5/31/2014

パワーアップするレイキ


「雅は、確かホスピスで仕事してるっていってたよね?」

ショーのリハーサルの前に着替えていたら、おもむろにロシア人の生徒からそう尋ねられた。

「仕事というかボランティアだけれど?」
「どうして自分のエネルギーをあげてしまうのさ?」
「? 自分のエネルギーをあげる訳じゃないわよ。レイキはユニバースからのエネルギーをパスするだけ。でも、確かに私が器量不足なのか患者が死ぬ間際には吸い取られるような感じを防御しきれなくて体調を崩すことは確かにあったかな」
「だったら、何でそんなことしてるのよ」
「知らなかったのよ。ホスピスで仕事をするという経験をしてみたかったの。今はどんなものか解ったから、今の患者を最後に暫くは離れていようと思ってるわ」
「その方が懸命よ」
「なぜ、いきなりそんなこと聞くの?」
「駅で大きなホスピスの広告を見たの。『あなたがもしあと6ヶ月しか生きられないとしたら、どのように生きる?』っていうコピーがあって、びっくりしたわ。考えるのも恐ろしい」

そう、ロシア人の彼女は眉をひそめた。彼女に悪気はない。いつも単刀直入に自分の思いを口にするだけで、お国柄と思っているからそれで私の気持ちが害することもない。しかし、その話を次のボランティアミーティングで話してみた。

「まぁ、それ、我々の医療グループなのかしら?」
「私もそれを尋ねたのですけれど、ロシア人の彼女はそこまで詳しくチェックしなかったっていうんですよね。サンフランシスコ市内の駅の構内で結構大きい広告だって言ってましたけれど」
「じゃぁ、ウチじゃないでしょう。ホスピスにそれだけのお金を使う予算はないはずだもの」

そう、オーガナイザーが言い切って、ボランティアの我々が一度に笑った。

月に一度のボランティアミーティングでは、そのときにいろいろなテーマでの勉強会も兼ねる。『End of life』に直面する人々にどのような対応をするか、そんなことについて話し合うのはいつでも興味深かった。




日本に帰国していた間は、ホスピスボランティアを再度開始するかどうか定かではない私だった。しかしアメリカに戻り、以前に担当していた95歳のHの引き継ぎをしてくれたジムおじいちゃんに会った時に彼女の様子を尋ねてみたら、「あぁ、まだ元気に生きているさ!」と応えたので、礼を言い再度私がHの家を訪問することにした。ジムおじいちゃんにブレイクをあげるけれど、そしたらまた彼は他の人を引き受けることになるだろう。

ボランティアミーティングで、私が以前引き受けていた77歳の男性のその後を尋ねた時に「多分彼はもう亡くなったのではないかしら?」と告げられた。でもいつお発ちになったのかを確認したかったので調べてもらったら、なんと彼は私が日本に帰国した後回復してホスピスプログラムから外されたそうだ。それを聞いてなんとも嬉しい気持ちになった。




95歳の元シニアレイキのプラクティショナー仲間だったHを再度訪れたときには、あまりにも普通に元気にしていたのでちょっと拍子抜けしたくらいだった。「多分にもう会えないでしょうけれど」と言ったHの言葉に涙ぐみそうになった私だったけれど、こうしてまた奇跡的に語りあうことができる。

「えぇ、私はあなたにまた会いたかったから、もうちょっと生きていることにしたのよ」

そう、Hは悪戯っぽい笑顔を見せた。

久々にHに私のレイキを施した後、彼女はマッサージテーブルの上から起き上がるやいなや放心したように「どうしたらこんなレイキができるようになるものかしら」と呟いた。そのときは特に気をとめる私ではなかったけれど、リビングルームに落ち着いてジュースのグラスを差し出した彼女は、再度ちょっと怖いくらいの顔で「あなたのそのレイキの秘密を教えて頂戴。どうしたら、そんなレイキができるようになったの?」と真剣に尋ねて来たので驚いた。

実を言うと、私も自身のレイキの変化に気づいていた。始まる前に自信たっぷりに彼女に「今日はとても良いレイキをしてさしあげられますよ」と告げていたし、終った後も放心して起き上がった彼女に「今日はとても良いレイキをしてあげられました」と再度呟いた私だったのだ。

そう尋ねてくる彼女に、「やっぱり思い過ごしではないのだ」という確信を得、ちょっと考えた後「実は日本でこういう経験をしてきたんです」と明治神宮や鞍馬山での体験を語った。

「そういうことなのね。やっぱりヒーリングスポットに行くことがキーなのかしら?」
「どうでしょう? そういう場所の『エネルギーにシンクロする』ということができるようになったのかもしれません。目を瞑ってレイキをするとき、私は明治神宮のあの場所に戻ることができるんです
「この辺だとどこかしら?」
「さぁ、シャスタ山に行ったときは凄いなと思いましたよ。遠いですけれど」
「あぁ、そうよね。もっと以前にそれを知っておきたかったものだわ」

そうHは遠い目をして呟いた後、「でも、あなたが鞍馬山のパワーを運んで来てくれたことは決して偶然ではないのでしょうね」と言って嬉しそうに笑った。




日本から戻って来てからレイキを施すと、今までにない深みに入る自分を覚える。目を瞑ると明治神宮や鞍馬山で感じたそれに戻ることができるし、気が遠くなるというか意識が『濃い』ものに変わる。それは通常の意識が水のようにさらさらなものだとしたら、私がレイキと共に感じる『それ』はまるで濃い食塩水かミネラル水のような感じといったら近いかもしれない。なんとも形容し難いものなのだけれど『ぬよ~ん』としている。眠くなるような感じだし、実際にHやクライアントはいびきをかき始めるのだけれど、本人の意識は割としっかりしていて、何処に手を当てられているのかとかいう感覚ははっきりしている。単に眠いというのとはまた違う『異次元』の感覚なのだ。これは何度もレイキを受けている人だったら、私の言っていることが感覚として理解できるのかもしれない。シニアレイキでの無料施術はたった30分弱のものであっても、もう起き上がるのが嫌なくらい深くリラックスできて多くのクライアントはその後放心してしまうくらいなのだ。

私の施術は始めて暫くしてからの頃よりもシンプルになった。その当時はレイキの施術ができる機会がある面白さと、自身のレイキそのものに自信がないというか、クライアントから絶賛されても「ほんまかいな」という感じもあったので、それを埋めるかのように指圧の技術を混ぜたりしていた。やっぱり『ツボを押す』という直接的な刺激があれば、それで確実に満足してもらえるだろうという気持ちもあった。

しかし、実際熟練者のレイキを受けると、そんなこざかしいことをしなくても、その手から伝わる温かさと『ぬよ~ん』としたエネルギーのほうが、ヘタなマッサージよりも気持ちが良いということが解る。そして今、私自身が自分のレイキにやっと確信を得て自信が得られたのだと思う。

「怪しい」と思う人には思わせておく。私自身がそこから入ったし、それを信じるまでにここまでの時間がかかった。「信じない」と思っている人には効かないレイキだということも学んだ。『Free will』なので、相手に承認をとらずにレイキを送ったとしても信じない人、必用ない人には何も起こらないので「まるでspell (呪い術)のようだ」と疑われたとしても関係ない。受ける人がどんなに表面上で疑っていても、潜在意識がそれを知っている、必用としているのであれば、必然的に私のような過程を辿って行くものだと思われるレイキは運命に組み込まれているものかもしれない。必用としている人には必然的な出会いがあるのだろうと。そして、関わることのない人にはそういうことでスルーされて終る。いちいち私が力んで「これはこういうものだ」と説明する必用もないのではないかと思える感も強くなった。




ホスピスボランティアをしなかったら、その効果をこの目で確認することもなかった私だったと思う。奇跡を目にした以上、私には確信があり、その確信は『信念』に繋がった。一度信念を持ってしまえば、その力は確実なものになる

「どうしたらこういうレイキができるようになるものかしら」と呟いて起き上がったHは、とても神妙な顔をして「あなたはレイキを教える人になるわ」と続いて呟いた。私の頭にはそれがまるで予言のように響いた。

実際レイキマスターになったものの、レイキを教える人になるつもりはまったくとしてない私だった。最初のイスラエル人の先生がクリニックを閉じて祖国に帰ってしまった後に、残されたプラクティショナーたちがグループでそれをビジネスにしようとやっきになっていたときにも、メンバーとして在籍していたものの私はそれを彼らに任せきりにしていて、自分は昼間のボランティアに精を出していた。どうやってお金に結びつけようかとしているエネルギーとは真逆の方向に行っていた。自分がそういう器量ではないと思っていたところもあるし、自分自身が『その時ではない』と知っていた感もある。そして、そんなグループのビジネスの夢も個々の仕事の忙しさにかまけていつしか消えて行った。

Hのそれを予言のように聞いたときにも、具体的な欲もプランも思いつかなかった。ただ時期が熟すればそうなることもあり得るのだ、というように思えた。



5/29/2014

ダンカンダンスに育てられる


やっと週末二日間のパフォーマンスが終わった。この一ヶ月重なるリハで時差ぼけと共にへろへろになりながら5月は駆け足で過ぎたという感じだ。ショーの翌日の月曜は恒例のスタジオプロモーションの撮影会、ショーの打ち上げ、そしてイサドラダンカンの誕生日を祝ってシャンパンを開けるというような午後をサンフランシスコのオーシャンビーチで過ごした。クリフハウスの真下であるこの場所は、その昔サンフランシスコ生まれのイサドラが実際にここで踊り自然からのインスピレーションを受けた場所であるともいう。

サンフランシスコの夏は霧が多く『アメリカで一番寒い夏』で有名だけれど、このメモリアルデーのホリデーウィークエンドはまだ温かく穏やかな天気でとても気持ちが良かった。朝はげろげろで起きだした私だったのに、現場に行ってチュニックに着替えたら、もう海岸を走りたくなっていた。カラフルなシルクのチュニックが風に舞い、光の中でダンカンダンサー達が波と戯れるのを目にするのは本当に美しかった。ビーチの端のこの場は人も少なく撮影には全く支障がない。

「邪魔をするようで申し訳ないのだけれど、どうしても好奇心をそそられるのだよ。君たちは一体何者なのかね?」

そう雰囲気の良い知的な感じの年配のご夫婦が近寄ってきて私に話しかけて来た。ダンカンダンスを学ぶ生徒だと告げると、「ほら、やっぱり私の言ったとおり!イサドラダンカンの衣装だったのよ!」と奥さんが勝ち誇ったように言い、その彼女の理解が私を嬉しくさせた。知る人は知る、歴史ある人物なのである。

ビーチで思い切り跳ねてしまったせいか、はたまた今までの疲れがどっと出たのか、その翌日は激しい腰の痛みで目覚めた。その疲れ加減から、今まで気力でやってきたのだということを再度認識した。この年齢にはやっぱりかなりキツいスケジュールだった。




「雅ちゃんが戻って来るのを待っていたのよ。さぁ、リハを始めるからね。時差ぼけ、大丈夫?頑張ってね」

日本から帰国するやいなや、先にベイエリアに戻って来ていたダンカンダンスの師匠にそう告げられた。東京でのワークショップで念を押されていたので、疲れたと言っていられない。帰国して最初の週末のナショナルダンスウィークイベントで士気が高まったので、時差ぼけからの回復は早かったかもしれないけれど、それでも慢性的な疲れを振り払うのは容易ではない。週2回から3回、そして一日4、5時間のリハが続くと、さすがに師匠自身ももぐらぐらのぼけぼけになりつつあった。しかし、時間は待ってくれない。創作ダンスもまだ煮詰まっていなかったし、衣装も決まっていない。師匠の焦りだけが募って行く。

日本人とアメリカ人のハーフで元ファッションモデル。年齢不詳ではあるけれど、皺の具合からは私より少し年上で多分に50も後半というところか。きめの細かい白い肌とずば抜けて長い手足。舞の中でちらりと見える太腿に多くの男性が魅了されていること間違いない。女の私だってどきっとしてしまうもの。ダンカンダンスのアーティストは数いるけれど、彼女独特の美しさと柔らかさは他のNYあたりの先生とは一線を画す。ダンカンダンスを極めたいとNY移住まで考えていた若手のダンサーも、一度向こうに行ってワークショップを取って、やっぱりMary Sanoのダンスの方がいいのだと考え直したくらいだ。

私がダンカンダンスを続けるのもMary Sanoのその美しさのオーラに直に触れていたいから、という理由でしかなかった。彼女の路線を辿っていけば、60歳になってもきっと魅力的な女性で居られるに間違いない。いつまで幼女であるような魅力をもった彼女だけれど、毎回ショーの前になるとプレッシャーから般若のように変化する。その状態の彼女にキレてスタジオを去った生徒も数える程に存在していた。今回初参加を強制的に組み込まれたロシア人女性が、過去の例と同じくリハの最中に逆ギレして私たちをひやりとさせた。

ロシア人生徒の気持ちは良く理解できた。クラスを取っている以上強制的にショーに押し出され、『楽しんで踊りたいだけ』の自身に激しいプレッシャーと、ときには強過ぎるダメ出しを与えられるそれに耐えきれず、幾度となく私もダンカンから離れた。一度クラスのレッスンの最中に切った足の筋肉の後遺症を理由にしたけれど、『楽しみだけのダンカン』に留めることができなかったのが嫌というもの、実際は私のエゴがそれを許さなかったからだ。他の若い30代ダンサーの中で見劣りするというのにも耐えられなかった。

私の最初のパフォーマンスは2008年のことだったらしい。今回のパフォーマンスはそれ以来ということになるので、実に6年ぶりということになる。




パフォーマンスは当時のイサドラが行なったサロンのように、生ピアノの演奏と共に踊った。ショーの半分はネオピアニストのオリジナル曲で創作ダンスを踊ったけれど、そちらは『表現』を主とするもので特に問題はなかった。しかし、今回のダンカンレパトワはブラームスのシリーズが選曲され、そのひとつの『シンバル』というダンスはわずか45秒。始まったらひたすらジャンプを続けるそれを、どうしても間違えずに踊ることができないでいた。本番まで一週間をきった頃には、さすがに焦りが出て家で何度も練習した。

2008年のショーのときのことをあまり覚えていない。終った後の興奮はあったけれど、ステージでは頭が真っ白という感覚だったように思える。しかし今回は不思議にステージフライトの緊張感は感じなかった。まさに『dance like nobody's watching』という感じで、リラックスしている自身を意識した。『見せる』というより『楽しんでもらう』という気持ちの方が強かったし、観客のエナジーに批判のそれではなくサポートのそれを感じたのもある。今まで私は観客席の方にいたけれど、そんな自分は本当にダンカンダンスのショーを楽しんでいた。彼女達の舞があまりにも愛らしくて目尻が下がってしまうほどだから、当然、今回のショーを見ている人々も同様の気持ちであると思えた。批判が怖い人は多分に自分が批判する人だからだと思う。そうでなかったら、そんな気持ちなど起こるわけがないのだから。




「雅ちゃんは、どんな感じ?」

ビーチでシャンパンを飲みながら、師匠に尋ねられてセメスターの締めくくりに生徒のひとりひとりが思いを口にした。

日本に帰国する前の冬のセメスターは、精神的に辛かったけれどダンカンのクラスに支えられて来た。そして東京でのワークショップ。更に今回の春のセメスターのショーへの参加。肉体的には辛かったけれど、それだけ得られる達成感は大きい。ダンカンダンスは私を支え育ててくれる。そして、数少ない『本当に好きだから残る』他のダンサーたちは心優しい女性ばかりだ。ダンスを踊りながら本当に楽しくて嬉しくて、瞳を覗き合いその瞳の奥まで相手を受け入れ微笑み合うことができるというのはまれなこと。でも、私たちにはそれができる。それはMary Sanoだから教えることができるのだと思う。

そう告げると、彼女がまた幼女のように喜んだ。



狭い舞台裏の待ち時間に


フィナーレのときの衣装
ビーチで最後に記念撮影:右端が師匠のMary Sano女史


移動中に何気に撮ったスナップもこんなに素敵♪




5/20/2014

日本で社寺巡り 4


今度私が帰国した際には伊勢神宮を訪れたい」

そう告げる友人からのメールでこの案が浮かんだ。事実、人生今までで一度たりとも「伊勢参りをしたい」などと思ったことはなかった。それを母親に告げると、式年遷宮の翌年の今年は20年に一度のお参りに最適な時期だし、一生に一度は訪れるべき場所だから是非そうしなさいと強く勧められ、それを実行するに至った。

鞍馬山の後何もしない日ということでスケジュールをブロックし丸一日眠りこけた翌日、大阪のホテルをチェックアウトして伊勢に向かった。京都の友達と鶴橋の近畿鉄道のホームで待ち合わせして、上手い具合に指定席を隣同士でゲットするスムースな旅が始まった。

内宮の直ぐ目の前の神宮会館が早朝参拝をする無料のツアーを提供していることから、宿泊地をそこにした。昼にホテルに到着荷物を預けて、早速外宮に参拝に訪れた。『外宮を先に』それが伊勢神宮の正しい参拝の仕方だということで。知ることはそのくらいで後の詳しい情報は得ていなかった。先入観を持ちたくないという気持ちも強かった。

しかし明治神宮と鞍馬山の経験があまりにも素晴らしかったので、私は伊勢神宮に過大な『期待』を寄せていたのだと思う。それだから外宮を出た際には「ふ~ん」といった感じで終ってしまった。浅草寺を訪れたときとさほど変わらぬ感覚だった。そして、おまけで近所にある別宮、月夜見宮(つきよみのみや)に足を延ばしたが、後で知ったことには、こちらを先に参拝して外宮を訪れると良いのだそうだ。ここもパワースポットと呼ばれるらしいと後ほど知ることになるけれど、ここでまた不思議な経験をすることになる。




いつものごとく敷地内に祀られている全ての社をお参りする私は、ご利益を考えずにただエネルギーを感じるだけの参拝をする。月夜見宮の本殿の向かって左横にある小さな鳥居、古い大木にも同様にそうした。しかし、エネルギーをシンクロさせた途端に私の中の闇がうずいた。私を嫌な思いにさせる人物、私のエゴを刺激し劣等感を感じさせ、嫉妬を覚えさせ、そういう自分が嫌いになる、その対象が再度思い出されたのである。それは鬱鬱とした大変に苦しい気持ちになり、「何故ここで?」という驚きと共にいやぁ~な思いがしばらく持続した。

我に返ってその場を離れ、友人と神宮会館に戻りチェックインして畳の部屋に落ち着き茶を入れた。そこで初めて口を開いた。

「なんか、私、今、めちゃ落ちてんねん」
「やっぱそうか?なんかずっと元気ないなと思ってた」

そこであの場で動けなくなり、嫌な思いに囚われていたことを告げた。

「なんかずっと戻ってこないなぁと思ってたらそんなことがあったん? あそこ、何やろ?」

友人がパンフレットを広げてみたけれど、地図には出ているものの名前の表記はない。

「… あそこにお狐さんいたよな。ということはお稲荷さんだよな。電話してきいてみよか? あ、でも、もう遅いか。あまり気分が優れないようだったら、明日内宮でお祓いしてもらうのもいいかもしれない」

そう友人に提案されても私自身はそれ程のものではないかもと思いながら、それから大浴場に行って身を清め自身にレイキをかけた。

その夜は伊勢海老会席のあまりの量と美しさに感動し、食前酒で酔っぱらった勢いで直ぐに布団に落ちてしまったため、それ以上の苦しみはなかった。そして翌朝5時に再度入浴、6時に内宮の早朝参拝にでかけ大変に清められた思いだったので、私の闇の苦しみはほんの2時間程度のほどだったことにすぎない。

「内宮はやっぱり外宮とは格が違うな」

そう友人が言い私も同意した。あのとにかく高尚で清らかな感じはただ単にその場にゴミがなく整然と整えられているだけのものではないと思う。ホテルのTVで伊勢神宮の歴史と行事の説明が行なわれている動画を見ていたが、私たち自身が気づかぬうちに、こうやって国全体が神によって守られているのだという、いや、神に祈る人々がいるお陰で守られているのだということを深く実感し、恐縮し謙虚な気持ちにさせられた。この頃には「何かとてつもないパワーを感じてやるぞ」という気さえ卑しいとも思わされた。

外国人の姿を目にすることは少なかった。地味な外観とどこを見ても同じようなそれは、外国人のアトラクションにはならないのかもしれず、そして知識なくとも肌でその良さが解るのは日本人のDNAだからこそかもしれない。




さて、あの月夜見宮で起きた不可思議な現象の謎を知りたくて、そのお稲荷さんを調べてみたところ、これだけのインターネットの情報があふれているこのご時世にその理由が見つからなかった。なんでも昔、大きな雷がこの楠の大木に落ちて、それ以来民間信仰になったいうことで、その理由を知る人も土地を離れてしまい誰もその歴史を知る人もないそう。伊勢神宮とはまったく関係のないものだという。ところが、この場を『気持ちが悪い』とか『強い霊性を感じる』とか書いている人もいるので「おっと」と思わされた。




明治神宮のサイトを探していた時に『パワースポットと言われる清正井は今は立ち寄らぬ方が良い』という感じの記事にいくつも出くわした。実際私が出かけた時にはそこの門が閉じられていたため御苑に入ることが出来ず、それを見ぬままに終った。要はそこの写真を待ち受けにするとご利益があるとTVで紹介され、一時はそこに辿り着くのに5時間も待つくらいの行列ができてしまったということ。ところが「逆にそれをしたら良くない事が立て続けに起こったのは何故?」という投稿も相次いでいる。とあるサイトが「そこにあまりにも多くの人の強欲なエネルギーが溜まってしまったため」という解釈を付けていたけれど、私はそれに同意する思いだ。

ご利益があるからということで人々が群がる場所というのもどうかな、と思わされる。もちろん、元々のその場所には強いエネルギーがあるのかもしれないけれど『欲にからんだ人のエネルギー』もその場に溜まってゆくということ。オリジナルな場のエネルギーが良くても、一日の終わりにはそこに渦巻く『人の負の念』があるということだもの。

長年の経験から、自分が霊媒体質だということを自覚しなくてはいけない時期にきていることを実感する。2011年の夏、友人と「やっぱりインドいくならパワースポットのタージマハルを訪れるべきでしょう」と意気揚々とでかけ子供のようにはしゃいでサリーを着た自身の撮影会に浮かれていたけれど、夕方そこを離れる最中に『ずん』とのっしり背中に乗る『それ』を感じた。その後からはネガティヴなスパイラルにハマり、挙げ句には帰りの飛行機で熱病を発症し、家で2週間の下痢と熱の中でただ死にたいと、死ななくてはいけないという強迫観念に襲われ続けた。そしてそれがレイキとの出逢いに繋がって行ったのだった。




ネットでサーチしていくうちに、世の中には『稲荷大社との相性が悪く、お稲荷さんの神社を訪れると具合が悪くなるので近寄らないようにしている』という人もそう少なくなく存在するのだということが垣間見られた。私ももしかしたらそういう体質?とは思ったが、これは経験を重ねて行かないと何とも言えない。しかし、私的な解釈では、自分自身の邪気に対する浄化作用が起こった、すなわち『毒出し』がそこで起こったのではないかというようにも考えられる。強力な浄化作用で一時的に具合が悪くなるのはよく経験していること。そしてありがたくも、私はその対象が引き金になって渦巻く自身のエゴの苦しみがすっかり消え去っていることを、今更のように認識することができる。確かに気分はとてつもなくいいし、その対象を思い出してももう嫌な思いをすることもない。




もうひとつの不思議現象。伊勢神宮で撮った写真が、サムネイルでは普通に観ることができるのに、画像が理由の解らない現象でことごとく真っ黒画面になっていて閲覧不可能。仕方が無いので、残りの食べ物画像を少し掲載することにする。




巾着に入った伊勢うどん
赤福の団子


魚と豆腐の揚げ物:飛龍頭
アツアツをがぶっと







5/12/2014

日本で社寺巡り 3


「レイキをしている最中におしゃべりをしていようが『意図』がそこにあるならそれでもレイキはでているのよ」

そうレイキマスターから言われた時には、本当なんかなと疑った。でも、こうやって体験を積み重ねてみると、今では確かにそうなのだと納得できる。レベル1を受霊してすぐにボランティアの施術を始めた時は凄く集中して行なっていた私だったけれど、思えばあれはレイキというより自身の『念』を使っていたのだと、振り返って理解する。

『意図』があればそれでレイキは使えていると思うが、それでも『波動のチューニング』というのがあるということを、ある時期から身体の感覚で理解した。無意識でどんな構えで始めても、チューニングでハマった瞬間自身の身体が突然動く。背骨が正しいアライメントに揃うのだ。それは背骨の中を風が通るような気持ちのよい瞬間で、その状態がそうだと解るのは『アレキサンダーテクニーク』のセッションを重ねたせいでもある。

『六芒星』の上に立って呼吸を整えた瞬間、それが起こった。それはまるで麻布の魔法使い磯部氏のセッションを受けたときと同じように、身体が揺れ足の裏の重心が正しい位置に落ち着いた。その途端、自動的な微調整で背骨のアライメントが整い風が通り、上方に引っ張られるような感覚さえ覚えた

レイキががっつりと『通った』と思われる瞬間に起こるその現象を、私はあまり他の人とシェアしたことはない。レイキの感じ方は人それぞれで、どれが正しいとも、そうだからパワーがあるとも言えないということなので。しかしながら、鞍馬寺の最もパワーがあると言われるその『六芒星』の上に立った途端に、私がレイキとチューニングが深く効いたと思われる瞬間の感覚が起こったという事実は、レイキパワーの確信を私に与えてくれた感が強い。その体験に感動し、そのまま私は大きく両手を広げ、ハワイのレイキマスターワークショップで学んだ『動瞑想』を行なった。充分に時間をかけて行なって満足して振り返ったら、後ろに列が出来ていてびっくりしたけれど。

鞍馬山のパンフレットにはこう記載されている。

『鞍馬山は、毎日を明るく正しく元気良く積極的に行き抜くための活力を、本尊である尊天から頂くための道場である。本来、いつでもどこにでも存在する尊天の活力が、特にこの鞍馬山には満ち満ちているからである。『尊天』とは「宇宙の大霊であり大光明、大活動体」であり、私たち人間をはじめ万物を活かし存在させてくださる宇宙生命・宇宙エネルギーであって、そのはたらきは愛と光と力となって現れる』

この山の信仰はこのエネルギーを信じ合一するために自分の霊性に目覚めることにあり、その個人の宗派も人種も国境もこだわることがない。霊気(レイキ)は太古から存在し、臼井みかお氏はただそれを使う方法を発見したにすぎない。それが今や世界中に広がったレイキだけれど、まさか遠い未来にそうなるとは彼も想像することはなかっただろう。そして私も、一歩また一歩と確実に導かれて、レイキを更に理解してゆく。




鞍馬山を訪れたのは日曜だったにもかかわらず、まだ幾分寒さが残る山の中だから人の出も少なかった。誰も入ろうとしない霊宝殿だったが、知り合いからそこの3階にある観音様を訪れるように念を押されていたのでそれに従った。仏像奉安室は靴を脱いで畳の間に上がる。そこには毘沙門様が数体、そして聖観音像があり直ぐ目の前にそれを拝む事ができる。その足元にひざまずき薄暗い部屋に浮かび上がるその美しいお姿を崇め、ただエネルギーをシンクロさせた。泣きたくなるような静かな感動を覚える。今まで散々いろいろなところで仏像を見て来たけれど、こんなふうに拝むことなど知らなかった。というか、感じることができなかった。







鞍馬山に入山したときに受け取ったパンフレットには、32カ所の山内史蹟が記されているが、それはあくまでもメインのものであって、その途中、またはその敷地内に小さな社はそれ以上にある。それをひとつとしてとばすことなく、帽子を取り丁寧な『二拝二拍手一拝』をひたすら続けた。やっと貴船に辿り着き遅いランチの蕎麦で温まり、貴船神社を参拝した後は滑り込みセーフで茶屋でぜんざいを頂いた。この辺りの店は3時頃には早々に閉まってしまうようだ。

再度叡山電鉄で貴船から鞍馬に戻り、駅に停まっている鞍馬温泉のマイクロバスに乗り込み、日帰り温泉を楽しむ。京都の出町柳駅で購入した1700円の『鞍馬・貴船散策チケット』には露天風呂の料金まで含まれる。のんびりと山の景色を楽しみながら歩いた疲れを癒し、京都に戻る電車の中では充実した一日を感じてほっこりとした気分になる。




夕食にぽんと町に出向いた。二日後に訪れる伊勢では五千円の伊勢海老の懐石料理を予約済みなので、今夜はシンプルに済ませたかった。そんなところで見つけたお好み焼きの店で感動あり。そこのウエイターのお兄ちゃんが、もうなんともいえない爽やか青年なのである。

「雅さんてさぁ、日本人男性好きになることってあるの?」

大阪でそうおもむろに友人から尋ねられた時、「福山雅治? 彼とだったらやりたいと思う」と応えたら「そんなん、アタシだってやりたいわ!」と怒られた。あと、大河ドラマに出ていた岡田准一もいいなと思ったかな。しかし、生の一般人で唯一私が萌えたのが、この『やすべえ』のウエイターのおにいちゃんだったのだ。

「あのおにーちゃん、爽やかやわぁ〜。ええわぁ〜」

お店に居た間そう繰り返し何度も何度も呟いていた私。そうしたら、隣に座っていた3人の熟女たちも同様に感じたようで、お会計のときに露骨にお兄ちゃんにラブコールを送っていた。なんでも、オーナーは二人姉妹で、その片方が彼の義母、そう彼は彼女の娘と結婚しているそうで。チッ(・д・) と思ったけれど、それでも男性客にもそれはさわやかに丁寧に受け答えする彼、是非京都に出向いた際には『やすべえ』のお好み焼きを食べながら、彼のさわやかさを吟味していただきたい。



左:ぽんと町に入っていきなり横の店のドアから芸子さんが出て来た時には、放心してしまった。慌てて追い掛け写真をとった私。
右:お好み焼き『やすべえ』の入り口。




5/09/2014

日本で社寺巡り 2


明治神宮のエネルギーの強さを家族に説明していたところ、丁度姪夫婦が子授けのお守りをゲットしに栃木の古峯神社に行くというので一緒にと誘ってくれた。山奥にあるこの神社は別名『天狗の社』と呼ばれ、あちこちに大きな天狗のお面が飾られている。300畳の大広間があり、一晩に350人を受け入れられる宿泊施設もあるいう。靴を脱いで中に上がってゆっくりお茶を飲んだり出来たけれど、エナジーの部分ではなんとなくピンとこなかった。たまたまどこかの会社が祈祷を頼んでいたので、ドンドンと太鼓の音が鳴り響き、雅楽がかかってうやうやしく儀式が始まるのをこの目にした。巫女さんが鈴を鳴らして舞う姿をみたのは初めてだったので酷く感動させられたけれど、そんな厳粛な祈祷の最中でも、廊下の外では訪れたおばちゃんグループが大きな声を張り上げていて気がそがれた。やはり、人の出入りが多い所はそれなりに『気が散れる』のだろうなと思わされる。

古峯神社内にある天狗の数々





「ゆべしまんじゅうを買っていこう」

姪がそう言い、鳥居の中のまんじゅう屋を覗いてみたけれど「ない」とつれなく言われた。それで仕方がないので鳥居の外の『栄屋』を覗いてみたら、店の奥の畳の間にこたつが4台程あり、その手前のこたつに婆さんたちが寝そべっていて「お客さんだよ~」とのんびり言う。そして奥からゴム手袋をはめたおっちゃんがちょっと困った顔をして「今、作ってんだわ。できたばっかりのはうんまくないんだよ。そこにある開いてんのやっから。それ、やっから」と告げる。ゴム手袋のそのポーズは何も触れない何もできませんって感じ。なんだかよく解らないまま試食をさせてもらえるらしいと、封が切ってあるまんじゅうをその場で食べた。食べた以上は買わぬ訳にはいかぬだろうと、姪がその横に3袋程残っているまんじゅうのうちの2袋を購入した。

多少のやり取りの後、店を後にしたけれど「なんだ、あのおっさんまるで『ドクター、オペですか?』ってノリだよな」という姪の旦那の一言で爆笑する私。

「その構えの割には、雅ちゃんの脇腹つんつん突いてたよね~」

そうなのだ。おっちゃんは私に「ねーちゃん、金払って痩せたんかい?」と聞いたのだよ?

「他の何も触ってはダメみたいな構えなのに、お金払う時には躊躇せずゴム手袋のまんまお金掴んだよね。『後で洗うからいいんだよ』って言い訳してたよ」

って、もう姪と姪の旦那の語りが可笑しくってクルマの中で大爆笑。地方の面白いおっちゃんていいなぁと思わされた瞬間だった。


栄屋の構え





関西へは大阪オフ会と『鞍馬山』を訪れることがオリジナルの目的であった。鞍馬山はレイキ承によれば、創設者臼井みかお氏19223月に安心立命の境地を求めてこの山にこもり、21日間の絶食瞑想の後に脳天を貫く雷のような衝撃を受けて治癒能力、いわゆる『霊氣』を授かったとされる、レイキプラクティショナーにとったらイスラムのメッカのような存在なのだ。私のブエノスアイレスの旅行で合流したアルゼンチン人の女性プラクティショナーも、この地を一緒に訪れることを私にプッシュしていたけれど、彼女は私の帰国の時期を待ちきれなくてレイキマスターのツアーで一足先に鞍馬山を訪れていた。

そうは言っても、実際鞍馬山を訪れてみると、霊気のレの字も見当たらない。その場は牛若丸や鞍馬天狗の歴史の色濃く、多分にここを訪れる人々はレイキのバックグラウンドなんて知らぬ人が殆どだと思う。

鞍馬の駅には美しい牛若丸のパネルが沢山ある




「何?雅さん、山登って来るの?」
「え、いや、お寺訪れるだけ」

友人の質問にそう応えた私は何も解ってはいなかった。叡山電鉄、たった2両の可愛らしいきらら号に乗って山の景色を楽しみながら辿り着いた鞍馬駅。大きな天狗を横目に正面の『仁王門』をくぐったところからどんどん繋がってゆくその階段途中にある大小様々な社を厳粛に参拝していたら、いつの間にか山頂にたどり着いてしまった、というノリである。この場は足の悪い人には向いていないな、と思わされる結構タフなお参りだ。(そんな人の為にケーブルカーがあったけれど)鞍馬→貴船コースだったら、お社を尋ねているうちに頂上に辿り着くという感じだけれど、間違って貴船→鞍馬コースを選んでしまったものなら、永遠と続く自然の中の山道を登るだけになるので、結構辛いことになる。貴船に降りる山道ですれ違った人々は、杖を片手に本当に苦しそうに息切れしていた。



上:仁王門 中:途中にある大小の様々なお社のひとつ 下:貴船に降りる途中の山道





鞍馬寺本殿正面にの石畳に『六芒星』があり、そこがパワースポットと言われているよ、という情報はゲットしていたけれど、辿り着いてみればとくに人が群がる気配もなくそれをスルーする人もいるくらい。本当なんかな?と思いつつその星の上に立ってみれば…



左が『六芒星』割と気にしない人も多い

まぁ、凄い体験をしたもの。その結果は次回に続く…







左:桜が満開の本殿の横でお琴の演奏あり。趣があってよかった。
右:貴船神社で結婚式があり、参拝の人々が見ることができる場所で着付けが行なわれていた。美しい。





5/06/2014

日本で社寺巡り 1


一日4時間から5時間のダンカンダンスの稽古が3日続いた。帰国直後の身体にはさすがにしんどかったけれど、ぐらぐらに疲れてバタンキューの毎日だったから、かえって強制的に時差ぼけを治せた感じもする。

ふんわりムードのクラスやワークショップと違って、月末のパフォーマンスを作り上げるリハの過程にはぴりっとしたなんともいえない緊張感があり、それが新しいスタートを意味するようで私にはありがたかった。日本で踊ったのは上京したときのみだったけれど、そうなまっていない身体を意識する。甥と何度か出かけたボルダリングのクライミングや毎朝の軽い体操、そして社寺巡りの歩行で、充分なエクササイズにはなっていたみたいだ。

誕生月の5月に入ってから、更に運気が変わった。鏡の中の自身の姿を見て絶望感を覚えた冬の私は消え失せ、今は顔の肉付きが変わり瞳には光が宿る私がいる。スピリットは高く身体が音楽に溶け込む。光が溢れるスタジオでバーエクササイズをしながら、ふと伊勢神宮のお参りの際に立ち寄った『猿田彦神社』の中の『佐留女神社(さるめじんじゃ)』を参拝したことを思い出した。天照大御神を岩戸から出すために神楽を舞った猿田彦大神の妻は芸能の神として祀られている。訪れて初めてそれを知り、充分に自身の気をそこでシンクロさせた私だった。




今回の日本帰国は、まったくとして計画外で相当な社を参拝する結果になった。『二拝二拍手一拝』これを通算何度行なったことだろう。それもひとつひとつを凛としてかなり丁寧に時間をかけて行なってきた。その度に浄化されるような気持ちになれた。

「雅さん、今度東京行ったら明治神宮行っておいでよ。あそこ気は凄くいいよ」

そんな友人の言葉を思い出し、表参道での用事のついでにふと何気に足を運んでみたときには、特に先入観もなかった。実を言うと今まで何度も原宿にでかけたことはあっても明治神宮を訪れたことがない私だったので、一度は行ってみてもいいかな、くらいの気持ちだった。そして、そのときの経験がその後の私の行動を大きく変えた。

平日の昼過ぎは参拝に訪れる人も少なかった。小砂利の参道を歩いてゆき大鳥居をくぐって御社殿が近づいてきたときのことだ。ぐわ~っとしたエネルギーを正面から感じて驚愕した。それは近づく程に強くなってゆき、心の中で「え?!何これ?何?何が起こってるの?!」って叫んでしまったほど。御社殿で賽銭を投げ入れ参拝しようとしたら、何とも言い難い高尚なエネルギーが、私の丹田、第二チャクラを目指して前から後ろから横からひゅわんひゅわんと凄い勢いで入って来たので相当にびっくりしてしまった。そのエネルギーのあまりの高尚さに思わず「お願いごとなんてそんなだいそれたこと恐れ多くてできません」という謙虚な気持ちにさせられたくらいで、ただただそのエネルギーを静かに受けるだけに留めてしばらくは身動きができない私だった。

その数日前には友人と雷門での待ち合わせのついでに浅草寺の境内まで足を運んで参拝していたけれど、そんな感覚は全くとして感じなかった。5時を過ぎていても参拝客の列は長くできていて、参拝にも時間もかけることもなく普通に軽く無病息災を願う程度。満開の桜が風に舞う仲見世通りは外国人観光客も多く、実家のお土産に『舟和』の芋ようかんとあんこ玉を購入した。友人と近場のトンカツ屋で夕食をしたけれど、あの場はお寺の凛とした雰囲気というよりはどこかお祭りを想像させるような陽気さで気が散れていたように思える。

とりあえず、明治神宮で思いもかけない体験にかなり放心してしまい、ふらふらと歩いていたら絵馬のある場所の前にお願い事を書く紙と封筒を発見した。そこで初めて神妙な気持ちになり、改めてさらさらと願い事を書いた。不思議にも全ては私の愛する人々の為の言葉で、自身の願掛けを思い出して最後の一行にちらっと入れたくらい。正月に気まぐれにおみくじをひいたりすることもあるけれど、小銭を賽銭箱に投げ入れる意外特に願掛けなんてしたこともない私だったにもかかわらず、このときは封筒にお札を入れて願い事を木箱に収めた。

そういえば、2年前に京都に行ったときに友人と阿倍清明神社を訪れたときも相当に驚かされたことを思い出す。クルマの往来が激しい高層マンションが建ち並ぶ住宅街のど真ん中にあった神社だけれど、鳥居をくぐった途端にそこの澄んだエネルギーの強さに驚かされた。まるで筒状に天に伸びてるような感じでそこの空気だけが違っていたのである。そんな風に場のエネルギーを意識したのも珍しく、ここのパワーは信じられる、と思わず普段購入しないお守りをゲットしたくらいだ。

左:浅草寺と桜 右:明治神宮





東京から実家に戻って、父の法事をした広淋寺に大きなしだれ桜があったことを思い出し、温かい春の午後自転車で運動がてらでかけてみた。ここは真言宗智山派に属するお寺で関東八十八ヵ所霊場・第25番にあたるらしい。田舎の畑の中にある小さなお寺に、しだれ桜を見にやって来た人が他に二人ほど来ていたくらいで静かだった。参拝をして心を澄ませてみたら、大変に可愛らしいほっこりしたエネルギーを喉の第五チャクラに感じてふ~んと思った。左横に小さな社があり文殊菩薩座像が祀られている。そこを参拝してみたときには、本殿とはまったく違ったシャープに放つぴりっとしたエネルギーを感じた。このときから社寺での体感を観察する面白さを覚え始めた私だった。もう願掛けの言葉なんか探す必用はない。ただ、心を澄ましてその場のエネルギーに自身のエネルギーをシンクロさせればよいのだと解った。『ご利益』なんてあまり気にしたことなかったし、社寺巡りなんてこれっぽっちも興味がなかった私がいよいよそれに楽しみを見いだしたところをみると、これも年齢を重ねたせいなのかなぁと思ったりする。




広淋寺のしだれ桜



明治神宮のギフトショップで見つけた明治の山茶は古式農法(天然日干番茶)
母の土産に購入してみたらそれは香ばしい美味しさで家族にとても喜ばれた。600円という手頃な値段も嬉しいおすすめ品。