11/04/2015

11日目の朝


いつもよりもずっと早い4時半起床の11日目。生徒たちのスケジュールに合わせて瞑想をし、ディスコースという講話のDVDを聞き、コースのすべてを一緒に終了する。6時には荷物をまとめてダイニングホールに向かう。我々食事を作っていたサーバーと呼ばれるボランティアたちは、今日はもうエプロンをすることもなく、朝食を済ませれば後はすべてコースに参加した生徒たちに後片付けをお任せしていつここを離れてもよいことになっている。

男女のスペースを仕切っていたカーテンが解き放たれ、ダイニングホールには明るいざわめきが響いていた。キッチンにサーバー用の朝食はセットされておらず、他のサーバーたちははホールに出て行って生徒たちと適当にソーシャライズしていた。

「あなた、その被っていたスカーフでわかるわ。いつも見ていたの。まるで石のように微塵として動かないその姿に触発されていたのよ。凄いわ。きっと熟練者なのね」

トーストにジャムを塗ろうとしたその横で生徒の一人が話しかけてきた。我々サーバーは、グループ瞑想のときに瞑想ホールの正面壁際に横向きで座るので、嫌でも生徒たちの視線を浴びることになる。とは言っても、瞑想が始まれば目を瞑っているのだから、彼女が私が石のようだというのも不思議なところだが。多分に彼女はディスコースの最中の私を意味したのだろう。正面モニターの真下に座っていたから画面を見ることもできず、ただただ瞑想状態でその音だけを聴いていた私だった。

「熟練なんてそんなことないです。私はまだコースを一度取っただけだし。このサーバーのボランティアで2度目なだけですよ」

そう応えると彼女はとても驚いた顔をした。

「ナチュラルっていうのも違います。前回のコースを取る前は15分の瞑想にも耐えられない私だったもの」

そう告げると、彼女は更に驚きを隠しきれないようだった。




私の言葉に偽りはない。ビッパサナーのコースをとり10日間の修練を重ねると、1時間まったく動くことなく瞑想を続けることが可能になる。そしてそれは多分に、自転車に乗るのを身体が覚えるのと同じかもしれず、6月のコース後まったくとして自主的に瞑想をすることなどしなかった私が、8月末の禅センターで苛立ちや苦しみを覚えることなく1時間瞑想できたことで気づいたことだった。

このセンターで出会った男性が、やはりヴィッパサナーの経験者であり、最初のコースの後サーバーとして戻ったという話をしてくれたことで今回の私の行動が起こった。てんでだらしのない生活をしていたから、果たしてあの早起きの生活をこなせるのだろうかというちょっとした懸念はあったけれど、マインドセットしたとたんに私の脳内の波長が瞑想時のそれに変化したことを意識した。あの当時の感覚を思い出しただけで、意識レベルが変わった。

瞑想には常々興味を持っていたけれど、まともにできたためしはなかった。たしか2011年に震災後のストレス時に本を読んでトライしてみたけれどまずできなかった。地元にある超越瞑想の門をくぐってみたときもあったけれど、当時インタビューでピンとこなかったのと1500ドル払ってマントラをもらうと言われて気がそがれてしまった。時々座禅の会に参加することはあったけれど、興味本位の一時的な体験に過ぎない。

今年になってハワイでヨガコースを取っていた時、週3回から4回の瞑想の記録をつけるのが課題になっていたけれど、15分も持たないのが常だったし、やらずにいて適当な記録をごまかして記載したこともある。そのくらい、自分は瞑想ができていなかった。

それが今座布団に落ち着き、太ももの下にさくさくと補助のクッションをあてがい手を落ち着けたその瞬間から「サドゥー」の言葉を唱えるまでの1時間微塵も動くことない。たとえ顔の肌がむず痒いだろうが、鼻水が垂れようが、体に痛みが走ろうが、私はその感覚だけを観察する。




後ろに座っているサーバーの仲間が私を「サムライ」と笑った。まるでマーシャルアートのような動きをするというのだ。ホールに入り座って身体を落ち着けるまでの動き、膝にかけていた毛布をたたみクッションを外し座布団に重ねて退出するまでの動きにそれを感じさせるらしい。

確かに二日も経つと、繰り返されるその所作に無駄がなくなってきたのは自分でも意識できた。ぐちゃぐちゃあちこちを何度もいじって直したりせず、『手刀を入れる』という言葉があるように、さくっと一発の動きで用をたす。数年遊びで習っていた着付けの『道』が私の身体に染み込んでいることに気づいた。




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