12/11/2015

過去の映画が重なるとき


道端のトラックから熱帯地方の果物を買って帰るときに、突然デジャブーのような感じで『Against All Odds (カリブの熱い夜)(1984)』のワンシーンを思い出した。

ジェフブリッジズが依頼されて探している金持ちの娘をカリブの島で見つけたとき、その女性が真っ黒に日焼けした肌でずた袋を下げ、スクーターでローカルな買い物をする『島の生活』をしていた。

たかだかそれだけのシーンなのだけれど、当時20歳そこそこの私に強烈な印象を与えた。この映画、フィルコリンズの同タイトルの挿入歌は有名なところなので、覚えている人もいるかと思う。

そういう映画の何気ないシーンは潜在意識に残り、後の人生の展開に影響を与えるということはあると思う。









車が入り込めない細い路地を通ってステイしている家に辿り着くが、その途中に住んでいる隠居画家老人。何気に覗き込んだある日から、時々意味なく立ち寄りどうとない話をするようになった。そこの大家のバリ人の婦人と顔見知りになり、やがてたまにデンパサールのシティからやってくる大家の息子夫婦と顔見知りになり、他愛のない話をする時間がある。

ついでだからと隠居画家老人と散歩をする。彼の二匹の犬が一緒に歩く。リードはつけない自由歩きだ。途中で彼の知り合いに出会い、また近所の顔見知りが増える。そういうまったく異色の人間が暇を持て余して一緒につるんでいるとき、映画『Station Agent (2003)』のワンシーンを思い出す。特に目的を持たぬまま平和な時間を共有する暖かさがいい。





パトリシアクラークソン演じる中年女性の、もたもたした感じがまた自分と重なるんだよなぁ。






チェンマイからやってきていたユダヤ人男性が、私に会いにまたバリにやってきた。彼のビジネス絡みではあるけれど、メインの目的は私と一緒に過ごすことだという。生返事をしておいたら、いきなり5日間のバイクでのツーリングをふってきたので仰天した。確かに一緒の楽しい時間は過ごしたけれど、一夜を共にしたわけではないというのに。

向こうは自分と同じだけ私も盛り上がっていると勘違いしていたから、私のリアクションにびっくりしていた。男はいつも夢見がちで、女はシビアなほどに現実的だ

そんなとき『Eat, Play, Love (2010)』のシーンが蘇った。ハビエルバルデム演じる男がジュリアロバーツにサプライズでボートを見せて「離れ島に2、3日キャンプに出かけよう」と持ちかけ、ジュリアロバーツがめちゃくちゃフリークアウトして怒り逃げてしまうシーンだ。それを見てひとり笑った。リアクションが本当に同じだったからだ。







「私は今の自由を愛しているの。バランスが取れているこの状態が好きなのよ。離婚を通り越してやっとフリーになれたのに、なぜ今更同じ男女の心のもつれを繰り返さなきゃいけないのかしら」

そう何度か男に告げたけど、男はその都度辛抱強く私を学ぼうとする。





バリに来ることをいつ決めたのだろう。

「Eat, Play, Loveをしてるのね!じゃぁ、バリに行かなきゃ!」

6月にヴィッパサナーのサイレントリトリートでルームメイトに自分の身の上話をし、旅行で転々としてると告げたら、彼女がそう言ってきたので「はぁ?」と思った。

確かに映画は見たけれど、ジュリアロバーツのファンではないのですっかり記憶の外だった。

そう言われてから、そういえば昔からの行ってみたい場所のひとつだったかもしれない、とそこで我に返る自分だったのかも。バリの何をも知らずとして、いつものごとく宿とチケットだけを確保して、あとは成り行き任せの旅になった。




今や私は出会う人々に「日本人に見えない」と思われるほど日焼けで色黒になった。

考えてみれば、今年はハワイはオアフから始まって、サンディエゴでも真っ黒になったし、ずっと日焼けし続けている。日焼けを恐れて外のアクティヴィティを避けていた私、ハイヒールが定番になってぺたんこの靴で歩けなかった私が、現在ビーチサンダルで相当な距離を歩いているとはなんて皮肉なことだろう。

友達はいない。私は多くのひとりの時間を過ごしている。

ときどきずっぽり日本やサンフランシスコの友人とLINEで会話しているけれど、ネット環境がない生活はやっぱり考えられない。

近所を歩いていると私の名を呼ぶ人間がいる。タクシーのお兄ちゃんだったり、近所の婦人だったり。歩いていて出会うと家はもうすぐそこだというのに、タクシーのお兄ちゃんが乗せて送ってくれたりするのはありがたい。バリの人間は笑顔に溢れる。すれ違いざまに笑顔で挨拶してくれるのはディフォルトだ。

ここのそんな『異邦人』の立場で十分なのかもしれない。私に必要なのは『距離感』なのだ。




夕方、ジャングルのシルエットが闇に消えるまで、バルコニーのデイベットで空を眺めている。肌に優しい暖かい空気にありがたさを覚えながら、何を考えるまでもなくただそうしている。

ひと月も経つと、当時の興奮は消えた。それでも奇跡的な風景を目の前に幸福感とメランコリックな気持ちを覚えながら、私は寂しいのだろうかと自問する。

でも、寂しい、という気持ちがどういうものであったのかも、よく思い出せない。




12/08/2015

盲目の男性とデート


ウブドにやってきて一番初めに知り合った男性は、盲目の人だった。

長い散歩の後、お寺の近くの骨董屋を目にして何気にそこに入った。白髪のポニーテールにまるで仙人かと思われるような胸まで届きそうな長い髭の姿の老人が入り口に座っていたので、そこのオーナーかと思い、軽い挨拶をして中を見学した。

パペットを目にして、そうだバリにはこの人形があったのだと気付き、パペットショーはどこで見られるのかと尋ねたことから私たちの会話は始まった。

立体的なパペットは他の地方のものであり、ここウブドでは平たい皮でできた影絵用のシャドーパペットのショーを見ることができるとその老人が答え、そして彼はここのオーナーの友人であり店番をしているだけと告げてきた。話をしてみたら、サンフランシスコで骨董屋を経営していて、今は買い付けの旅の途中だということだった。

彼が白い杖を持っていたので、一瞬あれ?と思ったのだけれど、彼の瞳は私を捉えていたし、動き方も極めてスムーズだったので、彼が全盲だということを告げてくるまでそれに気づかなかった。

全盲でありながら8月以来ずっとアジアの国々を一人で旅をしているということにど肝を抜かされ、彼に対する関心が募った。彼はユーモアに満ちていて、私は何度か大笑いさせられた。だから、彼自身が私に興味を持ち、後ほど一緒の時間を過ごさないかという提案には十分に乗り気だった。




名刺をもらって、彼の名前や店を検索してみたとき、彼の存在がSF Gateという地方紙の記事になっていることが判明した。読んでみたら、なんだか数年前に癌で死に別れた女房を全盲の身で献身的に介護したというセンチメンタルな記事だったけれど、そこに本当の彼の姿を捉えていない違和感を覚えた。

後ほど彼から買い付けに同行するかという誘いを受け、専属のドライバーが運転するその車の中で、私が記事を発見したこと、そしてその内容に対する感想を述べたら、彼自身も同様に不甲斐ない気持ちを覚えたということで、私の洞察力に関心し言葉をありがたく受け取っていた。

そして、そこでなんと11年前に私が初めてアルゼンチンタンゴのレッスンを取ったインストラクターが、彼の娘だということが判明して相当にびっくりした。世界は本当に狭い。




12年前に視力を失い、それから別のセンスを発達させてきた彼の行動には驚かされるものがある。

2月にサンフランシスコで行うイカット(絣)のエグジビションのために、新しい個人のコレクターを探し求め、その場で生地に触れただけでその良さに惚れ込み鳥肌を立てていた。全盲なのに、目の前の織物の色を当てることができる。明るい色だったら、そのエネルギーでわかるのだそうだ。

ランチを一緒にしていて、私がテーブルの向こうにあるナプキンに手を伸ばすと、私よりも先に彼がそれを手に取り渡してくれた。

彼は全盲のフォトグラファーでもある。マスクとパペットの博物館に行ったときは、対象に手を伸ばすものの、その手は物の手前10cmでぴたっと止まり、そこから後ずさりしてシャッターを切る。物が持っているエナジーと温度で判るのだそうだ。

私の姿を私のiPhoneで写真を撮ってくれる。私の声の方向でしっかり私を捉える。ズームアップの私の顔でさえ、しっかり真ん中に収まっていて驚かされた。




彼はインドネシア人であるもののオランダ系の血を持ち、よって独立して政権が変わったときに家族は国を出なければなかった。オランダでも生活は厳しく、それでアメリカに移住したとのことだった。そういえば、インドネシア人と言われても周りと違った肌の色にピンと来なかった。彼はどちらかといったら色白の中国人に見える。

満月の日にティルタ・ウンプルで沐浴することを誘ってくれた。彼の手を取りながら、一緒に現地の人と沐浴をおごそかに行った。彼にとっても初めての経験だったらしく、たまたま彼と知り合ったことでそれができた私もラッキーだと言える。

彼はインドネシアに盲目の子供のためのスクールをサポートするプロジェクトを始めている。そのおかげで、二日ほどは一緒の時間を過ごしたけれど、後はかなり忙しくなっていた。一度、彼の古い友人宅でのベジタリアンディナーに紹介してもらった。アメリカ人とイギリス人の年配の女性で、25年前にウブドに住んでいた時のご近所さんだったらしい。

25年在ウブドの人から聞くローカルな話は、結構興味深い内容のものだった。やっぱり人間関係は『村』独特のものなのだなと思う。




彼から最後のテキストが届いた。音声変換機能があるので、テキスト会話が可能なのだ。

まもなくこの地を離れることを知らせてくれ、私と過ごした時間は大変楽しかったと強調した。そして、私の先の旅の行方を案じてくれた。




「君はまるでフレンチのようなストレートさがあるなぁ。いいことだ。君が社交辞令でいいことを言ってるのかどうか腹を探る必要もない

そう彼は笑って言っていた。

「日本人ぽくない」という彼の言葉に「顔もそうなのよ」と言い、私は彼の手を取り私の鼻と頬骨に触れさせた。

「これで色黒だから、会う人によっていろんな国を言われるわ。サリーを着ていた時は、インド人からネパール人かと思われたくらいよ。中東とかメキシカンとか言われたこともあるし」

「そうだな、マヤ人みたいでもあるな」

「濃いメイクしてお洒落してハイヒール履いたら、イッタリアンママ〜ンにもなれるもーん」

その時は、さらりとそんな会話をしていたのだけれど、後ほど25年来の友人宅のディナーで

「私はなるべく人に盲目の人と気遣われたくないので、相手の顔を知りたくてもその顔に触れるということはシャイでなかなかできないし、滅多にしたことがないのだよ。だけど、彼女はとてもスムースに僕の手を取って彼女の顔に導いてくれた。驚いたな。彼女にはそんな私を安心させてくれる素晴らしいストレートさがあるんだ。本当にありがたいよ」

と、語っていた。私は彼の能力を知っているので、彼が見えない人だからといって特別扱いしなかったし、全盲をジョークにさえしていた。それが嬉しかったらしい。




次回私がベイエリアに戻った時には、タイミング良く彼がサンフランシスコに住んでいたら良いのだけれど。



十分にイカットを吟味する彼
品物は100年も200年もする骨董品らしいです。



12/05/2015

バリのグリーンスクール


Yoga Barnで日曜の11時からあるエクスタティックダンスに参加するのもすでに3回目になった。

ダンスの後のベジタリアンランチバッフェでテーブルをシェアさせてもらったら、そこに座っている二人の女性はお互いに一人旅のようだった。他愛のない会話をしていたら、向かいの女性の木の実がついた紐のブレスレットが目に入った。

「あ、グリーンスクールの見学してきたのね?私ももらってきた」
「そうなのよ。よかったよね、あそこ」

同席していたもう一人がその存在を知らずして、異常に関心を示したので、それをしばし説明することになった。




先週のエクスタティックダンスで知り合ったMは、帰る予定を延ばして翌朝早くに連絡をしてきた。なんでも私を連れて行きたいところがあるらしい。

『Green School』と彼が行った時、シンクロだ、と思った。つい二日前にバリの見学地をリサーチしていた時にこの名前が飛び込んできて、ちょっと興味があるとは思ったけれどウブドから離れていたので深く内容を読まずしてパスしてしまったのが再度飛び込んできた、と思った。

Mがスクーターで迎えに来て、カフェでリサーチしてみるとウブドから南に30分ほどのドライブで辿りつけるとのことだった。しかしGoogle Mapを頼りに出かけても提示する場所にそれが見当たらず、かなり迷ってしまった。それもそのはず、それはメイン道路から外れたジャングルの中に存在していたからだ。




『Sustainability (サスティナビィリティ、持続可能な)』というこの言葉は、きっとこれからどんどんいろんな分野で耳にし、目に触れることになると思う。この地球はもう人間の欲に侵されて、そのあるべき姿を失いつつある。もう繁栄の時期をとっくに通り越して、衰退の時期に入っている。地球温暖化が叫ばれ始めた頃にピンとこなかった私達も、続く異常気象を肌で実感しているはずだ。

アル・ゴア氏が『不都合な真実』という映画でノーベル賞を受賞したことは記憶に新しいと思うけれど、当時はその映画のデータが不十分だとか嘘だとかで結構叩かれていた。しかし、あれから既に10年近くの時が経とうとしている今、地球が年々どのように変化しているかはもう明らかなこと。

この学校を創立したのはカナダ人でジュエリービジネスをしていたジョン・ハーディ氏。この映画を見て強い感銘を受け、このスクールを創立した。TEDというプレゼン番組に出演、ビジョンを訴え賞賛を浴び世界中から寄付が集まったらしい。

Sustainability Scienceとはその地球温暖化や大量生産の問題を解決すべく、持続可能な地球社会を築くべくシステムを研究する学問であり、このグリーンスクールは子供のうちからそれを意識した独自の教育方針を持ったインターナショナルスクールでプリスクールからハイスクールまでの子供達を教育するエコな施設である。

建築は全て竹でできており、壁のないオープンな教室が多い。独自の水力発電所があったり、ソーラーシステムがあったり、キャンパスの中に川が流れていたり泥んこ遊びができる場所もある。毎日ツアーがあって、見学者はこのスクールの環境とシステムを知ることができる。

幼稚園児くらいの頃から自分と世界との関わり方、そして自分が意見をもって生きるということはどういうことなのかを学んでいく

教室の後ろに子供達が学んだ作品が貼ってあって『Mindful / Not Mindful』という内容が書き分けられていた。これも大切にしていきたい言葉だ。Mindfulとは心に留めるという意味だけれど、多分に『意識的な生き方』みたいなものだと思う。日本語だったら『心ない言葉』というのが『Not Mindful』であるように、人に地球に環境に優しく生きて行くことを自分たちで考えて学んでいくのだろう。




「わぁ、ここでずーっと教育を受けてきた子供達がどんなことをする人間になると思う?」

ここの見学が終わった後、Mも私も相当に感動していた。私は45分と思っていた見学時間が2時間近くだったことに驚き、暑さで相当に疲労していたから早々にウブドまで帰らせてもらったけれど、Mはまだ少し欲求不満で翌日にまた戻ったのだそうだ。

翌日私は私でまた別な知り合いと出かけていたのだけれど、その彼にグリーンスクールの見学のことを興奮して話したら、反応は微妙だった。サンフランシスコで骨董屋を営むインドネシア人で、買い付けに来ているところでたまたま私と出会ったのだが、インドネシア人から見るスクールの存在はまた違うものがあるようだ。

物静かな口調で語る彼はあまりネガティヴなことを言いたがらないようなので、詳しくはわからない。ただ創設者のジョン・ハーディ氏のジュエリービジネスのやり方に問題があったとか、そのあたりは口を濁す。

そんなことを再度スクールを訪れていたMに話すと、彼はたまたまWifiがつながる場所でラップトップを使用していたら、隣で先生達がミーティングをやっていて、いろんな問題があるような響きだった。ちなみに、ジョン・ハーディ氏はこのプロジェクトで消耗しきって引退し、スクール運営から一切手を引いているとのこと。




もう一つ、その場を訪れてちょっと違和感を覚えていたけれど、その正体がわからなかった私にある感想を書いたブログがそれを教えてくれた。

スクールのカフェやその他の場で現地のインドネシア人が仕事をしている。子供が遊び、親がのんびりカフェでくつろぎ、その横で現地の人々が肉体労働をしている。他の私立学校では全てを保護者が一体となって行われていることが、ここでは現地人が働く人となっている。まるで植民地特権階級のような立場を当たり前と子供の無意識に与えて良いものだろうか?と。

多分に外国人のビジネスがこの地でサバイバルするには、インドネシア人雇用の条件があるのでやむを得ぬところなのだとは思うけれど、どんな環境であれ新しい理想を追求するにはいつでも大きな壁は立ちはだかっているのだとは思う。




世界中から注目されているこの学校への入学希望者は多い。お金を払いさえすれば入学できるところではなく、子供のビジョンとプレゼン能力が入試として条件づけられている。与えられるだけではない、伸びやかな限りない想像力、その種を選別されているというところか。

最近、子供を早くから学校に入れてしまうことが問題視されているという記事を目にしたことがある。子供の脳というのは大人の私たちと違ってもっと流動的で曖昧な世界観を持っている。それを発達させるにあたってもっとゆっくりと自由に育って行くべきのところを、いきなり限定された価値観を埋め込むことで後ほど障害が生まれやすいということなのだ。

『英才教育』という言葉あり、親は子供をより早く教育施設に送り込むことにやっきになっていた時代があり、未だにそうなのかもしれないけれど、今その子供達がどんな大人に育ってしまったかという事実が見える今、また時代は新しい方向へ動き出しているのではないだろうか。




日本語でこのスクールのことを紹介しているリンクがあるので紹介しておこう。ここからかなりの情報が得られる。

まとめ:インドネシア・バリ島のグリーンスクール(Green School)

ジョン・ハーディ氏のTED トーク(Green Schoolのサイトから)



学校のエントランス
圧巻的なキャンパス内の川にかかる橋
教室の一部
メインホールの建物