12/31/2019

2019年の終わりに 2

「えぇえええええ! 雅姐が日本で恋愛してたなんてこれっぽっちも思わなかった!」

年末27日、サンフランシスコのダンス仲間が帰国した際に横浜にやってきた。 彼女に裏横浜を一日かけて案内して最後の焼き鳥屋で〆にした時、やっぱり彼女に話さずにはいられなかった。その二日前にはシアトルの友人がやってきていて、彼女とは会うなりその話題になっていたので、そこで十分に昇華できていたはずだったから話す必要もないかなと思った。でも、結局は軽い報告がてら彼女にも自身の近況を伝えていた。自分で話しながら全てが終わり過去形で完結していることを、彼に未練もないことも実感していた。




この秋、私は官能的な恋愛を経験した。

ドライな身体だけの関係なら旅の最中にちょっとあったかもしれないけれど、私はノマドで行きずりの女だから感情は伴わない。最も、自分の人生を変えるような出会いがあったならば、その時こそ自分の終の住処が決まるかもという淡い期待はなきにしにあらずだったけれど、結局それは起こらなかった。

何人かは時折私を思い出してメッセージをくれたりするけれど、それでほのかな恋心が起こるわけでもない。私が胸が焼け焦げる苦しい恋愛をしたのはバリで出会ったビーガンのアメリカ人男性、なんと3年半も前のことだった。彼とは当然として友人にはならない。苦しい恋愛で別れたらそれきりなのが私のパターンだ。




きっかけは甥の言葉からだった。

「男だらけの職場だから、アプリで婚活始めた」
「へぇ、じゃあ私も日本にいる間に試してみようかな」

ポロリと出た本音に本人が一番驚いたのだけれど、 横浜の住居が落ち着いた暇な9月も終わりのある夜に、私は婚活アプリをインストールした。そして、その日のうちにある日本人男性と繋がった。

「お金でブランド品を手に入れて身を飾ることはできますが、筋肉はお金で買うことができないので最も美しい装いだと思っています」

彼の顔は全く好みでなかったけれど、そのプロフィールに添えられた美しい上半身を見せびらかす画像に気が引かれた。キン肉マンではなく地味な細マッチョ。筋肉がどうのというより、その言葉を言える人はそういない。それに魅了され彼に対する興味が生まれた。

毎月海外出張するビジネスマン、かつてNY、ソウルに駐在員として住み、近年 6年のブラジル 駐在から戻ってきたばかりの彼とのテキスト会話は日本語と英語のバイリンガルだった。テキスト会話から二日後には初めてのデート。そしてそれ以来毎日テキスト会話が続き、彼は私の日常にすっかり入り込んでいた。 He is a part of my lifeという言葉がぴったりだった。

話をしていて とても楽だった。日本人の男性に引かれるのはまれな私、というのは私が彼らの「好み」で ないのと同時に、私にとっても「英語話せるんですか、アメリカ そんなに長い間住んでたんですか、凄いですね」と引け腰で言うような日本人男性にはそれだけで萎えてしまう。

思い出すと、彼が私が苦手とする日本人男性であってもありえないくらいに楽だったのは、SFベイエリアでつるんでいた日本人たちと話しているのとなんら変わりないエナジーを 持ってる人だったからだと思う。

彼は私に「綺麗」を「好き」を連発し、私の話す過去の何事にも動揺せずそのまま受け入れ、知ったかぶりもせず、そして謙虚に学ぶ男だった。彼の行動を訂正しても傷つくような つまらないプライドは持ち合わせず、次に会う時には更に私好みのスムーズな男になっていった。これが年下ならともかくほぼ同じ年の57歳。地位も収入もあり、私が支払い時に気を使う必要もないゆとりもあり、とにかく居心地が良かった。




2度目のデートの後で、人生のパートナーになって欲しいと言われて焦った。彼が一番最初に会った男性なので決めかねていたのと、うまく行きすぎる、何か落とし穴があるかも、とやけに用心深くなっている私でもあった。

私がうだうだ返事をはっきりとしないまま、それでも毎回楽しいデートを重ねていった。

美しい 肉体を持った57歳に自身の裸体をさらけ出すことになるという緊張は、私をダイエットやヨガの良いモチベーションになった。そして、崩れた体型が元に戻るまでそう時間はかからなかった。セックスも私の好みを伝え、回数を重ねるうちに彼の身体がベストフィットだということを知ってしまった。昔のめり込んだ22歳年下の子犬くん以来だった。

そうなると今度は、彼が私を追いかけていたところから逆に私が彼を追いかけるというよう に立場が逆転した。私は彼とのデートの機会を失うことを恐れて、自分の予定を入れることができなくなっている不自由な女に変わっていた

男が私と出会った時、彼は転職活動の真っ最中だった。ベッドの中で想像できる将来を語り、多分に次の職では東南アジアのどこかに赴任なるのではないかとの彼の言葉に「それならついていっちゃおうかな」と言う私がいた。彼もそんな国際的な同年代の日本女性を見つけることは困難だと知っていたから、私に執着していたのも事実だった。

彼の仕事が 忙しくなり、お互いのスケジュールが合わずに会えなくなる日々が続くと、まだ関係が定着していない私たちの会話はすれ違い始めた。そしてそんな不安定な状態の中、彼の中国赴任が決定された。

「一緒に住もう」という彼の言葉はもう嬉しくなかった。彼の息子が春に就職で家を出たら、そしたら一緒に住めるかもと妄想はしていたけれど、まさか中国について行くことはありえない。Google もFacebook もLINEも使えない中国で私は何をするというのだろう?新しい職場で彼は仕事で精一杯になる。そんな時に中国という土地で一人ぼっちで私が幸せを感じることなんてあり得ない。仕事で忙しかったビーガンの前彼と一緒に住んだ経験で 既に自分のことは分かっている。

それでもひたすら彼に会いたかった。好きという感情は、彼とセックスしたいという欲情なのだな、と理解したが、果たしてそれが一緒に暮らして正解な相手かということは疑問だった。



彼の最初の上海出張の時はお互いがWeChat で連絡を取り合っていたけれど、出張後のデートは実現することがなく、私がひたすら彼に合わせてスケジュールを組むもことごとくNGが続き、やっとの思いで調整したデートがドタキャンされた。

どんなにエリートではあっても彼に何の決定権もない「社畜」であるということが虚しく、この年齢での最後のバトルだと当然として仕事を優先する彼に冷め始めても、表面ではサポートのテキストを返していた。そして、だんだんと彼の元嫁に愛想をつかされたという理由がわかってくるような気がした。

彼の仕事のスイッチが入ったら、私は忘れられた存在になる。実際彼は言った。たとえこの仕事がダメになって雅と一緒に住めることになったとしても一生後悔するだろう、と。その時点でもう私の中では終わっていた。彼とは実際に会うこともないまま、ドタキャンされたデート以来顔を合わせていない。

2019年の終わりに 1

確か去年の年末は前夫をサンフランシスコに訪れていたのだった、とクリスマスシーズンに思い出していた。膵臓癌を患って「あと半年の命」と告げてきた彼に最後のお別れを言いに行き、そのついでに多くのSFの友人と再会してきた。

末期の悲惨な状態の前夫を目にすることを覚悟して行ったのに、会ってみたら弱っちいけれど普通の状態の彼だったことに気抜けした。それよりも彼に寄り添っていた女性の存在に動揺する私がいた。

あれから一年。多分彼は生きている。誰からも死亡の連絡がなかったので9月に誕生日の祝いのメッセージを送ったら、あっけらかんとした返事が帰ってきた。なんと2回の抗がん剤と37回の放射線治療で癌が完治しているようだと言うのだ。彼の家族は元来話をドラマ地味て話す癖があったのだけれど、今回ももしかしたらそうだったのかしらといぶかしんだ。いずれにせよ、彼が生きているのだからそれに越したことはない。




今年の過去記事を読み直して思い出したくらいで、年頭のバリ、チェンマイで感じていた低迷期のことはすっかり忘れていた。一度思い出した時があったけれど、とても今年のこととは思えないくらいに記憶に遠くてびっくりした。

私にとっての今年のメインイベントは4月から4ヶ月に渡って旅した東ヨーロッパ。このようなインテンスな4ヶ月に渡る旅は中米、東南アジアに続く3度目の試みだったけれど、20以上の街をバスで移動していたからかなり身体に堪えた。最初のうちはそんなことができる自分自身に興奮していたから堪えていることにも気づかなかった。イスタンブールからポーランドまでバスで移動し、コーカサスのジョージアに飛んだら沈没してゆっくり体力の回復を待つつもりだったけれど、体調が優れないまま盆の帰省の帰国となった。日本の実家でだらだらしても首肩の痛みと疲労感は消えず、医者に行ったら「変形頸椎症」と診断された。

気持ちとしてはチェンマイに戻るつもりでいたのに、病気と診断されれば予定は変わる。去年同様数ヶ月首都圏のシェアハウスに留まって治療に専念するべきと判断した。それで新しいシェアハウスを探しているうちに、突然母が倒れた。

「とうとう終わりの始まりが来た」

長女姉も私もそう覚悟した。家にいる義兄は自分の母親の世話に遠い施設に通っているから、私たち姉妹で自分の母のことは面倒見てなるべく彼に負担をかけないようにしなくてはいけない。だから、いざとなれば私が同居して母の介護の手伝いをすることもあり得た。友人、知人がひとり、またひとりと仕事をやめてでも実家戻りをしているのを横目で見て、自分にもその時が来たのだろうと思っていた。

母の入院、家と病院の往復に合わせて慣れない家事のヘルプ、自身の頸椎症の痛み。この期間は人生の次のステージに踏み込んだことを実感した。そして「寄り添って暮らす相手」というものを生まれて初めて意識したのだと思う。

幸いにも母は2週間ほどの入院で無事回復し、私は手頃なシェアハウスを横浜という新しい土地に見つけ、東京の治療院に通うことになった。そして新たな「魔法の手をもつ男」のおかげで首の痛みは軽減し、近所のホットヨガに通い続けて以前の体力を取り戻した。




横浜という場所を私は全く知らない。小学校6年の修学旅行で山下公園に行ったことと、大野一雄舞踏研究所で舞踏ワークショップを取るのに近年何度か中華街に宿をとったことがあるくらいだ。シェアハウスのリサーチの末、年配の住居人がいる小規模の物件の選択が荻窪と横浜みなとみらいだった。信用する友人が「みなとみらいにするべき」と言ったことで即決した。内覧をすることなく部屋を借りた。

その横浜にいまだに魅せられている。みなとみらいの洒落た華やかな施設が全部自分の庭のようでありつつも、街歩きのツアーで下町の古い横浜の歴史が分かるたびに私はのめり込むものを感じていた。そして今年91歳になった母が初めて明かした事実。彼女が戦争時代に私が住む最寄りの駅桜木町で切符切りをしていたということ。その他にも、知らないはずの土地の昔の写真にとてつもなく懐かしいものを感じて涙するなど、不思議な縁のようなものを覚えている。

海外を転々としていて終の住処を探していたけれど、何処にもピンとくるものを感じなかった。強いて言えば、ヨガ的環境とmy peopleでチェンマイは住んでもいい土地だと結論が出かかっていた。そこに意外な展開で「横浜」という土地に引き寄せられた。そう、引き寄せられたのである。「流れ」でそうなった。




今、私は家族を優先する。寒い冬は嫌いだけれど、家族と過ごす年末年始を選択する。そして、できるなら少なくとも月に一度母と一緒の時間を過ごしたい。その希望を満たすのに、横浜の土地に住むのは便宜が良い。そして母の入院を目にして思った。将来私が年老いて入院し亡くなることがあっても、その場が日本の病院であったほうがいいな、と。歳をとればとるほど、疲労には祖国の味が必要なのは東欧の旅で嫌という程思い知った。いつだったかSFの60歳手前の知人が「老年で入院したら梅干しとおかゆを食べられる環境にいたいのよ」と35年だか住んだ土地を離れたということをありありと思い出した。ということは、私の住む日本というのは横浜ということになるのだろうか?

今自分がいる部屋の隣の公園の桜がそれは美しいと人々が言う。それを満喫したいのでこの部屋をしばらくキープすることにしたから、年明け2月のチェンマイは珍しく3週間という短期滞在にした。例年バリに加えて2ヶ月のチェンマイであるから、日本滞在の方を重視する新しい流れになった。春までいるなら、どうせなら夏まで延長してオリンピックに湧く日本を肌で体感したいと思うところだけれど、果たしてそうなるか。実際チェンマイに行ってみないと分からない。どう感じる自分がいるか、ちょっと楽しみでもある。