12/31/2019

2019年の終わりに 2

「えぇえええええ! 雅姐が日本で恋愛してたなんてこれっぽっちも思わなかった!」

年末27日、サンフランシスコのダンス仲間が帰国した際に横浜にやってきた。 彼女に裏横浜を一日かけて案内して最後の焼き鳥屋で〆にした時、やっぱり彼女に話さずにはいられなかった。その二日前にはシアトルの友人がやってきていて、彼女とは会うなりその話題になっていたので、そこで十分に昇華できていたはずだったから話す必要もないかなと思った。でも、結局は軽い報告がてら彼女にも自身の近況を伝えていた。自分で話しながら全てが終わり過去形で完結していることを、彼に未練もないことも実感していた。




この秋、私は官能的な恋愛を経験した。

ドライな身体だけの関係なら旅の最中にちょっとあったかもしれないけれど、私はノマドで行きずりの女だから感情は伴わない。最も、自分の人生を変えるような出会いがあったならば、その時こそ自分の終の住処が決まるかもという淡い期待はなきにしにあらずだったけれど、結局それは起こらなかった。

何人かは時折私を思い出してメッセージをくれたりするけれど、それでほのかな恋心が起こるわけでもない。私が胸が焼け焦げる苦しい恋愛をしたのはバリで出会ったビーガンのアメリカ人男性、なんと3年半も前のことだった。彼とは当然として友人にはならない。苦しい恋愛で別れたらそれきりなのが私のパターンだ。




きっかけは甥の言葉からだった。

「男だらけの職場だから、アプリで婚活始めた」
「へぇ、じゃあ私も日本にいる間に試してみようかな」

ポロリと出た本音に本人が一番驚いたのだけれど、 横浜の住居が落ち着いた暇な9月も終わりのある夜に、私は婚活アプリをインストールした。そして、その日のうちにある日本人男性と繋がった。

「お金でブランド品を手に入れて身を飾ることはできますが、筋肉はお金で買うことができないので最も美しい装いだと思っています」

彼の顔は全く好みでなかったけれど、そのプロフィールに添えられた美しい上半身を見せびらかす画像に気が引かれた。キン肉マンではなく地味な細マッチョ。筋肉がどうのというより、その言葉を言える人はそういない。それに魅了され彼に対する興味が生まれた。

毎月海外出張するビジネスマン、かつてNY、ソウルに駐在員として住み、近年 6年のブラジル 駐在から戻ってきたばかりの彼とのテキスト会話は日本語と英語のバイリンガルだった。テキスト会話から二日後には初めてのデート。そしてそれ以来毎日テキスト会話が続き、彼は私の日常にすっかり入り込んでいた。 He is a part of my lifeという言葉がぴったりだった。

話をしていて とても楽だった。日本人の男性に引かれるのはまれな私、というのは私が彼らの「好み」で ないのと同時に、私にとっても「英語話せるんですか、アメリカ そんなに長い間住んでたんですか、凄いですね」と引け腰で言うような日本人男性にはそれだけで萎えてしまう。

思い出すと、彼が私が苦手とする日本人男性であってもありえないくらいに楽だったのは、SFベイエリアでつるんでいた日本人たちと話しているのとなんら変わりないエナジーを 持ってる人だったからだと思う。

彼は私に「綺麗」を「好き」を連発し、私の話す過去の何事にも動揺せずそのまま受け入れ、知ったかぶりもせず、そして謙虚に学ぶ男だった。彼の行動を訂正しても傷つくような つまらないプライドは持ち合わせず、次に会う時には更に私好みのスムーズな男になっていった。これが年下ならともかくほぼ同じ年の57歳。地位も収入もあり、私が支払い時に気を使う必要もないゆとりもあり、とにかく居心地が良かった。




2度目のデートの後で、人生のパートナーになって欲しいと言われて焦った。彼が一番最初に会った男性なので決めかねていたのと、うまく行きすぎる、何か落とし穴があるかも、とやけに用心深くなっている私でもあった。

私がうだうだ返事をはっきりとしないまま、それでも毎回楽しいデートを重ねていった。

美しい 肉体を持った57歳に自身の裸体をさらけ出すことになるという緊張は、私をダイエットやヨガの良いモチベーションになった。そして、崩れた体型が元に戻るまでそう時間はかからなかった。セックスも私の好みを伝え、回数を重ねるうちに彼の身体がベストフィットだということを知ってしまった。昔のめり込んだ22歳年下の子犬くん以来だった。

そうなると今度は、彼が私を追いかけていたところから逆に私が彼を追いかけるというよう に立場が逆転した。私は彼とのデートの機会を失うことを恐れて、自分の予定を入れることができなくなっている不自由な女に変わっていた

男が私と出会った時、彼は転職活動の真っ最中だった。ベッドの中で想像できる将来を語り、多分に次の職では東南アジアのどこかに赴任なるのではないかとの彼の言葉に「それならついていっちゃおうかな」と言う私がいた。彼もそんな国際的な同年代の日本女性を見つけることは困難だと知っていたから、私に執着していたのも事実だった。

彼の仕事が 忙しくなり、お互いのスケジュールが合わずに会えなくなる日々が続くと、まだ関係が定着していない私たちの会話はすれ違い始めた。そしてそんな不安定な状態の中、彼の中国赴任が決定された。

「一緒に住もう」という彼の言葉はもう嬉しくなかった。彼の息子が春に就職で家を出たら、そしたら一緒に住めるかもと妄想はしていたけれど、まさか中国について行くことはありえない。Google もFacebook もLINEも使えない中国で私は何をするというのだろう?新しい職場で彼は仕事で精一杯になる。そんな時に中国という土地で一人ぼっちで私が幸せを感じることなんてあり得ない。仕事で忙しかったビーガンの前彼と一緒に住んだ経験で 既に自分のことは分かっている。

それでもひたすら彼に会いたかった。好きという感情は、彼とセックスしたいという欲情なのだな、と理解したが、果たしてそれが一緒に暮らして正解な相手かということは疑問だった。



彼の最初の上海出張の時はお互いがWeChat で連絡を取り合っていたけれど、出張後のデートは実現することがなく、私がひたすら彼に合わせてスケジュールを組むもことごとくNGが続き、やっとの思いで調整したデートがドタキャンされた。

どんなにエリートではあっても彼に何の決定権もない「社畜」であるということが虚しく、この年齢での最後のバトルだと当然として仕事を優先する彼に冷め始めても、表面ではサポートのテキストを返していた。そして、だんだんと彼の元嫁に愛想をつかされたという理由がわかってくるような気がした。

彼の仕事のスイッチが入ったら、私は忘れられた存在になる。実際彼は言った。たとえこの仕事がダメになって雅と一緒に住めることになったとしても一生後悔するだろう、と。その時点でもう私の中では終わっていた。彼とは実際に会うこともないまま、ドタキャンされたデート以来顔を合わせていない。

2019年の終わりに 1

確か去年の年末は前夫をサンフランシスコに訪れていたのだった、とクリスマスシーズンに思い出していた。膵臓癌を患って「あと半年の命」と告げてきた彼に最後のお別れを言いに行き、そのついでに多くのSFの友人と再会してきた。

末期の悲惨な状態の前夫を目にすることを覚悟して行ったのに、会ってみたら弱っちいけれど普通の状態の彼だったことに気抜けした。それよりも彼に寄り添っていた女性の存在に動揺する私がいた。

あれから一年。多分彼は生きている。誰からも死亡の連絡がなかったので9月に誕生日の祝いのメッセージを送ったら、あっけらかんとした返事が帰ってきた。なんと2回の抗がん剤と37回の放射線治療で癌が完治しているようだと言うのだ。彼の家族は元来話をドラマ地味て話す癖があったのだけれど、今回ももしかしたらそうだったのかしらといぶかしんだ。いずれにせよ、彼が生きているのだからそれに越したことはない。




今年の過去記事を読み直して思い出したくらいで、年頭のバリ、チェンマイで感じていた低迷期のことはすっかり忘れていた。一度思い出した時があったけれど、とても今年のこととは思えないくらいに記憶に遠くてびっくりした。

私にとっての今年のメインイベントは4月から4ヶ月に渡って旅した東ヨーロッパ。このようなインテンスな4ヶ月に渡る旅は中米、東南アジアに続く3度目の試みだったけれど、20以上の街をバスで移動していたからかなり身体に堪えた。最初のうちはそんなことができる自分自身に興奮していたから堪えていることにも気づかなかった。イスタンブールからポーランドまでバスで移動し、コーカサスのジョージアに飛んだら沈没してゆっくり体力の回復を待つつもりだったけれど、体調が優れないまま盆の帰省の帰国となった。日本の実家でだらだらしても首肩の痛みと疲労感は消えず、医者に行ったら「変形頸椎症」と診断された。

気持ちとしてはチェンマイに戻るつもりでいたのに、病気と診断されれば予定は変わる。去年同様数ヶ月首都圏のシェアハウスに留まって治療に専念するべきと判断した。それで新しいシェアハウスを探しているうちに、突然母が倒れた。

「とうとう終わりの始まりが来た」

長女姉も私もそう覚悟した。家にいる義兄は自分の母親の世話に遠い施設に通っているから、私たち姉妹で自分の母のことは面倒見てなるべく彼に負担をかけないようにしなくてはいけない。だから、いざとなれば私が同居して母の介護の手伝いをすることもあり得た。友人、知人がひとり、またひとりと仕事をやめてでも実家戻りをしているのを横目で見て、自分にもその時が来たのだろうと思っていた。

母の入院、家と病院の往復に合わせて慣れない家事のヘルプ、自身の頸椎症の痛み。この期間は人生の次のステージに踏み込んだことを実感した。そして「寄り添って暮らす相手」というものを生まれて初めて意識したのだと思う。

幸いにも母は2週間ほどの入院で無事回復し、私は手頃なシェアハウスを横浜という新しい土地に見つけ、東京の治療院に通うことになった。そして新たな「魔法の手をもつ男」のおかげで首の痛みは軽減し、近所のホットヨガに通い続けて以前の体力を取り戻した。




横浜という場所を私は全く知らない。小学校6年の修学旅行で山下公園に行ったことと、大野一雄舞踏研究所で舞踏ワークショップを取るのに近年何度か中華街に宿をとったことがあるくらいだ。シェアハウスのリサーチの末、年配の住居人がいる小規模の物件の選択が荻窪と横浜みなとみらいだった。信用する友人が「みなとみらいにするべき」と言ったことで即決した。内覧をすることなく部屋を借りた。

その横浜にいまだに魅せられている。みなとみらいの洒落た華やかな施設が全部自分の庭のようでありつつも、街歩きのツアーで下町の古い横浜の歴史が分かるたびに私はのめり込むものを感じていた。そして今年91歳になった母が初めて明かした事実。彼女が戦争時代に私が住む最寄りの駅桜木町で切符切りをしていたということ。その他にも、知らないはずの土地の昔の写真にとてつもなく懐かしいものを感じて涙するなど、不思議な縁のようなものを覚えている。

海外を転々としていて終の住処を探していたけれど、何処にもピンとくるものを感じなかった。強いて言えば、ヨガ的環境とmy peopleでチェンマイは住んでもいい土地だと結論が出かかっていた。そこに意外な展開で「横浜」という土地に引き寄せられた。そう、引き寄せられたのである。「流れ」でそうなった。




今、私は家族を優先する。寒い冬は嫌いだけれど、家族と過ごす年末年始を選択する。そして、できるなら少なくとも月に一度母と一緒の時間を過ごしたい。その希望を満たすのに、横浜の土地に住むのは便宜が良い。そして母の入院を目にして思った。将来私が年老いて入院し亡くなることがあっても、その場が日本の病院であったほうがいいな、と。歳をとればとるほど、疲労には祖国の味が必要なのは東欧の旅で嫌という程思い知った。いつだったかSFの60歳手前の知人が「老年で入院したら梅干しとおかゆを食べられる環境にいたいのよ」と35年だか住んだ土地を離れたということをありありと思い出した。ということは、私の住む日本というのは横浜ということになるのだろうか?

今自分がいる部屋の隣の公園の桜がそれは美しいと人々が言う。それを満喫したいのでこの部屋をしばらくキープすることにしたから、年明け2月のチェンマイは珍しく3週間という短期滞在にした。例年バリに加えて2ヶ月のチェンマイであるから、日本滞在の方を重視する新しい流れになった。春までいるなら、どうせなら夏まで延長してオリンピックに湧く日本を肌で体感したいと思うところだけれど、果たしてそうなるか。実際チェンマイに行ってみないと分からない。どう感じる自分がいるか、ちょっと楽しみでもある。








2/19/2019

雅ランティエに還る

修道院に着いてレジスターをしている時に、チェンマイのワークショップを一緒に受けていた日本人女性に再度鉢合わせした。お互いに驚いたけれど、沈黙の日々は守られていたので4日くらい経つまで彼女と話すチャンスがなかった。

ランチの食器洗い場で顔を合わせたので小さな会話があったが、その時にその女性から「チェンマイで最初にあった時と全く違う穏やかな顔してますね」と言われた。実際に私の心境はすでに大きな変化を見せていた。何をそんなに落ち込んでいたのか、心の状態がもう思い出せないくらいだった。




タイの北部、もうミャンマーの国境が近い山奥にあるフォレスト修道院は、3年前に一度訪れて午前中の瞑想だけ経験したことがあったけれど、その場所の美しさを知っているという満足だけで、去年のチェンマイ滞在中はここまでやってくることはなかった。ゴエンカ氏のヴィッパサナー瞑想センターでの10日間のハードコアさを経験済みなので、ある程度の覚悟がないと足を踏み込めない。この修道院でも瞑想法はビッパサナーだけれど、歩いたり寝たりというスタイルも追加されているということで、全てが同じではないということは理解していた。最大10日参加できるそこに留まるのはやはり1週間が適当だろうという結論をだし、山から降りてきた際の回復期間も考えて庭に温泉がある宿を予約して十分な計画で出かけたが、実際はやっぱり10日間にすればよかったと思わされて名残惜しく修道院を後にした。

修道院の毎日は肩透かしをくらうくらいに緩かった。今までのそれは室内に一日中閉じこもり早朝から夜遅くまで座り続けたのに、ここは自然の風がそよぐオープンなホールで美しい光を感じながら僧侶の説法を聞き、歩き、座り、寝転び、読経し、僧侶にご飯を捧げるセレモニーをし、ダイニングは男女区切りもなく会話さえ普通に交わされていた。3年前にきた時は違うホールで多分に5、60人くらいの人々だったのに、今はさらに増築された大型ホールに150人近くの人々を収容していた。

予約もいらず、好きな時間に行って10日以内の好きな日数だけ滞在し、白い服も貸してもらえる。寄付ベースであり、貧乏なバックパッカーは一体いくら置いていくのか知らず、施設が美しく保たれているのは不思議な感じがした。後ほど子供がいない成功した金持ちのビジネスマンが「お金があっても幸せになれぬ」と悟り、ここの設備に彼の財産を寄付し、隠居して人々の世話をしていると知った。修行僧の中に英語が堪能な青年がいて外国人の為に通訳をしていたが、彼もドイツで成功している金持ちの両親が幸せでないことに疑問を抱き、ブッダのように出家していた。規模も形も違うけれど、その気持ちは理解できるところがあった。お金がないわけでもないけれど、今現在の私は質素な旅が普通にできる。金銭的な価値観は大きく変化し執着もない。物的財産はキャリーオンスーツケースに入るだけのモノと、大きなスーツケースひとつ分を日本の実家に置かせてもらっているだけ。家はない。家具もない。私も子供がいないので、家族に少しお金を渡したら、いつか残りはここに寄付しても良いのではないかとさえ思わされた。




説法を聞いても読んでも、私のエゴが邪魔をして聞き入れなかった『慈悲の心』というものを、今回ただこの施設を身を置き「観る」ということだけで理解したと思う。それを知った時には身体が痺れるような衝撃を得た。そして、それこそが宇宙のバイブレーションなのだということも理解した。厳しくすると人に優しくなれなくなる。8割方の人々はちゃんと行動を理解していたが、中には勘違い甚だしい若者もいる。それでも僧侶たちは優しい暖かい目で見守りそれを許す。そして、自分もそういう人々を目にして怒りを覚えない心を学ぶ。慈悲の心の高尚さを痛感させられ涙が出るくらいだった。

『mindful』という言葉を繰り返し聞かされる。今現在の自分の行動に集中して生きること。その中で私は忘れていた何かを思い出すような感じがした。ノマドライフの中でおろそかにしていたことがあったが、それを自身の価値観の変化ということで片付けていた。でも、それが真からのものではなく自身の言い訳にしていたことにも薄々気づい ていた。ただそれを認めたくない自分がいたのだと思う。




「雅さんに会いたい」という気持ちに気づき、私は腹の声を聴く。また日々の思いをアメーバのブログの方に落とし、彼女と繋がる必要性があるということを。修道院を出た後、 パーイで温泉に浸かり惰眠を貪りつつ、スクーター で田舎を流しながら、夜はアメーバ ブログの過去記事を読みあさっていた。忘れていた感覚が蘇ると同時に、彼女に羨望を覚えた。そこにはある種の予言さえも含まれていることに驚いた。

何故アメーバブログを切り捨てようとしていたのか今になってはよく思い出せないが、どこかで彼女の行動を自身の恥部だと思っていたのかもしれぬ。しかし、人々が話さぬ彼女のエロテロリストの記事には素晴らしいことが沢山散りばめられていることに今更ながら他人事のように 驚愕するのだ。あのブログアカウントを削除しなかった自身に本当に感謝しつつ、あのままの状態でブログを続行しようという気持ちを強く感じている。

2/09/2019

雅さんに会いたい

半年も前からコミットしていたダンスマンダーラのアドバンスコースをドタキャンした。全て準備してチェンマイ入りしてからのことだった。

真面目な自分の行為としてはあり得ない話だけれど、腹でわかってしまった以上もう無理にお金と時間とエネルギーをかけて受講することに興味が持てなかった。と言うより、それ以上に取りたいコースに出会ってしまったと言う方が正しい。

先生から変更許可をもらうまではまんじりとしない時間を過ごしたし、何ヶ月も前から固めていたチェンマイでのコース期間の宿をキャンセルすることや既に購入していた帰りの飛行機のチケット、更にタイでのステイを伸ばすための新しい宿、全てをプランし直すのに神経を使いまたストレスを増やした。

あまりの情けなさについ事の起こりを嘆いてみれば、周囲の人々の状況の深刻さにも目をみはるくらいのものがある。苦しいのは自分だけではないと気づき「水星逆行してる?」と言う言葉が口をついたくらいだ。暮れから続くストレスの連鎖はどこまで?と思ったけれど、2月4日の立春のニュースに気づいた頃にはもう空気が変わっていた。露骨にもそういうのが敏感に感じられた。どうやらこの新しい始まりの時に先駆けての大きな「試されてる期間」が人々に起こっているのかもしれない。そして、私のケースでは落ちきって底に辿り着いたのか、今の時点ではもう上昇しかないようにさえ思われる。




偶然と思うには重なりすぎていることがたくさんある。今回日本を出てからの旅で知り合う人々は、皆一様にエンパスであり「憑依体質なのよ」と言う言葉が躊躇されることなく飛び出してくるような会話ばかりだ。皆、スピリチュアルな体験をしているのに、スピ系のグループが苦手な一匹狼。むしろ、痛い思いをし過ぎてもうそんな能力さえいらぬと顔を反らしている。そんな彼女たちの話を聞きながら、私も自身のインドやホスピスボランティアの経験を思い出して身震いする。一対一では話は合うが、群れないし深入りもしない。ただ私と違うのは、自分の位置をもてあますことなく既に落ち着いている感がある。それが羨ましい。

そんな人々との会話から気づくことは沢山あったし、その出会いによって私はまた新たな方向へ流されてゆく。サレンダー、それこそが自分の望みなので、大きな計画変更もしんどいことではあったけれど、その先にほのかに希望の光が見えるのがワクワクの波長を生むのでこれで良いのだと思う。




ダンスマンダーラを習得してそれぞれの国に持ち帰ったファシリテイターは、一様に打ちのめされている。チェンマイではこんなに盛り上がるそれも、母国の人々には受け入れられずここの興奮を経験することはない。そしてこのスタジオに戻ってきてホームを感じている。今回も私がチェンマイのスタジオでファシリテートする機会を与えられた時のそんな彼らの反応は実に気持ちがよかった。そしてなんとなくわかってしまったことは、この場所とこのグループであるからダンスマンダーラが存在するのではないかと言うことだった。

そう気づいた瞬間、私の気が削がれた。そして去年目もくれなかったSheDanceという別のワークショップに惹かれる自分がいた。今、やりたいのはこちらなのだ。来年に先延ばしすればと頭は自身に言い聞かせたが、腹がうんと言わなかった。私は、今、SheDanceの奥に存在する未知のそれを習得する必要があると、今回チェンマイに来て腹に知らされてしまっている。




自身でダンスマンダーラを踊っても、自分のスピリットが湧き上がらないことを実感する。身体が重い。溢れる興奮も喜びもない。でも涙は出る。

今夜先生がファシリテートするダンスマンダーラのスピリットを踊った。静かな動きではあったけれど、入った。そして、私は雅さんに出会った。脳裏に降りて来たのはこの彼女だった。

2017年2月

たった2年前なのに。私は先日、バリのシドメンのこの同じベッドにいた。それなのに、同じ魂を持っていたなかった。失われた雅。彼女はどこに行ってしまったのか。

雅さんに会いたい。彼女を取り戻したい。彼女に会う方法がSheDanceのコースなのではないかというほのかな希望。それを腹が知っているような気がする。

3月1日に始まるそのコースが始まる。それまでの日にちを持て余して、私は明日北を目指す。山奥の修道院で白い服に身を包み、1週間ビッパサナーの瞑想合宿に参加する。

瞳を閉じて、呼吸を感じてくる。

2/02/2019

とうとうきたか次の低迷期

SFから帰ってきて実家に戻るとそこはサザエさんち並みの賑やかさだったので、身に起こった出来事を昇華しきれずにいた。 正月明けにバリに向かえば、この旅は2年前に知り合った人々を再訪問する目的だったので、バリを楽しむというよりほとんど知人と喋ってばかりいた。シドメンで4日間美しいフィールドの光景を眺める目的だけの宿でも、途中思わぬ訪問客がいて楽しかった。

空気が変わったのはウブドに近くなったタクシーの中でだった。珍しく鬱々とした気持ちに襲われ、自分はやはりこの土地とは合わないのだということを察知した。宿はプヌスタナンのギリ端の位置にあるゲストハウスで、隣の部屋にいた白人女性はとても親しみやすい彼女だったから、朝食のテラスでは軽い会話を楽しめた。よく笑った。

3年ぶりのプヌスタナン。2年前のウブドではこの地域を訪れなかったので、記憶を辿りながら裏道を探せば、もうそこは舗装道路になっているような変化だった。ビンタンマーケット手前では大通りの端を通らなければならず、 行き交うオートバイの騒音にげっそりしつつATMに向かう。空港にあった2台の ATMに拒否されて焦り換金せざるおえなかったので、ドキドキしながら現金が手にできた時にはホッとした。そしてもうここに戻ってきたくないからという思いで1時間後にもう少し引き出そうとした時、自分がキャッシュカードを持っていないことに気づいた。

全身から冷や汗が吹き出して目眩さえ覚えた。

この3年間、私はどれほどの土地を旅してきたことだろう。それなのに過去に1度カードを無くした経験があり、それが恐ろしくもこのウブドだった。こんな偶然というものがあって良いものだろうか。

このカード紛失事件はつまずきを重ね、アメリカ銀行側のミスで新カードが届くまでの気の遠くなるような時間を後のチェンマイまで引きずった。そして「好ましくない出来事」はそこから始まり、人間関係のトラブルで宿を失い、ダンスマンダーラのワークショップの機会を失い、騒音にやられ、私はとにかくバリを早く出たくて空港近くの宿に二日間何もせずに引きこもっていた。

人間関係のトラブルに巻き込まれることは稀なケースだけれど、それは私自身に大きなダメージを与えた。自分が被害者になるつもりはない。私にも非があり、誤解を招き、それを修正するのが不可能なくらいにすれ違ってしまった。ほんのりと惹かれてたという対象だった故、彼の拒絶、彼に映った自分の姿は受け入れがたいものがある。反省はするものの、自分を好きになれなかった。

かつてイケイケの雅はどこに行ったのか、育て上げたものはなんだったのか、いつの間にこんな敬遠されるおばさんになってしまったのか、と途方にくれた。




長い間「離婚ハイ」にいたのだと思う

夫のエモーショナルサポートを受けつつ、 新しいノマドライフにトライし「なんだ私、これもできるじゃん」という小さな達成感の積み重ねが新鮮で嬉しかった。それは外的要素よりも遥かな自信につながった。過去記事に「旅体力の低下」というのがあるけれど、最初はそんな感じだった。一箇所に長期滞在することから始まり、それがだんだんタフになって夜な夜なドミトリー宿を変えつつ僻地の旅を続けるのはチャレンジであり興奮した。時々自分でも我に返って驚くときがある。こんな自分を3年前には想像することすらできなかった。

そんなワイルドな旅の間に私は女性らしさを失ったのだろうか?気づけば炎天下の東南アジアや中米を旅した爪痕はしっかり身体に残されている。ダンスやヨガを怠ってきた故、スタイルも変わってきた。 年齢相応の身体と言えばそれまでなのだろうけれど。

スリランカの旅は惰性になり、その後小休止のつもりの日本が半年間の社会復帰トライアルと変わった。そしてその間に自分がすっかり「おばさん」と呼ばれる生き物であることを嫌でも認識させられた。




旅をしていると 外国人と出会い会話があるが、そこに自分の年齢や何者であるかを意識させられることはない。英語は同じ目線のフラットな会話で、たとえ相手が何歳であろうとそう変わるものはない。でも、日本語というのは丁寧語や謙譲語が発達しているので、人々はとっさに相手の年齢とステイタスを無意識に察知し、大概に私はどの場でも最年長であることから日本の若者が構えてちょっと腫れ物に触るようになる。

戸田のシェアハウスは半分の住人が外国人だったから楽しかった。が、そこでもやはり年配の男性から「おばさん扱い」をされた。「雅ちゃん、自分若いと思ってるでしょ?」と面と向かって言われた時にはどう反応していいかもわからなかった。自分には関係ない、自分のままでいれば良いと自身に言い聞かせていたけれど、無意識に蝕まれて行くものは確かにあったように思える

空気を読むことに全神経を使った。ちょっと興味があっても「 なになに?」と若者の輪の中に入って行って空気を変えることはしたくない。遠慮の加減を学んだ 。それはある程度外国でも同じことなのかもしれない。一対一の対話は問題なくても、旅先のホステルの若者グループというのは同様に排他的なエナジーを持っている。

シェアハウスの生活は、人と会話できる楽しさと、自分が属さない孤独さの繰り返しだったように思える。特に思ったのは、そこにいたのはナイスな人たちであったけれど「 my people」ではないこと。 無料でダンス瞑想を呼びかけても誰も関心を寄せず、一人で新しいプレイリストをプラックティスした時には、涙と共に「you are not in the right community」という言葉が降ってきた。




半年間のシェアハウスの生活は日本社会に半分足を突っ込んだような「住むのも可」という結論を生んだ。「絶対無理」という訳ではなかった。これでまた日本人だけのシェアハウスだったら違う結果になっているのかもしれないが。

シェアハウスで私は地味なおばさんだった。別にそれでよかった。実家にいてもそのままだし、私はおばさんであることを受け入れどっぷりとおばさんでいた。それが普通であり、それで楽になれるならそれでいい。社会では透明人間であり、誰も私を気に留める人もいない。 おっさんたちは若い子を求め、おばさんは勝手に美味いものを食べて気を緩め、好きなことだけやって老いてゆく。

その自分の身のこなしが変わったのは、サヌールの友人の輪の中のイタリアンの男たちの視線だった。個人的な意味はなくご挨拶程度のものなのだろうけれど、彼らの目に映る自身はまさしく「女性」だった。懐かしいエナジーに包まれるのを感じた。遠くのテーブルに老婦人がいた。多分にイタリアンなのだと思う。尊厳を保った、まさしく 「女」だった。私は彼女たちに憧れていたのに、いつからそれを忘れていたのだろう。




ある日ゴジラのテーマを脳裏に小さく聞いた。それがデジャブーに感じられた。

そうだ。10年前に50歳を目の前にしてあがいていた自分。更年期でくるくるしていたが故、その気持ちをブログに落とし込むしかなかった。

はっと気づくと私は今年58歳になり「The 還暦の心得」みたいなものに脅かされているのかもしれないとも思う。透明人間になり昔ほど男ホイホイではなくなり、元気のない肌のシワとかを見ると、しぼみ始めた花の生命力の衰えを自分に重ねる。他人には活動的に見られているし、多分に同年代の女性よりはるかにそうなのかもしれないけれど、要は過去の自分との比較だ。なだらかに気づかぬうちに朽ちればいいのに、 ガクンってくるものがある。 それが今年のような予感がする

周りが見えてないとか、人の話を聞いてないとか、そんな自分に後で気づくと傷つく私がいる。それが後を引く。そんな豆腐メンタルでどうする、と自分自身で呆れるのだけれど、こんな自分をどこに位置させ納得したら良いのかわからなくてくるくるしていることに気づくここ最近。




楽しくない。旅先で粋がっている若い白人たちのエナジーが鬱陶しい。騒音に敏感になる。

20年も関係のあった元夫との別離を身に感じているのだから喪失感があって当然だし、そう簡単に立ち直れるものではないと友人は言う。やっと新しい始まりなのだと。

日本語で検索すると全く出てこないどころか、会社勤めで鬱になる人がノマドライフで楽になる「俺かっこいい」系の浅い記事しか見つからないところだが、英語で「digital nomad depression」を検索するとすごい量の記事が出てくる。どこにも属さない根無し草がハマる落とし穴のようなものだと思う。興奮は続かない。多分に3年から5年でノマドライフは終わり、人々はどこかの地に落ちつき次のフェーズに入る。

鬱の谷はすぐそこにある。ぱっかりとその口を開けているが、 落ちないように踏ん張る自分を意識する。 漢方を飲む。鍼を打つ。遠いところにいるけれど理解し合える友人と、ひたすら正直な心を打ち明けサポートし合う。言うだけで、聞いてもらえるだけで、心は軽くなるのだから。


1/11/2019

人生はサイクル(2018年末) 2

「....」

SFの滞在する家に戻り夕食をひとり済ませているとまもなく、年配のルームメイトが仕事から戻って来た。

「で、どうだったの?」

そう尋ねられても、私はどこからどう始めていいかもわからないくらい言葉が見つからなかった。それでも思いつくままに自分の目に映った状況を吐き出していくと、やがてブワッと涙が溢れて来た。

「自分が何を感じてるのかもわからないし、こう話しながらなんで自分が泣いているのかもわからないわ」

そう言いながらも今度は言葉が止まらない。年配のルームメイトはただじっと話を聞いている。彼はいつの時でも私がありのままの私でいさせてくれる貴重な存在だ。

「sounds like you've just done unfinished business」

そう彼は静かに呟く。そうだ。私はこうして『終わり』を感じるたびにブログに経過を記して来たけれど、本当は終わっていなかった。私の気持ちは彼から自立していなかったのだ。


「明らかに何かは始まってはいたけれど、全てが同時に終わるわけでもない。いろんなレイヤーがあって、ひとつひとつの終わりと始まりがオーバーラップしているんだよ。ここは君の気持ち『アタッチメント』の終わりの時だったんだろうよ」

私は途方にくれる。終わりなんてなかった。終わりと思っていたものは存在していなかったし、今この状態でさえこれこそが終わりと言うこともはばかれる。ただ確かに感じていたのは『喪失感』だったのだろう。



離婚後に買った彼自身の家。私が少しずつ気に入って集めた家具や調度品は、そのまま見知らぬ家の中に位置を変えて存在していた。広く美しいその家はどの角もピカピカに清潔に保たれていた。私よりもはるかに綺麗に家を保っている、その家にいるのは端正な顔立ちのアジア人女性。ドアを開けた瞬間の佇まいは、介護士ではなく『a woman in the house 主婦』そのものだった。それが不意打ちで私の頭を殴った。

2013、2014年とホスピス患者を訪れるボランティアをしていた。その時の訪問の経験から介護士という立場の人間の存在を容易に想像できたけれど、そのプロフェッショナルさを彼女からは感じられなかった。そういえば1年前に夫と外で会った時の「今中国人の女性と一緒に住んでいる。彼女はケアテイカーでありガールフレンドでもあるのだけれど」という言葉を今更のように思い出した。今までにも彼は女性と旅行に出かけるとか折によって報告してきたけれど、私にヤキモチでも妬かせたいのかと思っただけで自分はそれに特に反応することはなかった。この言葉でさえ「ガールフレンド、と言ってもあくまでも彼の勝手な妄想かもしれないわ」と本気で聞いてはいなかったのだった。

それが彼の妄想であったなら、介護の女性はあんな動揺を見せないだろう。20年連れ添った元嫁の訪問。たとえ彼らの1年余りの同居生活が愛情に満ちたものであっても、歴史ある女性が目の前にいるのだ。心穏やかにウエルカムできる余裕もないのかもしれぬ。

彼女は英語をあまりよく話さない。アメリカ的な客のもてなし方も知らない。ただ家計に余裕のある外国人主婦のようであり、自信のなさゆえ身の回りには特に気を使っているようにも見えた。十分手入れをしている輝く肌がそれを物語っていた。私がその瞬間把握できなかった感情も、後からじわじわ来た。私は彼女に『昔の自分』を重ねて見たのだ。




年配のルームメイトは私の話を聞き、そこに『サイクル』を見ると言う。

そうだ。元夫はこういう女性が好きなのだ。英語がたどたどしい、スタイルの良いアジア人女性。彼の存在を、財力を必要とする『守られる女』。もう私は元夫と出会った頃のおどおどした私ではない。英語を堪能に喋り世界中をまたにかけるトラベラーだ。友人を作ることも容易い。自分の意思を持ち彼に偉そうに文句も言える。彼にまたはアメリカでの結婚生活で育て上げられた私はサイクルの終わりの完成品であり、彼にはまた新たなサイクルが始まっているということだ。

ふらつく夫の手をとる彼女。薬を飲んだか確認し、彼に寄り添い、彼のパンツのポケットに薬のボトルを差し込む姿はまさしく伴侶に見える。家の中には歩行器があり、車椅子があり、し尿瓶がある。彼女は介護を完璧に行なっているのだろう。彼女はそのための女性であり、いちいちうるさいやかましいことも言うこともない。彼は安心して身を任せることができるのだ。

その点、元夫は私が彼の面倒を見ることを酷く嫌がった。私が彼を年寄り扱いをするのを特に嫌がったし、拒否した。私の手に任せてしまえば素早くスムーズに行くものを、彼があくまでも自力でやりたがるので、私はイラつき辟易していた。そんな不快な離婚に到るまでの数年を再度思い出すことになった。

そう思ったら、私は彼の元に戻り介護をして看取ると提案した自分を激しく恥じた。この家のどこにも私の居場所はない。たとえ臨終の場があろうと、元夫の手をとり看取るのはこの女性であり私ではない。




元夫を訪れてから3日間ほど、ダメージを受けている自身を覚えていた。幸いにも毎日SFの友人たちと会い、会う人ごとにそれを報告し言葉にすることによって自分の気持ちを整理していた。それはカウンセリングそのもので、私はより客観的に状況を眺めることができた。

とらわれていたのは『喪失感』。夫はまだ生きているけれど、私の心の中の夫は亡くなったも同然だった。離婚をしながらも1年間仲良く同居を続け、ゆっくりと自立への道へと送り出してくれた元夫。アメリカの確定申告の手続きも彼が当然のようにそれを受け持ってくれ、私もすっかり丸投げにして甘えていた。家族よりも甘えられる存在だった。

「もうお前にしてあげられることは何もない」

癌のことを告げると同時にそう言われてもピンと来なかった。この現状を目の当たりにするまでは。

時期が悪かったら、私はゾンビのように痩せこけ変わり果てた夫を最後の姿として記憶に残したのかもしれない。しかし、2回の抗がん剤と32回の放射線治療で以前よりも体力が戻ったと彼は言う。少なくとも家の中を自力でゆっくりと歩けるくらいにはなっている。私が家を出てから夫がひとりで暮らしていた時は身の回りを自分でやっていたせいか、中途半端に伸びた髪や眉毛でしょぼく感じられた時があった。でも今現在の彼は再度クリーンカットの小ぎれいな身なりをしていた。女の手が入っている身なりだと言うことが一目瞭然だ




用意したクリスマスプレゼントに驚きつつも、包みは彼によって開けられることはなく、そのまま彼女の手に渡された。女性はどう対処していいかわからない風で奥の部屋に閉じこもっている。

「疲れた。横になりたい」

元夫の言葉で私は家を後にせざるおえなくなった。お別れのハグをしても彼の腕が私を包むことはなかった。1年前に外で会った時にはあんなに嬉しそうにしてくれていたのに、今回は違っている。彼の体力がないせいなのか、同居する彼女に気を使っているのかはわからない。そう、わからない。彼は説明しない。説明する必要もない。

あれこれと妄想して状況や理由を組み立てようとしても意味がないことを痛感した。私が受け入れるものは目の前に展開した事実だけ。

SFの友人宅のベッドに横になり身を休めながら自分の感情を観察してみた。『受け入れる』という行為が重圧のようにさえ全身に感じられるのは生まれて初めての感覚だったかもしれない。




この喪失感は自身のライフイベントと呼ばれる大きな区切りであることに気づくと怖くなった。父親の死やアメリカ移住の決心、アメリカで最初の友人の死のような過去に人生を大きく変えるきっかけになるイベント。そして時にはぱっくりと大きく開いた鬱の谷に落ちる。落ちたら長い闇を生きることになる。今そこに落ちるわけには行かない。私は自身の脳内で起きているドラマを極めて抑えて客観的に捉えるように努めた。起きた出来事の展開を、今度は夫の目、女性の目、そして映画のような画像で脳内で再現してみると、私の役は極めて脇役のビッチな元嫁な感じがした。そうすると、不思議に悲劇的な脳内ドラマがコメディ仕立てになってくる。大丈夫。落ちない。私はもはや過去の自分ではない。鬱を繰り返していたあの自分ではないのだ。

ショックは現実に対することだけではないことも気がついていた。

私は過去のトラウマを再度体験しているにすぎない。離婚はしても親戚のような父親のような存在。元夫の場所がいつでも帰れる場所だと勝手に思っていたこと。それが新しい女性の存在で失われたことは、1987年に両親が長女姉夫婦に家を譲ってしまい、彼らが家を新築し、アメリカから実家に帰ってきた私が居場所を無くしたという、あのトラウマを体感してるにすぎない。そうと気づけたことは経験で培われた生きる知恵であり、それゆえ私は不必要に傷を深くしなくて済んだと思う

時間が経てば、今起こっている現実は、夫にとって、私にとって、そしてその中国人の彼女にとっても全て完璧なWin x Winシチュエーションになっていることも明らかだった。あるのはメランコリーな哀愁だけ。でも、クリスマスの日にもう一度彼らを訪れて30分ほど彼らの家で話をしたら、私たちの初回の不思議な緊張感は消え失せ中国人の彼女はもう落ち着いてフレンドリーにしてくれた。

夫に最終的な礼とお別れを告げてハグをした。女性にも「彼をテイクケアしてくれてありがとう」と礼を言ってハグをした。彼女はその気持ちを素直に受け取ってくれた。私はもう元夫に会わない。臨終の時にも駆けつけないし葬式にも出る必要はない。私たちの関係に完全な終止符を打ったのだ。

2回目の訪問の後は、私の気持ちはかなりクリアになっていたし、楽にもなっていた。哀愁の気持ちはうっすらとは残っているけれど、正月を家族と迎えるために実家にたどり着いた頃は、もうかなり気持ちの切り替えはできていた。姪が2歳と7歳の子供を連れて訪れていたので、サザエさんち化した実家ではSFでの出来事はそれもまた夢のようにしか感じられなかった。






1/06/2019

人生はサイクル(2018年末) 1

「なんだか完全すぎるね。どんどん自由にさせられている」

2015年の正月に家を離れ最初に住んだハワイで知り合ったヒーラーの彼女が、私の報告を聞いてそう告げる。

「どうやら一番良い状態で物事にケリがついたようだな。これで君は重荷なしのフリーな状態だ。本当の意味でこれからは自分のことだけフォーカスして生きられるのさ」

すれ違いで顔を合わせることのなかった元SFのルームメイトTへの新年の挨拶でも、そんな返事が来た。2018年クリスマス前後の10日間、私は彼の留守の部屋で眠り、彼に売った自分の愛車のMINIを運転してサンフランシスコベイエリアを再度体感した。




予定になかった突然のSF訪問。1年ぶりのアメリカ。ロスアンジェルス空港での乗り継ぎで目にした肥満の黒人職員に「おぉ、アメリカだなぁ」と我に返った。サンフランシスコ空港に着いてバートで市内に向かう。日本の電車とは全く違う光景。自立した自由さをプンプン漂わせている人々を眺めているうちに、自分の身体から鱗のようなものが剥がれ落ちて流れていく感覚を覚えた。バートの駅から路線バスに乗り以前部屋を借りていた家を目指す路上では、もう昨日までそこにいたような感覚になっていた。仲良くしてもらっていた年配のルームメイトのマイケルに出迎えられ、時間を過ごし眠り目が覚めた翌日には、既に日本の生活は夢の中の出来事のように感じられた。

緊張感に満ちて、私は再びMINIのハンドルを握る。今は南湾エリアに住む元夫を訪問するためだ。11月に東京で再会したTに壁際に追い詰められるように説得され、私は逃げ場のない状態で翌日にアメリカ行きのチケットを買った。そのくらいでないと決心がつかなかったのだ。

「彼がすい臓がんだと知らせて来た時は、自分が看取るから彼の家に戻らせて欲しいって懇願したのよ。でも『お前が来るとややこしいことになるから来るな』っていう一方だし、どうしていいかわからなかったの」

あれは多分6月くらいだったのだろう。訪問を許されないまま、それでもメールの会話は時々続いていたが詳細はよくわからず、メールの返事がないともう死んでしまったのかと不安になった。彼から受ける拒絶感に狼狽し行動が取れないでいた私だった。

今思うと末期癌の変わり果てた彼の姿を目にすることを怖がる私もいたのだと思う。離婚をして自分が自由に幸せを実感するだけ元夫の存在は美化されてゆき、遠く離れた父親を想うようなそんな気持ちになっていた。彼の離婚のプロセスは海よりも深く私を愛してくれ包み込んでくれるような寛容さで偉大だった。他人に自分の離婚を語る時、そんな風にしてくれた元夫を誇らしく想う自分がいる。事実彼の一番素敵な頃のショーンコネリーのような写真は長い間財布に入っていた。そして勝手に、彼自身もそんな存在のまま私の記憶の中に留まりたいのではないのだろうかと結論づけていた。

でも、そんな私の言い訳をTは許さなかった。

「そんな状態で会わずして彼に逝かれてしまったら、君は相当に後悔して傷つくはずだ。何をしている?今、会いに行かなくちゃいけないんだよ。誇り高いユダヤ人のおっさんは『会いに来て欲しい』なんて女々しいことは言わない。だけど本当は君が会いに来てくれたら嬉しいはずだろう?会いに行っていいかなんて聞かなくていい。SFに遊びに戻って来てそれで近所まで来たから寄ってみた、ってそう言えばいいんだよ。俺がクリスマスホリデーで部屋を空けている間に来るんだ。クルマもある。全てはお膳立てできてるんだよ。あとは君の勇気次第さ」





Tの言う通りに間際になってから元夫に連絡し、クリスマスプレゼントを渡したいからという理由で訪問を許された。それまでは彼の容態が全くわからなかったものの、どうやら寝たきりではなく普通に生活できている様子が伺え、私の気持ちもかなりリラックスしていた。

離婚をした後に彼が移り住んだ家。住所しか知らないそこを初めて訪れる。ドアベルを鳴らすとしばらくしてから端正な顔立ちのアジア人の女性がドアを開けた。その表情に緊張と困惑、動揺も感じられ、そこから私の頭には無数のクエスチョンマークが飛び交い、何がなんだかよくわからないままもソファに座る元夫との小一時間の穏やかな訪問を済ませ、車を走らせまたSFへの帰路に着いた。

運転をしながら私は放心していた。自分が何を感じているのかもわからなかった。状況をよく理解していなかったし、想像を覆すような夫の状態も把握しかねていた。