界中から注目されているこの学校への入学希望者は多い。お金を払いさえすれば入学できるところではなく、子供のビジョンとプレゼン能力が入試として条件づけられている。与えられるだけではない、伸びやかな限りない想像力、その種を選別されているというところか。

最近、子供を早くから学校に入れてしまうことが問題視されているという記事を目にしたことがある。子供の脳というのは大人の私たちと違ってもっと流動的で曖昧な世界観を持っている。それを発達させるにあたってもっとゆっくりと自由に育って行くべきのところを、いきなり限定された価値観を埋め込むことで後ほど障害が生まれやすいということなのだ。

『英才教育』という言葉あり、親は子供をより早く教育施設に送り込むことにやっきになっていた時代があり、未だにそうなのかもしれないけれど、今その子供達がどんな大人に育ってしまったかという事実が見える今、また時代は新しい方向へ動き出しているのではないだろうか。




日本語でこのスクールのことを紹介しているリンクがあるので紹介しておこう。ここからかなりの情報が得られる。

まとめ:インドネシア・バリ島のグリーンスクール(Green School)

ジョン・ハーディ氏のTED トーク(Green Schoolのサイトから)



学校のエントランス
圧巻的なキャンパス内の川にかかる橋
教室の一部
メインホールの建物





11/30/2015

ノマド的生き方

私の滞在先のホストがプロファイルに『lived a completely nomadic life, moving from one place to another throughout the worldと自己形容していたことからこの英単語を知ったけれど、最近日本語でよく目にするようになった『ノマド』がこれだったのだ、と今更のように気づいた。

特に知られるところとしては『ノマドワーカー』という言葉。オフィスを持たず、ラップトップひとつでカフェや図書館で仕事をする人を形容するらしい。少し前まではそう言う人を『フリーランス』と呼んだものだけど、今現在の流行り言葉がそれなのだと。『フリーター』という言葉が定着して社会的にもその存在が認められるようになってから随分経つ。


私の生涯はそれそのものだったけれど、1980年代にはまだ普通に会社勤めをする人がメインストリームだったので、私のように仕事を転々としては外国と日本を出入りしている存在はまるで社会的落伍者のように扱われた。母には顔を合わせればいつも「どうして他のお嬢さんと同じような生き方ができないものか」と愚痴をこぼされ、それが嫌でまた外国に逃げるということが続いていた。海外では普通に生きられるのに、日本社会に戻ってくると自分がちっぽけに思えて惨めで本当に辛かった。


そんなわけで初めて『フリーター』という言葉を目にしたときには時代も変わったのものだと思った。もう少し後に生まれてきていたなら、私のような存在がそう悪のように思われなくても済んだのかもしれない、と。





ここバリにはそんなノマドワーカーがたくさん居る。ラップトップとスカイプコンフェレンスで仕事が成り立つのだったら、ネット環境が整っていれば世界中のどこでも生活できる。物価の高い土地にいるよりも、寒さが厳しい土地にいるよりも、なにも都会に住まなくとも、自分でお気に入りの土地を求めて移動しながら仕事ができるという選択がある。ここウブドではフリーでWifiが使えるところが多いのでラップトップと向かいあっている人が相当に多い。 


Mはそのように生きる一人だった。エクスタティックダンスで知り合った彼は、この地で行われていたスタートアップのコンフェレンスに参加するためにタイのチェンマイからやってきていた。それ以前彼はサンフランシスコベイエリアに住んでいたので、そんな共通点から話がとんと弾んでいった。


モンキーフォレストの近くに『Hubud』という、そんなノマドワーカーのためのネット環境が整ったco-woking spaceがある。


Wifi環境とはいっても、私の滞在地やその他カフェで接続していると、そのスローさに唖然としてしまう。それはまるで20年前にアメリカンオンラインに接続するのに電話回線で長いこと待たされたあの日を彷彿させられるような遅さのときもあるくらいだ。そのスピードをがっつり整え、さくさくと仕事をはかどらせるノマドワーカーにとってヨダレものHubudの環境はメンバーシップで実現化される。


実際その場を見せてもらったけれど、シリコンバレーからやってきた私にとってはなんとなく懐かしささえ覚える環境だと思わされた。Googleのような今時のITオフィスのような自由な居心地の良い空間がそこにあった。3日間のスタートアップイベントはそこで開催され、Mはそこで自分の会社のスタッフになり得るかもしれぬ人材を探しにやってきたということだった。





私と知り合ったその日はイベント最終日の打ち上げパーティがあるということで、Bisma Eightという高級ホテルでのバッフェがあるから、そこを覗いてからデートしようということになった。


実際行ってみたら本当に素敵な場所だったので、そこのバッフェを食べなからいろいろ話をした。ホールではスライドが流れイベントが行われていたが、Mは特にそれを気にすることもなく静かな場所で私と話をすることを望んだ。


「いいんだよ、イベントに来ている連中たちは俺の子供になれるような若いもんばっかりだし。俺だけおっさんで浮いてるんだ」


「で、遠いところからやってきた価値はあったわけ?」


「う~ん、君と出会ったことがベストなことかな」





エクスタティックダンスの会場の端に敷いたヨガマットの上で体を揺らして踊っている、毛深いハゲのおっさんを発見した。


若い子たちが汗まみれになって移動しながら踊っている中、ホールの端から離れない年配の彼を目にした時、多分に脚が悪いか何かの障害があるからそうしているのかなと思い、そんな彼の前で向き合って一緒にシンクロして踊った。視線を合わせ反応と笑顔が良かったので、しばし踊った後ハグをして離れた。


後ほどダンスホール外で休憩している彼に気づき、挨拶したら飲みかけのヤシの実ジュースをシェアするかと差し出してくれた。それを受け取って飲んだ。


話をしてみたら外見で想像していた声と雰囲気が全く違っていたので意外な感じがした。


ベイエリアから来ているということでお互い話がちょっと弾みまたダンスに戻ったけれど、終わったときに荷物を取りに行ったら、同じロッカーを使っていたのでまた顔を合わせ、その流れでランチを一緒にした。


迎えのタクシーが来たので慌ただしく席を立った。彼に午後は何をするのかと尋ねられたけど、とりあえずシャワーを浴びて昼寝なのだと告げ、Lineで繋がっておいた。こちらからは連絡するつもりはなかったけれど、とりあえず5時半くらいからなら行動してもよいと告げておいた。


彼から連絡がないとしても当たり前くらいの気持ちでいた。ウブドには、特にYoga Barnには女の私から見ても若くてセクシーでつい見入ってしまうような白人女子が腐るほどいる。私と別れた後でそんな中から一緒に遊ぶ相手を見つけたとしても不思議ではない。だから5時半きっかりに彼から電話が入った時には、ちょっと驚いたくらいだった。





会話は尽きなかった。彼の見かけから、そして話の内容からして彼が私よりかなり年上であるはずなのは確かなのだけれど、彼の声とその話し方、行動や感じられるそのエナジーの違いに戸惑ってしまう。彼の肉体を目にしていないと、まるで30代後半の男性と話をしているかのような気にさえさせられるのだ。


そして、誰かに似ている。顔と話し方と行動に親しみがある。TVシリーズに出ていた誰かかもしれない。そう思いを巡らせていたら、彼がユダヤ人であることを打ち明け、途端に家の近所に住んでいたユダヤ人の男性を即座に思い出した。「もう、しょーがねーなぁ」と思わせる、うざく、でも憎めない不思議なあの男性と存在が被った。



それから少し彼と一緒の時間を過ごしたけれど、タイに戻った彼から動画が送られてきた。「これが俺の新しいオフィスだよ」って、ビーチヴィラのテラスから360度ぐるりと撮影された映像。







水際まで36歩だってさ。おい、いいなぁ!


11/27/2015

不食の人


バリ島での滞在先を決めるとき地理的なアイデアが全くなかったので、一ヶ月のステイをホストとたいしたやりとりもせずに適当な勘で決めてしまった。

彼が外国人であったこと、エクスタティックダンスをする人、今までの自分の人生を『Nomadic』と形容したことに自分との共通点を見出したような気がしたからだ。そして、そんな彼が気に入った地域というのは、もちろん私が十分に満足できる環境で大当たりだった。

別れた夫は私を『Bohemian』と形容した。自由奔放に生きる放浪者だと。『Nomadic』とは遊牧民的で、より良い住環境や豊かな土地を求めて旅をする人を言うらしい。自分にとっては新しい単語だけれど、彼のこの言葉を見たとき、自分の状況はまさしくそれであり、今後はこの言葉を使おうと思わされた。




ホストがいない部屋に到着するという異様なシチュエーションで私のウブドの生活が始まった。着いて数日後、やっと階下のホストと顔を合わせたとき、彼のプロファイルの写真からの印象とかなり違っていたことに軽い驚きを得た。プロファイルに古い写真を使っているとしたら、それは私も同様のことなので笑い飛ばして終わりのことだけれど、感じられるエナジーそのものが違うようにも思えた。

病気とは思えないけれど、彼はかなり痩せた感じがする。そして、ゆっくり話ができたある日、彼がしばらく固形物を口にしていないことを打ち明けてきた。断食をしているのだろうかと尋ねたけれど『断食』という言葉に彼は完全な同意を示さない。

クレンズのために何日間と決めたうえでの断食をしているのではなく、彼は『不食』にトライしているのだと言う。実際3年半固形物をろくに摂取していないという女性に出会い、その彼女がとても美しく健康的であるということに驚愕したのだそうだ。

話を聞くと、そのスタートはかなり厳しい。普通の断食同様消化の良いものを少量とる準備期間があり、それからドライファスティング、水さえも飲まない3日間を過ごすのだそうだ。確かに飢餓感はあるのだけれど、身体の調子は絶好調に良いという。毎日何キロも走れるし、エネルギーに溢れていると言う。

「食べないで生きられるなんて考えられないわ」

「それはParadigm。全て頭がそう思っているだけのことなんだよ」

「じゃぁ、アフリカの子供たちをどう説明するの?」

「ふん、確かにそうだな。ちょっと考えさせてくれ」




そんな会話があったけれど、実際私がサンフランシスコを発つ少し前に紀伊国屋書店に足を運んだとき、不食についての本のタイトルが自分の目に飛び込んできたのをはっきりと覚えている。アマゾンで調べてみると不食についての本が結構あることに気づき、その中でも山田鷹夫氏の数々の著書は気になるところだ。次の帰国の際には是非何冊か読んでみたいと思う。

ささやかな知識ではあるけれど、消化にどれだけのエネルギーを消費しているかは知るところ。人は消化をするために食べているという無駄なサイクルを繰り返しているのかもしれない。実際ジュース断食やマスタークレンズを経験したことのある私は、彼がどれだけ気持ちがよくエネルギーに溢れているかを力説した時には納得するところはあった。

ジャスムヒーンという女性はほとんど食事をとらずプラーナで生きているらしい。彼女の著書も読んでみたいと思うが、本の評価では彼女の本を読んで不食を実行命を失った人がいるということも事実らしい。




日曜日にYoga Barnであるエクスタティックダンスに参加したところ、彼もやってきていた。その彼のダンスの勢いというのは、他の誰よりもエネルギッシュでまるでロケットのように飛び回っていたので驚かされた。

ホストの彼がどこまでそれを実践し続けるのか興味深いところだったけれど、ある日果物を食べ始めているのを見て安心した。なんでも視界に不審な現象を感じ、めまいを覚えたので再度食物の摂取を始めたのだそうだ。なんと17日間の不食を体験したのだそう。

今後はどんな食物が彼の身体とエネルギーにどのような影響を与えるのかを観察しながら少しずつ実験的食生活を続けるのだと。ひゃぁ




食べないことのほうがむしろ身体に良いとよいというのは感覚的に理解できる。実際私のこの地の最初の一週間はご近所の勝手がわからず食事を簡素に済ませていた。その頃の方が、今現在、土地の美味しいものを覚え始めてせっせとワルンに通い詰めている現在よりも調子が良かった。今でも夕食を食べないで寝た次の日の朝の方が、はるかに快適な目覚めだということも承知のところ。

サンフランシスコに戻れば、各友人たちとの会食に明け暮れ飽食が続く。食はカロリーや栄養を摂取する目的というよりも、社交の大切な潤滑剤になっている。たとえアクティビティーの趣味が合わなくても、美味しいものを頂きながらくったくのない話に明け暮れるという、その行為そのものが人生の大きなパートになっているのは確かなのだから。




「美味しい=幸せ、というパラダイムを抜け出すのは、相当な苦労と犠牲がいるのかもしれないわ」

彼の力説を肯定するものの、やっぱり私はこの土地ならではの食の楽しみを犠牲にする気にはならない。



ワルンお任せのおかずの盛り合わせ
ナシチャンプルをオーダーするのが楽しみ

黄色いご飯のナシク二ン




11/21/2015

互いのリタイアメント


今の自分の人生は『散歩』だ。

バリのウブドを歩いてそう思った。

目的地に行くことが意図ではなくその歩いている道そのものその場その瞬間のシーンを楽しむこと自体が意図であること。だから行くはずだったところにたどり着かなかっとしても良しとする逆にそんなとんだハプニングこそが醍醐味と思える

時間はたっぷりあるし急がないし焦らない

自分が何者かになろうかという気持ちもない。

これってもしかして、リタイアメントライフ?

そうは思っていなかったけどもしかしたら今の私の状況はそれそのものなのかもしれない、と今更のようにそう気付いた。




自分の奔放さからほとんどシングルみたいなもんだよねと友人たちに言われてきたけどそれでも自分の心に既婚者としての制約がどれだけあったのかは正式に離婚して初めてわかったことだった当たり前と言っちゃあ当たり前だけど、自分がその渦中にいるときには、意外と心が見えなかったりする。

「お前いいビジネスしたよな」

メディエイターを使って離婚の手続きをしていた頃夫が皮肉でそう言ったことがある

それを友人に漏らした時私以上に彼女が憤慨していたけれどそれでも私は夫になにも言い返さなかったカリフォルニアのno fault divorceをただありがたいと思い静かに頂けるものだけを頂いた金銭を自ら要求したことはない





SF市内に住んでリハに明け暮れていた9月末、ダンスパフォーマンスの少し前に別れた夫がいきなりリストラされたことをメールで知らせてきた

リストラというよりリタイアメントを促されたと言った方が正しい本人はすでにそうするべきの年齢を超えていたからだ

しかし異例ではあっても本人が望むまでは仕事が続けられると思っていた彼の心境を思うと動揺したし心配もした仕事以外のなんの楽しみも知らない人で、趣味は持っていなかったから。

彼の心の安否を気遣い、彼の生涯をその業界に貢献したことをねぎらい、必要とあらば家に戻って側にいてもいいし、話を聞くとメールを出した。それに対して、素直に感謝する彼の言葉が返ってきたけれど、彼はまだいろいろな処理で忙しいようだった。

ビッパサナー瞑想合宿に出かける前とバリ島に発つ前、私は家に数日ステイしていた。まだ家には私の名義が残っている。

夫が会社に出かけているわけでもなく、ずっと家に居る状態で私が短期間であるにしても戻るということはどんなものかと懸念したけれど、彼はむしろ私よりも外出していることが多かったかもしれない。

新しいコンピュータを買い、今までと変わらず仕事は続けるのだそうだ。彼の職業脳は止まることを知らぬのかもしれない。

彼は穏やかで沈んでいる様子は見当たらなかった。ひとりの生活にも慣れたようだ。

「俺もお前のようにポジティヴに生きないとな」

そう彼が言ったときには耳を疑った。何年もあれだけ機嫌が悪かった夫の言葉とは思えなかった。

「お前にボーナスをやろう。家を売ったときのディールを少し変えるよ。俺が死んだときに親戚に残す遺産なんて気にしちゃいないからさ。お前の方が長く生きるんだろうし。こんな俺とよく20年もつきあってくれたよ」




アメリカの離婚が怖かった。

アメリカで離婚するということは、双方が弁護士を立て戦って戦って今後の生きる糧をゲットするものだと、周りの話や映画でそう思っていた。何年もかけて争い、弁護士代で多くのお金を失うカップルもいる。夫はそれだけはしたくないと言った。

『決して醜い感情を出さずしてプロセスを踏む』

それだけを指針に時間を経てきた。私にとっては賭けであったかもしれないけれど、アメリカでそんなの甘いと言われるかもしれないけれど、彼に要求はしなかった。結果、それが功をなしたのだと言える。




真夜中にバリ島に経つ飛行機に乗るのに、夫が空港まで送ってくれた。

「バリはいいところだぞ〜。きっとお前は気にいるだろう」

夫は昔から過去の旅をよく語っていたけれど、二人で出かけようとはしなかった。私がお願いして旅行に出かけても、結局はいつも大きな喧嘩になった。旅の伴侶にはならなかった。

「気をつけてな。近況をメールで知らせてくれ」

「送ってくれてありがとう」

離婚して以来初めて暖かいハグをしあった。彼とそんなハグをするのは一体何年ぶりなのかも思い出せない。




「いいね、アセンションの波にうまく乗っているね」

そんな報告をスピリチュアルな友人にしたら、そう返ってきた。

2015年もまもなく終わる。

バシャール曰くの電車の乗り換えは無事出来ている。世界は穏やかで、出会う人もポジティヴな人ばかりだ。




11/18/2015

完璧な日々


鶏の鳴き声はもはやホワイトノイズになった。聞こえてはいるけれど、日常音となって意識に残らない。虫やカエルの音も同様、ときおり起こる猫の喧嘩の声色にはおもわずニヤついてしまう。日が暮れるとプールで遊ぶ隣の家の子友達の声も近所のバリ人の話し声も、意味がわからないからただの生活音に過ぎなく、気になることもない。


朝方の鶏の鳴き声がうるさくて眠れないというほどでもないけれど、それでもなんとなく意識が戻るとベッドから起きようという気になる。大体6時半から7時くらいというところ。サンフランシスコにいるときは、ねぼすけの私でたいがいに9時半以降が自然な起床時間だけれど、この『夏休みの朝』の気候だと、早朝の空気の新鮮さを味わいたい気にさせられる。

ベッドメイキングをした後、瞑想を何気に始めたらあっという間に一時間が過ぎて驚いた。

日本スーパーから買ってきておいた、簡易ドリップ式のコーヒーにココナッツオイルを垂らして飲むのがここでの習慣になった。この際だからミルクなしのコーヒーに慣れることにする。未だにスーパーに出かけてない。それでもどうにかなっているのが不思議。




田舎の細い路地を歩いてヨガのクラスに向かう。ヨガプラナーラという聞きなれないクラスを取ってみたら、自分の好みにぴったりあった。自身の内部の深いところにたどり着けるリラックスしたクラスだ。毎回不思議にこみ上げあげてくるものがある。エンシニタスで雨の日にたった一人でクラスをとったときもそうだったけれど、ヨガで深いところにたどり着くと涙が自然に溢れてくる。音楽と目の前に広がる景色のせいかもしれないけれど、インストラクターの紹介で彼女が自身をヒーラーと語っているところから、彼女自身のエナジーのせいなのだろう。ヨガはアサナだけでなく、インストラクションが全てかもしれない。

静かな田舎道をのんびり歩いて、日替わりでところどころのワルンで食事をし、ラップトップと向かい合い長い時間を過ごす。じんわりと浮き上がる汗も心地よい風にすぐ乾く。ときおりスクリーンから目を外して、自分を囲む環境をぼんやりと眺める。亜熱帯植物の緑は深く、花は美しい色彩を放ち、虫や小さな鳥が飛び交う。猫が普通にテーブルの上を通り過ぎてゆく。壁にはイモリやトカゲが這いつくばっている。ありがたいことに、蚊に刺されるのはほんのたまにしかない。

大きな生ココナッツのジュースを時間をかけて完飲し、お尻が痛くなった頃部屋を目指してまた歩き出す。インドでもそうだったけれど、現地の人は日よけに帽子というものを被らない。もっとも、外での労働者は傘のような帽子を被っているけれど、普段用なものではなさそう。それでインド人の女性のようにショールを頭から被って歩いていたけれど、ある日白人男性が普通に折りたたみの傘をさして歩いているのを目にしたので、そうだよね、と思い、田園の道を歩くときには日傘をさして歩いてみた。カリフォルニアにいたときにはそんなことをしたことがなかったけど、前回日本に帰国したときに雨と日傘の両方で使えるものを買ってみた。日傘とは趣があるもので、個人的にはなんとなく昭和の女性を思い出される。母親の若い頃の時代とかぶるのかもしれない。多分に極めて日本的なものだと思う。




ステイ先の近所のスパで予約を入れ部屋に戻る。安価なのでいろいろ試してみたくなる。細い路地を歩いているとすれ違う人々は笑顔で挨拶をしてくれる。フローラル系のお香の香が漂ってくる。供物の小さなバスケットに花が各家の軒先に置かれている。象の顔をした神様ガネーシャのをあちこちで見かける。ブーゲンビリアがヘリコニアが路地に彩りを加えている。気だるく平和で時が止まった感じ。癒しというのはこういう環境だったのか、と再確認する思い。

飾り気のないシンプルなバスルームで水シャワーを浴びる。部屋にいるときには下着も身につけずサロンを巻いているだけで過ごす。多分にここでメイクというものをすることもないだろう。日焼け止めを塗るだけで、自身の顔さえここのところろくに鏡で見ていない。




マップに載っていない道を歩いているので、最初自分がどこにいるのか把握するのも苦労した。どうにか周りにある店の名前を照らし合わせ、自分がPenestananという地域にステイしていることを知った。ウブドの中心部はたくさんの洒落た店が溢れかえっていたけれど、わたしにはこの辺りの田んぼや渓谷のジャングルの散歩道をうろつく方が性に合っているような気がする。

飽きたら観光にでも出かければよいと思うけれど、案外こんな日々が続くだけで満足してしまうかもしれない。




ワルンのテーブルの目の前の光景



11/16/2015

バリでダンス


バリのウブドにインストラクターがいて土曜の7時半から5リズムが踊れるとオフィシャルサイトで知ったときは心が弾んだ。日曜の朝にもYoga Barnでエクスタティックダンスのクラスがあるとホストが事前に知らせてくれたけれど、個人的には5リズムの方が好きなので、他の土曜の夜のイベントを差し置いてでも5リズムの会場に出かけることを最優先にした。

モペットタクシーの男に送ってもらい、Taks Spaという目的地についたら高級スパだったのでちょっと驚いたが、リセプションで会場を確かめたらダンスは行われていないと告げられて相当に面食らった。5リズムのオフィシャルサイトはそこまで詳細に責任を持っていないということだろうか。

「インストラクターのイミグレーションの問題で暫くダンスはないの。いつ再開できるかもわからないわ」

そう美しいバリ人の女性が愛らしいアクセントの英語で応え、私はしばし放心した。9時にダンスが終わるから迎えに来て欲しいと頼んだタクシーの男性の電話番号は聞いていない。

場所がどうやらウブドの繁華街ど真ん中らしく、周りには洒落たブティックが立ち並んでいるし人通りも多いので、どうにか時間をつぶせるものだろうかと歩き出した。寺院の前を取りすぎた時に、多くの椅子が並び人が僅かながら座っている。入り口のおっさんがチケットを販売しているので何が起こるのかと尋ねたらケチャックダンスだというではないか。あの長年憧れていたケチャックダンスを滞在二日目で偶然にも観ることができるのかと、ことの流れの幸運さに感謝し迷わずにチケットを購入した。75,000ルピーだった。

あと10分で始まるということだったが、観客はまばらで最前席のど真ん中が空いていたのでそこに座った。白黒チェックの布を腰に巻いた男性が中央にあるランプに火を灯していた。やがて照明が落ち、多くの色黒の半裸の男性が現れ円陣を作り「チャッチャッチャ、ケチャケチャケチャ!」と唄いだし、両手を振り掲げてリズミックに体を揺らす。衝撃的だった。




ケチャックダンスの存在を知ったのは、映画「続エマニュエル夫人」だった。当時中学生の多感な私にとって、乳房を露わにして藤の椅子に座るシルビアクリステルの映画館の街頭ポスターはショッキングなほどにセクシーで背徳的だった。実際に映画をこの目にしたのはもう少し後になってからだと思う。その時の私には彼女が大人だと思い込んでいたけれど、後で気付けば、最初の元祖エマニュエルでの彼女はとても若く、歳の離れた外交官の夫を南国に訪れてその地で性を開拓していくというストーリーなのだった。続編でケチャックダンスのシーンはダイナミックに紹介され、透き通るような肌の彼女がインドネシアのドラッグ小屋で数人の色黒の現地男性から襲われるシーンは過激だった。

そんな一部のシーンの印象しか記憶に残っていなかったから、その輪の中できらびやかな衣装を身につけた若い女性ダンサーや大きな身体の男性でストーリーが展開されるというのは、新鮮な驚きだった。

ショーは3部で構成されていた。ケチャックダンスの後、今度は中年以上の多くの女性たちが現れ唄い、その前で子供二人が操り人形のような踊りを展開させる。『サヒャンドゥダリダンス』というらしい。そのダンスが済むと、今度は大きな袋を抱えた男性が中央にその中身を山積みする。乾燥したココナッツの殻だった。それに石油をかけ火を灯す。やがてひとりの若者が藁の馬を持って現れ、焚き火の周りを踊り回り、やがてはその焚き火を素足で蹴散らしていく。暗闇の中でオレンジの炭火が舞い、男たちがそれを熊手で中央にかき集めると、再度ダンスが始まり若者は再度炭火を蹴散らしていく。案内には『サンヒャンジャランダンス』とある。英語ではファイヤーダンスと記されていた。

ショーは1時間で終わった。満足した面持ちで夜の街を流し、細い路地にある若い観光客で溢れるワルン(家族経営レストラン)で安価に夕食を済ませると9時になった。タクシーの男は約束通りTaksu Spa前で私を待っていた。




翌朝のYoga Barnまでも同じ男にライドを頼んだ。アイランドタイムを覚悟しているけれど、タクシーの男たちは競争が激しいせいか時間にはかなりきっちりしている。ステイ先のホストから、11時のエクスタティックダンスはとても人気なので事前に売り出されるチケットを10時にでかけてゲットしておくことと注意されていた。100,000ルピーでチケットを買い、時間までヨガバーンの外を歩いてみたが、クルマ往来が激しい道路際には魅力的なものは発見されず、それでもドーナッツショップがあったので、そこでドーナッツとラテで朝食を済ませた。悪くなかった。

ホストがそこを『キャンパス』と呼ぶだけあってYoga Barnは敷地の中に田んぼがあるくらい広い。離れた建物まで歩いてみたら、壁のないオープンなヨガスタジオになっていて、水田を目の前にヨガができるこの設定も凄いなと感心させられる。

エクスタティックダンスは150人で完売するらしい。2階のフロアでダンスが始まった。ほとんどが白人で中に日本人かもしれぬと思われる女性が二人ほど見受けられた。若い群衆がほとんどだったが、それでも年配の白人女性も数人見受けられ、少し安心した。

ウブドはハワイのように日本人で溢れかえる場所だと偏見を持っていた私は、日本人にあまり遭遇しないことに肩透かしを食らった。とは言っても、私は観光をろくにしていないし、まだ何も知らない。

Yoga Barnのランチバッフェは値段の割にとても豪華だからちゃんと食べてくるようにとのオススメに従い、60,000ルピーを払いカゴの上にバナナリーフが敷かれた皿を手に取った。サラダとバリ料理が並び、どれも美味しかった。席がいっぱいだったので、やむおえず4人テーブルに一人座る白人女性と相席したら、後からおっかけ友人らしきハンサムな若い男性二人が相席してきた。彼女はイギリスからオーストラリアはシドニーに引っ越してきて、そこでパワーヨガのティーチャーズコースを取っているとのこと。バリの旅はそのコースの一部らしい。20代と見受けられる二人の男性の片割れはニュージランド人で、私のヴィッパサナー経験に食いついてきた。オーストラリアに戻ったら彼もコースに行くつもりだと真剣な瞳で告げてきた。もう片割れのオーストラリア人はサンフランシスコベイエリアからやってきた私に興味を示した。なんと以前付き合った女性を訪ねて、私の住んで居るところからそう遠くない南湾の街に滞在したことがあるらしい。

「ラーメンの激戦地だよなぁ、あそこ」

ダンスをしているときから何度か目配せで笑顔を交わしたけれど、実際に話している青年はめちゃくちゃチャーミングだった。

間も無く彼らのグループはシドニーに戻るフライトをキャッチする。出会って直ぐにのお別れだ。Nice meeting youとお別れのハグをするけれど、半裸の若い男性を抱くのはどことなくくすぐったい。





予告編でも1:30あたりでケチャックダンスのシーンが出ています






11/14/2015

ウブドの森の中にて


今年初めにオアフに3ヶ月住んでみて、自分が海ではなく山の人なのだということを確信した。だからバリを訪れる際にも、迷わずウブドに滞在することに決めた。調べてみたら多くのヨギに人気の場所らしい。アートが盛んなことも私の気を引いた。

Airbnbには似たような安価の部屋が掲載されているので選ぶのに迷うところだけれど、イギリス人ホストでダンスを教え瞑想をする人、町からはずれた森の中の家ということ、一ヶ月のレントも掲載されていたからなんとなくでここを選んだ。手作りローチョコレートのビジネスを始めているといるというところも好感が持てた。

彼の場所にどうやって辿り着けばよいのかという質問に、住所に数字がないからクタのタクシーは無理ということで、彼の知り合いのタクシーが迎えに来るという。タイミング悪く、私が到着する日ホストはヴィザが切れるのでシンガポールまでの出入りをしなければならなく、彼の留守宅に到着するはめになった。

アイランドタイムを覚悟していたけれど、ピックアップのドライバーは予定時間より前にホテルロビーに現れたので感心した。ウブドまでの道のりは限りなく続く寺院と彫刻の群れで飽きることなかった。段々畑が見え始めたと思ったらUbudのサインが現れた。

側溝に沿った車が入り込めない細い路地をドライバーに荷物を手伝ってもらって300m程進むと、路地の終わりにホストの家があった。プライベートのドアがある二階の部屋を借りたが、決め手となったのがそのバルコニー。実際にその場に佇んで感動した。まるで深いジャングルのような植物の密度、バナナやヤシの木そしてプルメリアその他の花が咲き乱れていて、それに180度囲まれている。その木の間から微かに見える下方の段々畑。プルメリアの甘い香りに包まれて、すでに思いは満たされた。車が走るメイン道路の喧騒は届かず、それに代わって周りの家で飼われているのか、あちこちの方向から鶏の鳴き声が聞こえてきていた。その田舎さが気に入った。

タイル張りのバルコニーと部屋、バスルームはとてもシンプルであったけれど、部屋のあちこちに彩りよく置かれたたくさんの生花が5スターホテル並みの歓迎を表していた。




ホテル同様、ここでもWifiの速度は酷く遅い。自然の中のバルコニーのテーブルでしばしブログを更新、夕方にはかなり疲れてきたので軽く仮眠を取るつもりがすっかり寝入ってしまった。夜が更けると虫の音やカエルの声が響き渡った。不眠してた頃『夏の夜の虫の音11時間』という音声をYoutubeで聞いているとどうにか眠れたものだったけれど、これは本物の音なのだと半覚醒状態でニヤついた。一番鶏の声で意識が戻り時間をみたら夜明け前4時だった。ほぼ11時間ストレートで眠った。バルコニーに出て星を見てみたが曇り空のようだ。

部屋にはエアコンが付いていない。ドアを閉めていても天井のファンをゆるく回しているだけで十分に心地良い。日中でも外からの風が入ってくるので暑苦しくない。ウブドの山の中はクタよりも涼しい感じがする。

夜明けの瞬間虫の音が激しくなる。これは以前プーケットにいたときに経験した。陽が昇りきってしまうと虫の音が止み、かわりに鶏の声が激しく響き渡る。

まどろんでいたけれど、目が冴えてしまったのでコーヒーを入れてバルコニーで朝の空気を楽しんだ。7時に陽が高くなり温度が上がり始めると、バルコニー横のプルメリアが微香を放ち始めた。7時半になると、今度は違った良い香りが漂い始める。ヒンドゥーのカルチャーに基づいた花と共に添えられるお香の匂いだと気付いた。

朝食代わりにホテルから持ってきたアメニティのフルーツを食べてみることにする。グリーンの柑橘系は見かけとは違ってかなり柔らかく甘いみかんだった。硬いシェルのオレンジの果物を割ってみると、中にカエルの卵のようなものが詰まっていた。味には親しみがあったので調べてみたらこれがパッションフルーツらしい。とても美味しく見た目よりも口当たりはかなり良い。




ひとまずさっそくヨガのクラスで身体をストレッチすることにする。借りている部屋から一番近いヨガスタジオは徒歩で行けそうだ。地図を頼りに歩いてみたら、まるで人がやっと通り過ぎることができるくらいの田舎道をどこまでも行くので少し興奮した。ある場所は遠い幼児期に見た風景のデジャブーさえ覚えさせられる。田園のための水路沿いに道は続いていた。そんな中に現れた高台のヨガスタジオ。3面のガラスに広がる自然を目にしたとき、一瞬こみ上げるものがあった。視界が広く、遠くヤシの木と段々畑が広がる光景は美しさこのうえない。今までで訪れたヨガスタジオの中では最高のロケーションだった。

帰り道にギャラリーと看板が出ているところをいくつか覗いてみた。双方とも老人男性で、日中の一番暑い時間帯のせいか二人とも半裸でいた。地元生まれれでウブドの風景を描く老人は1964年から描いていると言う。かなりのディテールに凝った細やかな作業だ。

借りている部屋の通り道の家は15年前に隠居でやってきたスイス人の男性が自分の作品を公開していたが、作品は女性の裸像が殆どであくまでも趣味の域のものとしか思えなかった。しかし、その大型作品のサイズには圧倒されるものがある。彼の健康状態を疑うくらいのやせ細った身体としゃがれた力ない声はそう長くない余生を思わされた。それでも煙草を吸い続け好きな絵を描いて毎日を過ごせるなんて本望だろうなと思う。家族のことは尋ねなかった。故郷から遠いこの島が彼の選択だった。

多くの時間をこのバルコニーで過ごす

道端で見る供物

カエルの卵のようなパッションフルーツ

ヨガスタジオの風景