10/24/2014

ホスピスと安楽死


29歳の末期癌患者Britney Mayardsさんが安楽死を選択するためにカリフォルニア州からオレゴン州に引っ越し、それをYouTubeで好評して話題になったことから、ホスピス患者にのみ安楽死の選択を認めている州がアメリカに5つあるということを最近知った。その州とはオレゴン、ワシントン、モンタナ、バーモント、そしてニューメキシコである。

私にもその選択が可能なのだと知った時に、シンプルに 『relief』という一言に尽きる感情に満たされた。

その選択を認めることをもっと世間に広めようとしてファンドを作った彼女の意図は、もちろん全米中に賛否両論の嵐を呼んだ。特に宗教上の理由があればそれは『許されないこと』の粋なのかもしれない。彼女の動画に連なって、あちこちで彼女に残したメッセージ動画の「Please don't do it」という言葉が目立つ。でも、それを目にして思ったことは「言うことは簡単だよな」ってこと。彼女の痛みどころか家族の健康を損なうほどの地獄の苦しみは、それを言う人には解らない。

私が断れきれない流れでホスピスボランティアをすることを決意したとき、面接で今までに人の死に立ち会ったことがあるかということを聞かれた。父親は突然死だったけれど、アメリカに来て一番最初の女友達を骨肉腫で亡くしている。他にこれといった友人がいなかった私は、2年間6週間毎にサンフランシスコからLAまで見舞いを続けていた。彼女と夫の友人である白人男性も舌の癌で亡くなったが、最後は喉の半分が腐り溶けているような状態で、悪臭が家中に立ちこめていた。どちらも壮絶な死だった。

去年の暮れに亡くなったホスピス患者もホスピス認定後10ヶ月まで延命を果たしたけれど、最期は正気を失い、それでも生への執着が強かったのか昼夜を問わずゾンビのように家の中を徘徊し続けた。家族はもうぼろぼろだったし、彼女にレイキをしていた私でさえ健康を損ねた。

果たしてそれらの人々に『安楽死』という希望があったかどうかは知らない。それが認められていないのなら、選択にもならないので考えることもなかっただろうか。

『安楽死』は逃げなのだろうか? 当人も家族も癌と『闘う』べきであり、それが『美徳』と思う日本人は多いのではないかと思ったりもする。




癌になって医者の言うとおりにしてたら逆に死ぬ、みたいな意図の本も沢山でているし、なんと治療放棄して13年生きているという人のブログは癌ブログ部門一位でそれが本にもなった。もちろん、それに対して「そういう本を出版して社会にばらまくのは危険」という意見もある。

有名なところではアップル創設者ジョブズ氏が、膵臓癌を放置し手術を受けるタイミングを逃して命を失った。彼は決して放置していたのではなく、西洋医学よりも代替医療でどうにかしようと思ったのだけれど、その願いは叶わなかった。彼を亡くしたことは、私たちの生活にも大きな影響があったのではないかと思う。

癌が発見された時に、抗がん剤でとりあえず腫瘍を小さくしてから手術で癌を摘出するということをした人もいるけれど、最初に摘出後、抗がん剤や放射線治療で転移可能性のある癌細胞をやっつける必用があると医者に勧められ、それに従う人もいる。その後遺症で人生の『質』を失い、半病人で数年を費やす人もいれば、抗がん剤の後遺症らしきものさえ感じない人もいるから、一概に癌治療の良し悪しを判断することは難しい。

身近なところで言えば、ハワイで出逢った男は放射線治療の後遺症で味覚と唾液の分泌を失っている。日常の生活には事欠かなくても疲れやすいから職場には復帰出来ていない。

「こんな副作用があると知っていたら、放射線治療は受けなかった」

そう彼はこぼしていたけれど、リサーチなしにして医者の言葉を丸呑みした結果だから仕方がない。それがその時の彼の選択だった。『再発』の恐怖の方が強かったのだろう。

そうかと思えば、実家の長女姉は私が知らぬうちに甲状腺癌が見つかりすぐに摘出手術を受け私には事後報告してきた。抗がん剤も放射線治療もなく甲状腺の一部を摘出のみ。だからと言って食事療法とかに気を遣っているかといったらそんなこともなくのんびりしたもの。再発の不安はないのだろうかと思ったが、「だって医者が大丈夫って言ったし?」と姉自身がその質問に驚くくらいだ。実際、癌細胞は『心配』のエナジーが好きだったりするから、姉くらい暢気なくらいが良いのだと思う。

先日大阪で仲良くしてもらっていた血液癌を煩っていた年配の知人が危篤状態だと言う連絡を受けた。彼とは春の帰国時に面会していたが、抗がん剤の治療で以前に比べて酷く痩せてはいたけれど相変わらずの洒落た老人だった。そのメールを受け取って以来私がしたことは「早く苦しみから救われますように」と祈りとレイキを送り続けたことだ。間違っても「生きながらえますように」とは思わない。ホスピスで働き体験することによって、私の気持ちはそのように早く穏やかに逝けるようにと変わって行った。




『安楽死』が問題視されるのは、それと『自殺』が混同されているからだと思う。今や日本社会では「『自殺』ではなく『自死』と言おう」とか、よく理解できない風潮があったりするけれど、それでも自ら命を絶つ人が多い社会で安楽死を認めると「精神的苦痛から逃れる為に安楽死を認めても良いのではないか」というように自殺さえも認めようという話に飛躍するのを怖れてのことなのかなと思ったりもする。

更にはやっかいな老人を早く逝かせてしまうことを危険だと声をあげる人、または延命装置に繋げておいて生かしてさえおけば政府からの年金が入るから、その収入を当てにした家族が下手に『安楽死』が出来るとなると不都合だという表ざった言葉にはならない『家族の都合』があるというのも見聞きする。

とりあえず、日本では『治療をしない』という消極的に自然死を早めることだけは認めているらしいが、果たしてその場になった本人は一体どういう処置を望む事だろうか、自分に当てはめて考えてみてもいいと思う。




Britney Mayardsさんは、旦那さんの誕生日を過ごした後11月1日に安楽死を決めていると発表。まだ残された日々がんがん旅行が出来るくらいの元気さだから、動画でその姿を目にした人は納得できないのだと思う。しかし、彼女の腫瘍は前頭葉に大きく広がっていて、いつどの瞬間に地獄のような痛みに襲われるか解らないし、人格を失うことはもう予知されている。ただ『弱り果てる』という穏やかなものではなく、人格を失い下手したら痴呆やどう猛に変貌するかもしれない本人を目にするのは、家族にとっても堪え難いことだと思う。だからこそ、彼女は日付を設定して美しくお別れを言うことにしたのだと思う。安楽死を選択した彼女の語りは死の恐怖を通り越した穏やかさに満ちている。

彼女の命はあと一週間…







10/22/2014

『家庭内別居』から『離婚同居』へ


友人のご両親はもう随分昔に離婚したにかかわらず、持ち家のしがらみでずっと一緒に暮らしている。彼女の父親は相当に頑固らしく、友人が日本帰国当時同居していたときには本当にしんどかったとこぼしていた。そんなご両親は家を半分こにして住み分けている訳でもなく、夕方になるとぶちぶち文句をいう父親に母親が連れ添って夕食の買い物にでかけるのだそうだ。父親と一緒の生活はストレスが溜まって可哀想だから、と友人姉妹は年に2度ほどカリフォルニアに母親を長期滞在させている。まぁ、母親自身も仕事や地域のコミュニティの役割がありそうそう長居もできないということで、ひと月ほどでアメリカ生活を満喫して日本に帰国する。

仲良しのやっさんは、白人のアメリカ人女性と結婚し離婚した。離婚した当時は当然のように別れて暮らしていたけれど、今現在は元嫁と同じ家に住んでいる。ルームメイトで苦労したやっさんが、どうせ一緒に住むのだったら気心しれている元嫁の方が気が楽という理由だ。生活自体はとても穏便にいっているらしい。絶対自分の付き合っている女性を家に連れ込んだり、そういう話をしたりしないのは、一緒に暮らすうえでのマナーだということだ。

離婚をしますと報告を入れた私に、たまに会う友人が「今どこに住んでいるの?」と気にして「まだそのまま同じ生活してる」と返すと驚かれるが、最近になって、離婚をした夫婦が一緒に住んでいる状態がどういう理由であるかを、自身の経験で理解することになった。

元々私の結婚生活というものは、他から見れば『普通じゃない』レベルであるのかもしれないし、又は人は言わないけれど、そう珍しいものでもないのかもしれない。長い結婚生活のサバイバルの為に、ある程度の心の段階をふまえて最終的に自身に『自由恋愛』を許し、夫を『それでも家族である』というところに落ち着けていた。

「そういえば、雅って結婚してたんだよね」

私の破廉恥なエンターテインに笑う女やおかま友達がときどき思い出したように言うけれど、「自分のこと独身だと思ってるでしょ?」と言われるほどの気持ちは持っていない。どんなに自由に見えても、やっぱり私の中でのモラルはあるし、気遣いもある。その気遣いを踏みにじられるような発言が夫からあるときのみ、私はキレるのかもしれない。

歳が離れているし長いセックスレスから、夫が自分の父親のような存在になってきていた。歳をとる毎にその頑固さが増して来ていたけれど、それがここ数年酷くなってきた。彼は機嫌を悪くすることで私に『制裁』を与えていたのかもしれない。何を言っても満足してもらえない、追い込まれるような嫌味が続いて私が根をあげたけれど、私の精神に異常をきたすまで、彼は自分の言動に自覚がなかった

「私の父は母から世話してもらわないと生活できないくせに、そんな母をなじって生きている」

私が夫のことをこぼした時に、そういうことを話してくれた別の女友達もいたけれど、元来男というのは歳をとる毎に子供のように退化していくというのだろうか。

そうは言っても、すべて『個人の観点によるそれぞれの宇宙』であるから、夫からのストーリーを聞けば、私は多分に最低最悪の女房であり、彼はそんな私にじっと耐えているお人好しの立派な夫という図ができあがっているのだとを想像して、ときどき一人で苦笑している。全ての人は自分の立場を正当化し、被害者の存在にするのが常であるし、自分もそうしていることは否定しない。

『結婚とは何か』を議論したり考えたりしても始まらない。突き詰めて行けば『個人の資産を共用するという契約』でしかないし、そこに発生する男女間の互いに対する期待はまったくとして違っていたりするから、その都度その都度確認していくしかない。それを「こんなことされた。ねぇ、酷いと思わない?」と他人に同調を求めたとしても、それは多分にその場限りのストレス発散の愚痴でしかなく、他人ではなく自身の伴侶そのものに尋ねなければならないこと。でも、あえてそれを選択しない人が殆どだろう。

個人的な主観では、日本人女性は宗教的概念に囚われない為に外に解決策を求め、それを上手に割り切ることができるのではないかと思う。日本にいるときに、流れるラジオが『既婚者のための出会い系』で日本人女性の登録が一番多いと言っていてふぅんと思った。30代の独身の友人が合コンに誘われて出かけてみたら、そこに来ていた女性達が皆綺麗な裕福な奥様たちだった、と言う。そして「結婚ってなんだろう」とチャットでつぶやくのだ。





最近SHOW TIMEチャンネルで始まった『The Affair』というシリーズが面白い。夫が「凄く良いリビューだから一緒に視よう」と声をかけてきて『Homeland』と共に毎週一緒に視ることになった。まだエピソード2しか視ていないから、ストーリーがどういうものかさっぱり解らないでいる。プレビューでは激しいセックスシーンを全面に出していたので、夫と一緒に視るのはちょっと居心地が悪いかしらと思っていたのだけれど、どうやら事件に関わった人の証言による再現シーンで成り立っている話らしい。

一話が二つのパートに別れていて、既婚者同士の出逢いの男側のストーリーと女側のストーリーが語られる。事実は微妙に食い違っている。「出会いは遠い日だからよく覚えていないけれど…」と言いつつ、語られる事実は両方とも二人の関わりの中で相手の方が積極的で自分が被害者であるような流れになっている。極めて興味深い。私が大好きな黒澤監督の『羅生門』と同じだ。視る人でそこに起きたストーリーはまるで違っているのだ。




数年前に激しい言い争いをしたときに、とつとつと私が結婚生活の不満を語ったら、夫はたいそうに驚いて「まったく驚きだ。俺はお前にとって最大のヘルプをしていたベストな夫だし、俺の方が被害者だと思っていた」と言ったことがあるが、ひとつの空間に二つの脳が存在する以上、同じ経験をしているようでも実はまったくとしてそうでないということに気づかされた。だからあえて「それが違う」とは言い切らない。相手の『感情から起こる経験』は否定できない。

私たちはお互いに『理想的な夫婦像』を相手に期待し、それが得られないことでストレスを感じつつも離婚を現実的と考えず『みぬふり』をしてその場をしのぎ『仮面夫婦』で過ごして来た。その緊張が張りつめるときと、緩むときがあり、その案配の中で「これも悪くないかも」と自分を納得させて来た。それが、火山のようにいきなり噴火して溶岩がどろどろと流れ出して来たのだ。

『離婚』という流れに至って、噴火が治まり溶岩も冷えて固まってしまうと、不思議な安堵が生まれた。『理想的な夫婦像』に対する期待がもう持てないとなったら、後はお互いが嫌な思いをしないように同じ屋根の下に住む敬意とマナーを持つ。もちろん、それはそれ以前からもあったけれど、深層心理でそう納得せざる終えないから、決して『我慢』している訳ではない。そういう抑圧はないのだと思う。

家の中のあっちとこっちで寝室も食事も別だった『家庭内別居』は、いまや『離婚同居』と姿を変えた。離婚してしまえば、もう干渉の余地はないと悟った私たちは、なんと『最高のルームメイト』と化したのだ。それでも私は心のどこかで「もう一度、ちゃんと恋愛をして人生の伴侶を得たい」という希望は持っている。この状態で生活していたら、そういうプロセスが難しくなるからやっぱり家を出ようかという気にもなるのだけれど、どのみち夫がもうすぐリタイアしてどこかの白人リタイアメントコミュニティに引っ越すことになれば、そのときがタイミングなのだろうな、と割とのんびりしている。

ひとつずつ財産分与の法的な手続きを済ませて行く。先日は離婚したら消滅することになる『Trust(信託)』を作った弁護士に会いに行った。

「で、今日は何の御用事で?」
「私たちは離婚することになったのでTrustをどうしたらよいものかと」
「は? 離婚??」
「何か?」
「いや、とても仲が良さそうで、離婚をするカップルに見えないものですから…」
「ニコニコ離婚です。まだ友達ですから」

メディエイターという離婚の手続きをする弁護士と同じ反応が返って来てにやりとした。

少なくとも夫は、他人の離婚劇から聞こえるような醜い制裁を加えるような男ではなく、この離婚を機会にして、彼の意識にポジティヴな『何か』が戻って来たような感じがする。

ホスピスのボランティアをすることで、年老いた夫に対する心構えを身につけようと思った私の行動は、逆に「世の中の年寄りというのは、こうやって立派に社会に貢献し、ひとりで生活を続けられるものなのだ」という自分の中に存在していた『離婚の罪悪感』をぬぐい去ってしまった。そして更なる夫の『寄りかかりの精神』が目に余る結果になってしまった。

認知症とまではいかないけれど仕事以外に考えることをやめてしまい「 どうせ俺はすぐ死ぬからそのへんに転がしておけばいい」と無責任な言葉だけで将来のことを誤摩化してまるでボケがはいってるのかと私を不安にさせるだけの言動があった夫だった。それが今はしゃんとし、改めて財産の管理や自身の仕事のリタイアメント、将来のプラン等に手をつけ始めてくれたのは本当にありがたいことだった。彼の中に危機感が生まれたことで、律された生活になった。それもやっぱり『今』でよかったのだと思わされる。うやむやなまま突然彼に何かあったとしたら、20年もの馬鹿嫁をやっていた私は、きっと途方にくれていたに違いない。

舞い上がった感情は沈静化し、そして去年の冬以前の状況にまた戻りつつある。夫は近所のDや他の女友達と直りしてまた遊びに出歩くようになったし、私もそれを知っても気持ちは害さない。一度築かれた関係はそう簡単に消滅することもなく、逆にDがいるからこそ私は安心して離婚出来る。多分別れて暮らすようになっても、彼が病気になったら『父親を見舞う娘』くらいの立場で彼を訪れたり、ホスピス患者に接すると同様に彼にも接するようになるのではないか、そんな予感を持ちながら同居しているここ最近だ。










10/21/2014

『サレンダー』のむずかしさ


ハワイ滞在後の体調不調に加えて、精神的な行き詰まりを意識していた。現状を知らぬままハワイに移住する気持ち満々だったので、理想と現実のギャップで意をそがれ、計画が狂い放心していた。夫に「お前、この先どうすんだよ?」とせっつかれようものなら「具合が悪いんだからプレッシャー与えないでよ!」と、(`Д´) クワッと噛み付き返す自分もいた。ま、夫も穏やかなもので特に私を家から追い出そうとしてる訳でもないから、そのままうやむやにして家でだらだら過ごしていたけれど『結果がでない』ということに、まんじりした焦りみたいなものも感じ始めていた。

離婚騒動が起きてから、もう随分時間が経っている。別に誰かと出逢ってしまいその男と一緒になりたいからという理由があった訳でもなく、ただ滅多にしない喧嘩で噴火してしまったらそのままお互い離婚の方向に進んだ、という『流れ』だった。実家から戻って来た春に淡々と離婚に向けての手続きが始まり現在に至っている。

お互いせっつくこともなく、精神的に負担のあまりないゆっくりとした離婚のプロセスが進んでいるけれど、ここに来て『先の見えない不安』に取り憑かれた感じがした。

確かに去年の暮れから実家に戻る前は濁流にもまれていたという感じで身体を壊すくらいだった。ところが、ハワイをぼんやり考えていたらおかま君からの誘いがあり、シンクロが起きて「あぁ、ハワイに呼ばれているんだな」という感じを得て安心していた。そして滞在の後、ゆったりと『流されてきた』その流れが、ぴたっと止まってしまったかのような状態になった

川の流れが、まるで平坦な入り江のようなところにはまってしまったようで、まさに浮かんでいる木の葉のような自分はゆっくりとくるくると回っているという状態だ。




これを停滞期とでも呼んだらいいのだろうか。

特に何もかもがうまくいかないとかそういう気持ちではないのだけれど、『指針』が見えない。心をじっと澄ませてみても『お告げ』もないし、メッセージを受け取る『シンクロ』も起こらない。これが減量ダイエットなら、体重計の数値がぴたりと止まり動きがまったくないという感じでもあるかもしれない。

こういうとき、「何かを見つけなくては」という気持ちになってじたばたしやすい。無理に可能性のある方向を見つけてみようとかしてとにかく行動を起こしたりしやすい私なのだけれど、それをあえて起こさないようにするのにちょっとした葛藤があった。

『あらがわない』というのは、まさにこのようなことなのだろうけれど、「なんかな〜」という感じでまんじりとしない時間を過ごすのは容易いことではないのだ。

夫の顔も見たくないとか、顔を合わせれば喧嘩とか、むかつくとか、この土地にいたくないから家を出たいとか、そういうネガティヴな感情もそう起こらない。それどころか、私は今何ものにも縛られない自由な身分であり、自分の選択で今この時期この家に住んでいる。自分の選択だから誰の何のせいにもできない『自分の時間と場所』だ。

そういった意味では、ハワイ滞在後しばらく私は今までにない幸福感というか満足感を得ていたかもしれない。この土地の『恵み』を再認識し、夫の仕事を理由にして住んでいたその状態とはまったく違う『自由意志』のもとでこの土地に留まっていたからだ。でも、その幸福感が焦燥感に変わるまでそう長くはなかった。「本当に離婚するのか、離婚していいのか」などという声を脳裏に聞くようになると、後は混乱に突入しそうになり思わず思考のブレーキを踏んでしまう。




「いろんな選択種はあるけれど、私はあえて『何もしない』という手段を敢えて『選択』しているんです」

もう随分昔になるのだけれど、付き合っていた男性の不満をこんこんと打ち明けていた女友達がそう言い切ったときに驚いたことを思い出す。行動派の私にとったらそれは随分消極的な生き方であるし、いわば『ずるい生き方』かのようにも感じられた。

でもそれは一種の『サレンダー』の生き方なのかな、と思ったりもする。全ては自分原因説。彼女はそのときに『何もしない』ということを能動的に選択したのであって、それで結果を相手の責任にするつもりはないだろう。たとえ、結果が自分の納得できるものではなかったときに、後悔という感情に襲われるかどうかは謎として。

『流されて生きる』ということが習慣のようになり、疑問さえももたず考えずで毎日を淡々と生活するのがディフォルトになっている人も多くいる。多分そういう人は自分の求めているものさえも解らなかったりする。解ってはいても『しょうがない』『仕方がない』という言葉は自分のエゴを鎮める実に日本らしい便利な言葉で、それを利用することによって『行動を起こす』ことを回避している旨もある。

その『消極的な生き方』と『サレンダーの生き方』の違いはどこにあるといったら、やっぱりシンクロを見極め、その時がきたらさくっと行動に移せることなのだと思う。運に身を委ね、力を抜いてただ流される。その先には自分が想像もしていなかった未来があり、それは間違いなく光の世界であると信じるしかない




自分という個人が思いつくことなんて限界があり、たかが知れている。そんな限りある思考で未来を設計するより、思い切って宇宙に身を任せ、落ちてくる機会を拾って流されていき『展開する人生』を客観的にみつめる方がどれだけエキサイティングかもしれないのに、ときどきその信念がブレそうになるのだな。

『サレンダー』でいるのも決して容易くないと実感していた最近、次にどんな機会が落ちて来るのかしら?と思ったら、おかま君とのLas Vegasの旅行だった。特に行きたいという訳でもなかったけど、拾うに越したことはないと先週出かけてきて、相変わらず馬鹿やって笑って帰って来たわ。

人生楽しむが勝ち。



おかまに風呂場覗かれて「きゃっ!」
…いつまでやってんだよ、こんなこと





10/20/2014

更年期、侮るなサプリメント


やっとのことで、ハワイ滞在記を完了させた。ハワイから帰って来たのは8月末で、ブログを書き始めたのは9月の頭からだから、なんと一月半もかけて書いていたことになる。2013年の3月にブエノスアイレスに出かけたときはいろんな視点からの想い出を残してみた。旅の記録を書くということは余韻を充分に楽しめる『一粒で二度美味しいグリコ』みたいな醍醐味があるということも知った。

それでまた今回のハワイもそうしようと試みたにも関わらず、なんだかやけに長くなってしまい、正直自分でも途中で疲れてしまったほどだ。どうにか意地で最後まで書いたという感じもある。読んでいる方にとっても同様ではないかと懸念するので、おつきあい下さった方々には感謝の念をお伝えしたい。




ハワイでの経験はともかく、今現在の雅はどこで何をしているのかという問いには、まだサンフランシスコベイエリアで、今までと特に変わらぬ淡々とした生活を送っているとだけ伝えておく。まぁ、夫婦生活、恋愛についてはまた後ほど触れることにして、ダンスとレイキ、ホスピスボランティアと友人たちとの戯れ、というリズムある生活には変りがない。

ハワイから帰って来て、直ぐにダンカンダンスのセメスターが始まり、先日のファイナルで創作ダンスを発表するまでは、あまり深く未来のことなど考えずにダンスだけに没頭しようと決めて日々を暮らしていた。しかし、ベイエリアに戻って来て間もなくえらい体調を崩してしまって、更年期症状が勃発して9月はほとんど不調を意識しながらのダンスクラス通いだった。

最初はハワイの旅の疲れが出たのかと思っていたのだけれど、やがてそれが激しいホットフラッシュの連続だったり関節痛だったりしたので、いろいろと考えてみたところ、毎日きちんととっていたサプリメント『命の母A』を切らしたせいだという考えに辿り着いた。




私は普段からいろいろなサプリメントを症状に合わせて人体実験よろしく自分の身体で試している。中には効果があるのかないのか解らないままに「アンチエイジングのため」と摂取し続けているのもあるし、効果を感じず自然にやめてしまったのもある。旅にでるときに面倒なのが、その数種のサプリメントの朝と夜の飲み分けなのだけれど、ボトル全部を持っていくこともできないので、小さなビニール袋に小分けして旅にでる。ハワイ2週間分の朝と夜の分の量は大変だったので、「どうせ気休めサプリ」と一日一回にはしょった。そして、その袋詰めをしているときに『命の母A』がきれかけていたのに気づき、あぁこれで最後だわ、くらいの軽い気持ちでいた。

このサプリを初めて購入したのは2、3年前くらいだろうか。ブログ読者の方がコメント欄で教えてくれて、日本に帰国の時に思い出して買う程度だった。今年3月に実家に戻った時は、一番最初にしたことが近所の薬局スーパーにでかけ、普段飲んでいるサプリメントを現地購入することだった。あの当時は離婚騒動で激やせになり健康を損ねていたけれど、母親の愛情こもった質素な規則正しい食事と家族の愛で、2週間もしないうちにどんどん健康状態は良くなりすっかり元気になれた。

あの時、毎食後に律儀にサプリを飲んでいる私を見て母親が驚いていたけれど、事実それに効果があったかどうかは確証がなかった。多分に自己満足に過ぎないという気持ちもあったと思う。

ハワイで『命の母A』を切らして、特に深く考えもしないで2週間程、いきなりホットフラッシュが始まり、ほてりで寝苦しい夜が毎日続いたので本当に辛かった。睡眠不足で疲れてふらふらだったし、ダンスのクラスも思っていた回数を取れなかった。運動で汗をかいて疲れば眠れるだろうと思ったのに、それでもやっぱり暑く寝苦しい中、睡眠は浅い。仕方なく母親にSOSを出し『命の母A』を購入してもらい、姪にアメリカに送ってもらうように頼んだけれど、それが届くまでもさらに2週間を要した。

サプリメントの効果はそう直ぐに現れるわけではなく、飲み始めて更なる2週間ほどでやっと落ち着いてきたという感じだっただろう。今でもごく軽いホットフラッシュは時々起こるけれど、以前のような毎晩の寝苦しさはもう感じていない。随分楽になったとは思う。関節痛はまだ残っている。一時はすっかり忘れていたことなのに、また手の指の関節が痛みだして来て、物を取り落とすという現象が頻繁に起こったりしている。





『命の母A』の成分はこちらで見ることができる。生薬が沢山!

ピンクの『命の母A』は40〜50代女性の更年期障害の為のサプリだけれど、生理の症状で苦しんでいる20〜30代女性のための『命の母ホワイト』というのもある。多分に私のこれだけの改善を与えてくれてるのだから、ホワイトも効果大だと思う。毎月生理で辛い思いをしている女性に是非トライしていただきたい。




『普通』の状態でいるとき、サプリメントの効果をすっかり忘れている。効果があることを忘れて『気休め』で飲んでいるような気にもさせられるのだけれど、切らして初めて解る効果なので、認識するのは難しい。そして、切らしてからも症状がでるまでに、そして再度飲み始めて改善するまでには2、3週間を要するので、本当に時間の無駄というか『侮ってはいけない』サプリメントなのだな、と痛感する。

そんな訳でハワイ後から現在までは、『ハワイ旅行記』を書いて気を紛らわせながら不調と闘っていたという感じのひと月半でした。はい。





10/18/2014

恋はハワイの風に乗って 完結編


翌朝、やっさんとほーちゃん、あられの3人は朝9時前にはもうチェックアウトしてしまっていた。残りはチェックアウトの前に朝食へと降りてみたけれど、予約をしていなかったためにどこでも待ち時間が長くてアウトだった。どうしようと放心した私たちに、おかまくんが「部屋でラーメン作ってあげる」と言い、まさかと思ったら本当に卵入りの味噌ラーメンがでてきたので驚いた。鍋をダイニングテーブルの真ん中に鎮座させ、釜揚げうどんのようにボウルにすくいあげて食べた時には大笑いしてしまった。ハワイのディズニーリゾートの朝とは思えない光景だった。

チェックアウトは朝10時と早く、私たちはとりあえず荷物をクラークに預け、やりこ親子が空港に発つまでロビーで過ごした。いつのまにかぬりこがロングアイランドアイスティーのボトルを購入し、それを瓶から直飲みして朝から酔っぱらっていた。ぬりこはシラフの時には上品ぶっていて、ときどき私がレストランでエロ話に花を咲かせていると下品だと嫌がるくせに、酔っぱらうといきなり体育会系の男になって荒れる。今回も一緒にいるのが恥ずかしいくらいで、さすがのやりこの息子も抱きつかれて「酒臭い〜」と嫌がっていた。ロングアイランドアイスティーとは名前だけで、カクテルそのものは確かワインと同じくらいのアルコール度だと思う。

やりこ親子が去り、プールサイドのカフェに移動してそこで酒を飲み始め、そしてぬりこも本物のパイナップルをくり抜いた容器のカクテルを抱えてホテルを発った。本当に『嵐が去った』という感じだった。




おかま君と私とようちゃんは、チェックアウトをしたにもかかわらず、夜まで丸一日リゾートで過ごす。サンフランシスコ行きのフライトは10:50pmというぎりぎりまで時間を使えるスケジュールにした。タオルをゲットして「さぁて」とプールを楽しもうとしたけれど、昼近いその時間ではプールサイドのチェアーの空きを見つけることは不可能だった。一応『一時間リミットポリシー』とやらを念を押されたけれど、それを守っている人なんていないんじゃないかと思う。

仕方がないのでビーチにでたけれど、空いているビーチチェアーは炎天下でそれもまた不可能だった。それで椰子の木陰にタオルを直に敷いてくつろぐことにした。周りは空いていてなかなか乙な環境だ。直ぐ隣にあるチャペル前のビーチでは、式を終えた日本人カップルが写真撮影をしている。炎天下の撮影も大変だなぁと思いながら見ていたけれど、ふと気づくと次から次へとカップルが変わってゆく。そういえば、ウエディングプランナーが、一時間刻みで式が行なわれるとか言っていた。多くの人々がハワイのウエディングを夢見るのだと。

椰子の木陰でのんびり過ごすリゾートは最高だった。

「あぁ、本当にこれが『楽園』なのねぇ〜」

ようちゃんが遠目に海を見つめて呟やく。今回彼女とじっくりといろいろ人生のことを話した。外資で働く42歳独身は、けっこうな悩みがある。もう結婚を諦めてマンション購入を決めているのだそうだ。

そんな矢先に、はんこと盛り顔の女がワイキキからやってくることになった。登場した二人はビーチが似合うセクシードレスだったけれど、何故かバッグはヴィトンヴェルニだ。到着するや否や酒をいくつも購入して飲み始める。相も変わらず『盛り顔』がこき落とされる会話が続く。

「いや〜ん、おまこさん、セクシー!」

何気に転がっていたら、盛り顔が私のポーズがセクシーだとおだて始めた。

「あんた、さげまんになってんじゃないわよ!おまこ見習いなさい。このヲンナあげまんなのよ!せっかくだから、おまこのあげまんを拝んで帰りなさい!!」

そう、おかま君が盛り顔に命令すると、ノリの良い盛り顔が私の背後から拝みのポーズに入った。



コミックアプリで遊んでみました


でも、マンを拝むというより尻に拝んでいるという感じだったので「んじゃ、せっかくだから」と、私も悪ノリしてくるりと向きを変え、ぱかっと開脚をしてみせた。すかさずおかま君が写真を撮る。



これぞ私のマンパワー!

さすがにこんな写真をネット公開したらどこに流れて行くか解んないものね



私ったらなんてヲンナ。撮った写真を見て爆笑の私たちだったけれど、確かにまぁこんなことする機会なんて滅多にないし、こんなポーズの自身を目にすることもなかった。後ほどグループLINEに写真をあげたら、あそこの脱毛をするさっぱり顔の女子が「アジア人のわりには、股間が黒ずんでなくて綺麗ですね。珍しいですよ」というコメントをしていた。そう言われて、スマホで拡大して見てみたけれど、確かに私の股間はふつうに真っ白に綺麗だ。黒ずみって長年下着のゴムが当たったりするとできるとか聞いたこともあるように思えたけれど、昔から緩いThongだけをはいてきたということも、こういう結果に影響するのだろうかと考えた。いずれにせよ、今まで気づかなかった自身を知った瞬間だった。




目の前のビーチにグループがやってきてセッティングをし、小物を使ったブートキャンプのようなゲームが始まっていた。それを眺めていたおかま君がいきなり「さぁ、ガールズ、はりきっていくわよ!おまこ、写真撮って!」と、そこに置いてあったパイナップルの小物をいきなり盗み取ってビーチに走り出す。女子達も素早くそれに続いた。コーチのお兄ちゃんはあっけにとられてぽかーんとして彼らを眺め、私は「すみませんねぇ」みたいな困り笑顔でおかま君を追った。パパラッチのように速攻で写真を撮ると、おかま君が走り出しパイナップルをまた元に戻す。その瞬間芸はあっという間だったので、コーチのお兄ちゃんも苦笑いで何も言わずに終った。本当におかま君って凄い。



盛り顔、おかま君、はんこ




そんなこんなのうちに時間になり、はんこと盛り顔はワイキキに帰って行った。おかま君は送りがてらに彼女達に小さなミッキーを思い出にと買ってあげたらしい。

チェックアウトしたゲストは特別なカードキーを貰ってシャワーとロッカールームを使用することができるのだけど、その場所を見つけるのにとても迷った。なんとなくわざと解りにくくしているような気がしないでもない、とようちゃんが言う。その場所は本当に小さくて特別な所だったから。最後の晩餐をしていたときに、チャーからテキストが入った。サンセットの写真と共に「これを一緒に見ているのかな」とあったけれど、実際バタバタしていて逃していた。

「なんだか長いハワイ滞在だったなぁ。私、ここに着いたときは友人を亡くしたばかりで凄く落ちてたんだよね。それもいつの間にか思い出さなくなっていた。ハワイで癒されてよかったわ〜」

タクシーで空港に向かいながら、そう思わず呟いた私だった。

「おまこちゃん、そんなことあったんだ〜。離婚もそうだし、大変だよね。実はね、あられも元気にしていたけれど身内の不幸があったの。あのまま家にいたら落ち込むからって、わざとハワイに来ることにしたんだって。みんな人生いろいろあるよね〜」

そうだったのか。ひょうひょうとしていたあられだったけれど、一言もそんな話はでてこなかった。




飛行機の予約は別にしていたので席は離れていた。サンフランシスコ空港に到着したのは朝の7時半。夕べ珍しくも夫から「迎えに行くから着いたら連絡しなさい」とテキストが入っていたので、へぇっと思った。それで、スーツケースを拾ってテキストしたら、夫はもう外で待っていた。空港に迎えに来てもらうのも久々のことだし、いつもなら連絡してから家を出るような人だったのに。

ようちゃんはハワイに引き続いてサンフランシスコの旅が始まる。お別れを言うまでもなくまたそのうち会うことになるだろう。彼女がトイレに出かけてはいたけれど、そんな訳でおかま君にさよならを言って空港を後にした。

「ハワイはどうだった?」
「う〜〜〜〜〜ん、あそこはバケーションででかけるから良いのであって、住む所ではないのかも…」

夫の質問に、私はためらいがちに言葉を返す。

「ふむ…そうか」

それを聞いた彼は短い言葉を返して来ただけだった。が、それがどこか安堵感を伴うような声色に聞こえた。

クルマの窓を開ける。早朝のサンフランシスコの空気は温かくでも乾いていて、とてつもなく爽やかだった。

(完)



ビーチからの眺め






10/12/2014

恋はハワイの風に乗って 21


「うっひょ〜! まずはスライダーだわよ!」

まだ30そこそこのおげげのぬりこは、グループの中でやりこの子供の次に若い。こういう場所に来て一番にはしゃぎ行動の早い彼を追い掛けて私も続く。浮き輪のボートをわしづかみにして敷地の中心にある人造山の階段を上り、列に続くとそこには二つのスライダーの入り口があった。

浮き輪にはシングルとダブルの二種類があり、スライダーで降りた後はそのまま敷地内を流れる川のようにプールをゆったりと一周出来る。確かにディズニーランドのアトラクションのような楽しさを満喫できるものだ。もう一つは身体ひとつで滑り落ちるスライダー。最後まで真っ暗闇の中を凄い勢いで滑り落ちるそれは、ボブスレーのように身体がチューブの中のカーブで真横まで傾いてしまう勢い。流れる水の量が多いせいか、身体が摩擦で痛いとかそういうものは感じない。その体験は、ディズニーランドのアトラクション『スペースマウンテン』の身体篇という感じだろうか。

私たちが遊び始めたときには、もう夕方だったのでプールから上がれば少し肌寒かった。そんな中、うろうろしていたら温水ジャクジーを発見。そこは大人用と子供用と別れていて、その大人用は海辺を見下ろす滝が付いた二段階のナイスなロケーションだ。

「うわぁあああああ、なんて気持ちがいいのぉう!」

そう、喘ぎながら温水の中で身体を身悶えさせる。すでにもう日が暮れかけていて、遠目にオレンジ色のサンセットが椰子の木のシルエットを浮かび上がらせている。信じられないくらい美しかった。

それをじっと見守りながら、この2週間のオアフ滞在を振り返る。一人で過ごしたワイキキ、チャーとの出逢い、島巡りの冒険、テスと過ごしたカハラハウスの日々、目眩がするようなヒートと午後に吹く貿易風、昔からの仲間と過ごした日々、おかま君の事件やはんこのマリッジブルーと結婚式、とても濃い日々だった。

どんな切ない表情でサンセットに見入っていた私だったのだろう、隣にいたやっさんが「雅ちゃん、何考えてるの?」とちょっと心配したような声色で声をかけてきた。

「ん…いや、とても綺麗だなと思って」

全てがパーフェクトな設定になっている。人々が声高く叫ぶオアフの魅力というのはこれなのだ、と改めて認識した。外の世界の醜さを排除し、ひたすらリゾート地で『非日常』を体験する。それが提供できる自然がそこにある。これこそが『正当派ハワイの楽しみ方』なのだ、と。ハワイのサンセットは相当にロマンチックだ。ハネムーンを盛り上げるには最高のセッティングだし、カップルはこの思い出を永遠に刻み込むのだろう。

ワイキキでは水着を着ていなかったおかま君も、さすがにディズニーではちゃっかり水着を用意して遊んでいた。しかし、薔薇は服を脱ぐこともなくその辺をぶらぶらして写真を撮っているばかりだった。

「薔薇さん、なんでプールに入らないんだろう?」
「ん〜、なんか胸毛があって恥ずかしいんだって」
「は?外国に来て何言ってるの?そんなつまんないこと」
「そうなのよ〜。自意識過剰なのよね。でも、それでも楽しいんだって。みんなが楽しんでいるのを見ているだけで幸せなんだってよ」
「なんか、薔薇さんらしいよねぇ〜」

大手に勤めていて給料もいいし、言葉少ないし相手が楽しければ幸せなんて、それこそ結婚には最高の男なんだろうけれど、それでも嫁に浮気されて離婚したのが2年前。そういえば、やっさんも白人女性と結婚して離婚してるし、やりこもシングルマザー、そして私も離婚の最中。おい、離婚組多いぞ。




ディナーの予約時間から計算して、部屋に戻りシャワーを浴びずに着替えだけしてダイニングに向かうようにと、ほーちゃんからお達しがあり私たちはそれに従った。かわりばんこにシャワーを浴びていたら到底間に合うような時間ではない。

部屋でさっさっと身支度を整えて皆を待っていたら、着替えて現れたほーちゃんをみて、ようちゃんが「何それ!!」と思わず叫んだ。

「え、え、ダメ?これ、ダサイ?ダメ〜? だってぇ、買ってまだ着てなかったし、シーズン終っちゃうし〜。やっぱ、ダメだったかしら〜」

そう、ほーちゃんが身体をくねらせて焦った声を出した。彼女が着ていたのは、袖無しのトップとカプリパンツのアンサンブルだったのだけれど、何故か黄色地に花柄のプリントだったのだ。

「う〜ん、ヨーロッパのお金持ちマダムのバカンススタイルをイメージしたんだよね」
「そう!そうなのよ!!」

そう私がフォローしたら、ほーちゃんが嬉しそうに言い、直ぐに立ち直って先に立って歩き出した。

「私って、ほんとビッチだわ〜。びっくりして『何それ!』とか言っちゃうって酷いと思わない?でもさぁ、あれはないよね。まるでパジャマかと思っちゃった」

そうようちゃんが私と並んで歩きながらくくっと笑いながらまだ一人でウケていた。まぁ、そのくらい言い切れちゃうような仲だと理解するしかない。




一時は自炊するかという案もでたけれど、買い出しの場所を検索してみたら遠くて不便だったので、お一人様45ドルチャージされるバイキングで諦めることにした。ところが、行ってみたら生牡蠣や茹で蟹、お刺身等が食べ放題だし、メニューも充実していたので、結局は沢山食べることができるなら安上がりなのだ、ということで皆満足していた

ウエイターは9人分のチェックを別にしてくれたし、サービスもディズニーらしく満点だ。

「うわぁ、楽しい。やっぱり来るって決心してよかった。ようちゃん、やりこ、私をプッシュしてくれてありがとうね。本当に着てよかったよ」
「そうよ〜、私もおまこが来てくれて嬉しいわ〜。こんなこと滅多にないことだもの」

私はみんなで囲む食事が大好きだ。ベイエリアでは人の家に集まってのポットラックパーティは日常茶飯事だけれど、南国のリゾート地でなんてあり得ない。

「そういえばねぇ、さっきちょっと話した白人のおじさんがいたんだけど、私たちが古い友達10人で来てるって言ったら『君たちはとてもラッキーで幸せ者だね。大人になったらそういうことって本当にむずかしいことなんだよ』って驚かれたわ」

そうようちゃんが続ける。

あのね、『行けない』っていう理由を考えたらいくらでも出て来るの。そう考えて諦めるのは容易いのよ。でも、それでも来たの。そうしようと思えばできることなのよ!

3人の子持ちで、それこそ凄いスケジュールの中で働いているのであろうほーちゃんがそう力説した。彼女は勤める会社全部の支社で一番の売り上げを記録したことのあるセールウーマンだということをようちゃんから聞いている。そのときにすかさずおかま君が「枕営業よ」とフォローしたのには笑ったけれど。

周りの席の人々がいなくなりレストランがクローズされる時間まで私たちは居座っていた。ようちゃんとあられがまだ足りないビールを追加注文して部屋に持ち帰りたがったけれど、ルームサービスがあるかもしれないという希望をもって最終的に重い尻を持ち上げた。部屋でそれが可能だと解った彼女達は心を躍らせ、チップを合わせていくらになるだろうと相談しながらお互いの現金を広げていた。「やだなぁ、私たちドラッグディーラーみたい」とようちゃんが自嘲したのには笑った。




とっとと湯船に浸かっている私に気遣うほーちゃんに「気にしないから入ってきてシンク使っていいよ」と彼女を促す。

「や〜、さすがおまこね。私なんて恥ずかしくて裸見せられない」と褒められてるのか呆れられているのか解らなかったけれど、温泉のある日本人にそう言われる方が逆に不思議な気がした。

みんなが気にしていた私の『駒2』の男は、何度か「仕事が大変」とうだうだしたテキストを送りつけて来て、さくっとミーティングが決まらずにまた流れた。一晩だけしか泊まらないと告げているにもかかわらず、明後日だったら都合が良いとか言ってくるコミュニケーションが取れない男だし、夜遅くになってからやっと会えるようなことを知らせて来たけれど、面倒になったのでやっぱりもうスルーすることにした。

早々に「何時に下のバーで会おう」とか言って姿を現す男だったらよかったのに。そしたら更なる展開があったのかもしれないけれど、3度目の正直で自分とは縁のない男なのだと知らされたようなもの。男はそこから10分の距離に住んでいるというのに、だ。

ホテルのベッドはとても寝心地がよかった。ようちゃん、ほーちゃん、あられはまだまだビールを飲みながらダイニングテーブルで語り合っているようだったけれど。その横で、やっさんとぬりこはリビングに広げたソファベッドで早々に熟睡モードだった。



夜のプール
ジャクジーから見えるビーチのサンセット



10/10/2014

恋はハワイの風に乗って 20


日本の出雲大社がそうであるかは知らないけれど、オアフの出雲大社でお守りを購入した際に、三角に折り畳まれた紙に包まれたお清めされた米粒をおまけで頂いた。『blessed rice』と書いてあるそれは、ご飯を炊く際に混ぜて頂くとご利益があるというもの。

白人であるチャーにお守りとそれを渡したらどう思われるかなとか懸念したけれど、彼はとても感動してくれた。

「この滞在中にお泊まりしてみて、一緒に寝て眠れるかどうか試してみたかったけれど、その機会がなくなっちゃった」

そう告げたら、彼はさほど残念そうでもなく「君がハワイに引っ越してきたらいくらでもチャンスがあるさ」と笑った。

「うん、その引っ越しだけれどね、多分に私、それはないと思う…」

チャーの顔が曇る。私はダイニングテーブルに落ち着き淡々と話し始めた。

「オアフに住むのはなんか違うかな、って思えたのが結果かしら。みんながいいっていうハワイだからどれだけいいのかって思ったけれど、それはバケーションだからそう思うんであって住む場所じゃないかも、って。経験を積む度にサンフランシスコベイエリアの方がいいって思ってしまうの。ハワイにあってベイエリアにないものって、遠浅の綺麗なエメラルドグリーンの生暖かい海と湿った生暖かい風くらいで、あとはベイエリアよりも『しょぼいな』と思うばっかりだったのよ。あなたとかなりしんどい山登りも楽しんだけれど、それだってベイエリアにはもっと豊富な自然があるし、それほどの感動ってこともなかった。ハワイだから人々はのんびりしてるのかと思いきや、オアフの人は日本人観光客に疲れている感じで、日本語がきつかった。みんな仕事にすっごく忙しくて…」

チャーのコンドミニアムの15階の窓から遠目に見えるワイキキのビルと海を見ながら、私は続けた。

「日本人多いし、日本食いっぱいあるし、温かいから住みやすいかなとか単純に思ったオアフだったけれど、家は古いし汚いし、物価高いし、交通状況最悪だし、パーキング事情は酷いし、でもホノルル離れたら日本の何もないし。日本食の質だって正直ベイエリアの方がずっといいって恋しく思ってたの」

そこまで一気に言ってからふと気づくと、チャーはいつのまにか放心したような表情をして床に座り込んでいた。彼の手が私の素足を包み、マッサージとまでいかない圧力で足を愛撫している。何故にしてそんな行動をとるのか、私ってまるで女王様じゃないのよ、となんだか妙に切なくなった。

「僕はこの島が好きだけど、君の期待が裏切られたことを残念に思うよ。日本人としてそういう視点があるなんて、僕はこれっぽっちも知らなかった」

重い沈黙が続いた。私にはそれ以上の何も言うことはない。その沈黙をやぶるようにチャーが明るい声で続ける。

「サンフランシスコは遠くないさ。飛行機に乗るだけ。君が望むならいつか会いに行くよ」

それが心からのものかどうか解らないけれど、とりあえずその場をしのげたのでほっとした。結局私は、彼ともっとの時間を過ごすことより、友人達とのディズニーリゾートを選んだ。それだけの関係なのだ。

「これからSmartをリターンしなくちゃいけないし、時間がないの。ごめんね」

チャーがガレージまで送ってくれる。

「ディズニーリゾートは行ったことがないから、是非写真を送ってくれよ。気をつけてね。君と一緒に過ごせて楽しかった」

チャーがおでこにキスをしてくれて、私も慌ただしくクルマを発進させた。別れは意外とあっさりとしていた。




Smart Car Rentalのオーナーは穏やかな性格の小柄な日系人男性で、言葉は少ないれど好感度大だ。Yelpの評価が凄く良いのでここを選んだのもあった。

「へぇ、250マイル近くも走ったんだ。凄いね」

点検を済ませた彼がふふっと笑う。ホテルまでタクシーを呼んでくれるように頼んだら、このままこのクルマで送ってくれるという。意外なサービスに嬉しくなった。

クルマの中でいろいろ話した。彼はハワイ生まれのLA育ちで、成人になってからこの島に戻って来て以来ずっとワイキキに住んでいるらしい。この島が好きだと。日系人として生きるのにLAよりはオアフの方が待遇がいいのかな、とそんなふうに考えているうちにホテルに到着した。タイミングよくやっさんがどこからか戻って来たところに鉢合わせして、男とクルマに乗っている私を発見した彼が驚いた顔を見せた。

「じゃぁ、ディズニーを楽しんで来て」

走り去るSmartを見て「カーレンタルの人なんだ」と、やっさんがちょっと安心した表情で笑う。

薔薇さんがチャーターしたバスが来るまでには間があったけれど、ようちゃんと後から到着した女子二人はしつこくもまたアラモアナにショッピングに出かけているということだった。テキストで連絡したら今から出るという。着くのはバスが出るギリギリの時間っぽい。

チャーからテキストが入る。

『君の赤い小さなクルマが走り去るのを見えなくなるまで見送っていた。もう既に君のことが恋しい』

別れ際はあっさりだったけれど、それなりに切ないメッセージにきゅんとした。

ロビーでバスを待っている間、おげげのぬりこはやりこの5歳の息子を構って幸せそうだった。本当に子供が好きみたいで、いつか養子でも育てそうな勢いだ。

バスが到着して荷物を積み、私たちが乗車して苛つく頃、やっとようちゃんと女子二人が汗だくで到着した。そしてバスがオアフ西部のディズニーリゾートを目指す。総勢10人が乗ったバスは私が土壇場で参加した結果で満席状態だった。みんなの言葉が明るく弾む。私もこういう機会は滅多にないのでどこかくすぐったい気分だった。この気持ちがデジャブーな感じがしたので何かなと思ったら、数年前に実家に里帰りをしたときに、家族総勢10人で鬼怒川温泉旅行に出かけたときのことが思い出された。足が不自由な母はもうそういう旅行には出られない。あれは本当に良い思い出になったのだ。




一時間半ほどくらいだろうか、バスがKo Olinaの名があるゲートに入ると、グリーンで美しく整備されたゴルフリゾートが広がった。そして突然オンラインデートサイトで知り合った、今回の滞在中にデートする筈だった『駒2』のことを思い出した。

「あぁ、そういえば私、2年前にここに家を買ったっていう男とデートする筈だったのよね〜」

そう思わずつぶやいたら「でっ!」と誰かが言い「さすがおまこね」というおかま君の声が後方で上がった。

「で、どうしたのその人?」
「ん〜、なんか縁がない人で、初日にドタキャンされて、2度目のチャンスもキャンセルされた」
「だっさ。スルーした方がいいわよ。そういう男」

そう言ったのは、3人の子持ちでやり手キャリアウーマンの『ほーちゃん』だった。そう言われたにもかかわらず、同時にぺけぺけとテキストを打つ私がいる。予定はしていなかったけれど、彼が住む土地に私はやってきてしまったのだ。知らせない訳にはいかないだろう。




ディズニーリゾートはティキハウスとでも言えばよいだろうか、木造の三角の屋根を意識したデザインで、中に入るなり私たちの心は踊った。着くなり「アロハ〜」と係員からウエルカムのレイを首にかけてもらう。「あぁ、そうよ。これが正しいハワイ到着の気分なのよ」と痛感した。敷地の中心にはいかにもディズニーらしい人造の山があり、その周りに川が流れているかのようなプールのデザインになっている。なんでも、その山のてっぺんからウォータースライダーで滑り降りることができるらしい。

んもう、早く部屋に行って、着替えて飛び出したいくらいなのに、薔薇さんの手続きは気が遠くなるほど時間がかかっていた。私の突然の参加がトラブルなのかと懸念したけれど、別にそうではないらしい。やっと部屋に到着する。二つの部屋に6人と4人とで別れた。私がステイした大きい方の部屋は2bedroom/2bathで、マスターベッドルームのバスタブの横の扉がスライドしてベッドルームから丸見えになるエロい設定。女子がきゃあきゃあと喜ぶ。キッチンはグラナナイトのカウンタートップで冷蔵庫も大きい普通の家のそれと変わらない。これなら夕食は自炊でよいのではないかと誰かが言い出した。

広いお洒落な部屋というのは、それだけで贅沢な気分になる。ペントハウスの時同様、なるほど気の置けない家族のような友人達と旅行するとこういう楽しみがあるのか。

部屋の素晴らしさに興奮してまもなく、今度は荷物がなかなか届かないことに皆が苛つき始めた。水着が中に入っているからどうしようもない。荷物を一時間以上も待たされて、ベルボーイにほーちゃんがキレていた。日本に住んでいる彼女だけれど、その英語のクレームは見事なものだった。

「僕にキレても何にもならないから、フロントに苦情入れるべきだよ」

そう言われて確かにと気持ちを抑え、ちゃんとチップを渡すことも忘れないスマートな彼女だ。後からやってきた女子二人、『ほーちゃん』と『あられ』はようちゃん同様遠い昔にサンフランシスコに住んでいたことがあるという。なるほど、そういう繋がりなのだな。


水着に着替え、いよいよリゾートで遊ぶことになる。いい大人たちが異常に興奮していた。




入って直ぐ見える敷地

集合!でも薔薇さんは受け付け




10/08/2014

恋はハワイの風に乗って 19


結婚式が行なわれるWaialae Country Clubはカハラハウスから歩いて行ける距離だけれど、ドレス姿で汗をかきたくなかったのでSmartで出かけることにした。

「あそこのパーキングは高いから、手前の公園に停めた方がいいわよ」というテスのアドバイスに従ったのに、日曜のその日はそこも一杯だった。仕方がないのでカントリークラブに停めようかと出たら、路駐ができる小さいスペースが空いていた。もちろん、Smartだから可能な小さな小さなスペースだったのだけれど、思わず自分の『パーキング運』を思い出して笑ってしまう。

幾度となく参列したアメリカの結婚式は毎回良い気持ちにさせてもらえる。日本での結婚式への参列といったら、確かOLをしていたときの同僚と、後は従兄弟や姪のそれしか記憶がない。結婚式の招待状を貰ったことは何度かあったけれど、全く疎通がなかった旧友からいきなり結婚式の招待状を送りつけられると面食らう。日本の結婚式の退屈さ、そしてお祝い金が経済的に痛いことから、貧乏時代の自分は疑問を感じつつ義理で出かけるなどということもしなかった。そういうところでは割と冷淡なのかもしれない。

はんこの結婚式はアメリカのトラディショナルなそれと日本のそれをちょっと合わせたような形にしていた。アメリカのそれでは確かキャンドルサービスなんて見たこともなかったことだし。夕方の斜めの光を浴びながらのガーデンでの人前婚は本当にお洒落で、シャボン玉や薔薇の花びらが美しく舞った。ロマンチックなそれに、日本から駆けつけていたさっぱり顔と盛り顔の女達は、この結婚式を本当に羨ましく思っていたようだ。

そろそろレセプションの会場に移動というころになって、おげげのぬりこが「酷い〜、誰も起こしてくれなかったわ」と大騒ぎしてやってきた。起こしてくれなかったって、もう夕方なのに。昨日も今日も式を逃した彼は一体何しに来たというのか。「腹へったわ。待ちきれないわ」って言って、彼は引き出物のきんつばをがさがさ開けて食べていた。本当にがさつなおかまだ。

はんこは式に登場したときからずっと子供のような笑顔で、心から喜んでいることは間違いないようだった。あれほどのマリッジブルーも、いざ式を済ませてしまえばもうふっきれたのだと思う。後は自分が幸せになるために一日一日を過ごすしかない。彼女はそれができる女性だ。

レセプションでのお決まりの花嫁と父親のダンスのときは、何故かしら泣けて泣けてしかたがない私がいた。今はもう亡き父とそういう機会を是非持ちたかったものだと痛感した。父親と踊るってどんな気持ちなんだろう、と。

総勢160人の招待客と、贅沢にセットされたガーデンの挙式場のセット、レセプションのマントルピースで豪勢に使われた薔薇の花の量を思うと目眩がしそうな感じだったけれど、花婿の器量を思えば容易いことだったのかもしれない。帰ろうとしてパーキングを横切ったときに、超高級車が沢山並んでいたので納得した。花婿はフェラーリを所有しているとのことだったし。




結婚式のイベントは翌日更に続き、今度は花婿の父親が日本人の参加客を彼が所属するヨットクラブでのブランチでもてなしてくれた。昨日帰り際にいきなりはんこからそう告げられ「アウトリガーでね」と言われた言葉だけが頭に残り、ワイキキのアウトリガーホテルを目指したけれど誰もいないので変だと思ってテキストを確認したら、まったく違う場所だったので焦った。最近本当にこういう自身の勘違いと詰めの甘さでの失敗が目立つ。以前はそういう自分ではなかったので、これも歳なのかなぁと、本当に情けなくなる。

なんとなく察していたので、かっちりしたコットンのサマードレスにシャネル引っさげで出かけてみたら難なくパスできたけれど、おかま君はゲイ丸出しの肌が大きく露出したVネックTシャツで出向いて入場拒否されたらしい。花婿のお父さんが出て来て入れたみたいだったけれど、花嫁もとんでもない友人を持ったと思われたことだろうに。




「ねぇ、おまこの行くんでしょ?ディズニーリゾート」
「え、私、行かないわよ」
「嘘、やだ!おまこ行くんだと思ってた。ねぇ、行こうよ、折角だもの行こうよ!」

贅沢な種類のバイキングで丸テーブルを囲んでブランチをしていたら、やりこがそう迫ってくる。

先日ようちゃんとワイキキビーチでまったりしていたときにも、同様に突っ込まれた。私には身の覚えがないことで、おかま君がハワイに来る少し前に「ディズニーリゾートにいくの」と言ってきたのだった。私と彼は夜遅くの帰りのフライトを合わせておいたのに、いきなり彼がそう言って来たので困惑した。最終日が別行動になるのだったら、フライトまでの時間をどう過ごしたら良いのものだろうか、と。

「やだ、おまこがメンバーに入ってるのだと思ってた。確か薔薇さんのリストに入ってたと思ったけれど。あれ、私の勘違い?あれ?あれ?」
「そんなの聞いてないし。私、最終日までカハラハウスの部屋借りてるし」
「なんかさぁ、薔薇さんって言葉少ないから計画立てるのもひと苦労なのよね。やだ、どうしよう!」
「ようちゃんが困る事ないし。とにかく薔薇さんが来てから悩もうよ」
「そうか。そうよね」

そんな会話があったのだけれど、結局薔薇がやってきたら私は人数分に入っていないとのことだった。それでようちゃんが一人追加できるのかと突っ込んだのだけれど、薔薇の返事がはっきりしない。

「行って入れないってことになったら嫌だから行かない」

そう言い切った私なのだけれど、このブランチで再度やりこが食い下がってくる。やりこが薔薇さんに突っ込むと、今度は「う〜ん、多分大丈夫かと思いますけれど…」と言葉が重い。

おかま君も「よく解んないのよ」と言うばかりだったので、呆れた私は最終日はチャーと過ごせばよいと思っていた。なんだったらフライトを早い時間に変更してもいいし、カハラハウスはもう支払済だったけれど、彼が望めばチャーのところにお泊まりをしてもよいかも、とも思っていた。旅の最後にこの男との成り行きがどうなるのか見極めてみたいところもあったのだ。

「子供一人入ってますから、どうにかなると思いますよ」
「ほら!おまこ、行こう!」

そう薔薇が言い、やり子が自信たっぷりに言い、そこまで言われると私も行かねばならぬような気持ちになってきた。

「本当?これで入れなかったら怒るわよ。やだ、どうしよう?えっと、じゃぁ、今から帰って荷造りしなくちゃ!3時集合ね?」

そうと決めたらもたもたしてられない。なんてハプニングだ!私は慌てて席を立った。




「いきなりだけど、私、チェックアウトするわ。話の流れで友人達と今晩はディズニーリゾートに泊まることになったの。テス、今晩は私のベッドで眠れるわよ!」

カハラハウスにはゲストが増えていた。テスは自分の寝室を宿泊客に明け渡すので、今晩はリビングのソファで寝ると言っていた。

「へぇ、いいわね。私、まだ行ったことないのよ。あなた、ずっと忙しくしてたけど、最後まで本当にアクティヴだわね。でも、時々一緒に過ごした時間は楽しかったわ。keep in touch.ハワイに移住することになったら連絡してね」

最後がバタバタで申し訳ない気もしたけれど、気さくな古い友人かのように会話ができたテスの家の滞在はそれなりに居心地がよかった。蚊さえいなければ最高だったよね。

焦る心を抑えつつ荷造りを済まし、チャーに連絡をとり彼のコンドを目指す。出雲大社で買っておいたお守り、はんこには結婚式で渡せたけれど、チャーの分を渡しておかないといけない。



父親とバージンロードを歩くブライド


10/03/2014

恋はハワイの風に乗って 18


ヘアサロン繋がりのおかま君とやりこがはんこのヘアメイクを担当し、昼からカハラの屋敷入りしていた。私は5時半にカハラの会場に出向けば良いだけなので、昼間は余裕で空いている。思いつくところあって、オアフにある出雲大社を目指すことにした。

私が今回こちらに出向く前に、ダンス仲間がオアフに来ていてお土産で出雲大社のお守りを買って来てくれたのに驚いた。出雲大社がハワイにあると? 島巡りをしたときには平等院に立ち寄ったけれど、ならば出雲大社も押さえておかねばならぬ。

Google mapで出雲大社の名前を入れると全然違うところに案内されて迷ってしまった。それであえてサーチしてみたら、ワンブロック程違うところの住所だった。裏手に駐車場もあるし便利だけれど、エネルギー的には結界も特に感じられなかった。ウィキペディアで調べた時に『もやもやさまぁ〜ず2』の関わりが記されていて、なるほどお守りを買いに社務所に入ってみたら、神社のイメージまるで崩れる大きなポスターが中に貼ってあった。ま、神様とカジュアルに接するっていうのも悪くないのかもしれないし、なにしろこうして異国の地でお務めをしてくださってるのだから本当にありがたいことだ。

はんこに縁結びの、チャーに健康祈願のお守りを購入後、チャイナタウンに立ち寄ってみることにした。

何の前情報もなく、適当な駐車場にSmartを突っ込みあてもなく歩いてみる。見た事もないような不思議フルーツを買ってみる。お腹が空いていたので飲茶レストラン『Fook Lam』に向かって歩いてみたけれどなかなか見つからず、仕方がないので途中にあるカフェでパールティーを購入してカウンターのお兄ちゃんに訪ねてみた。とても丁寧に教えてもらえた。

レストランの入り口は運河側にあった。私が持ち込んだパールティーを嫌がるでもなく、中国人の従業員たちはとても雰囲気が良かった。私の向かいでは日本人の多分に家族であろう団体6人程が食事をしている。飲茶はやっぱり大人数で食べるのが楽しくいろいろ味わえるところなので羨ましくもあるけれど、どう見えようが、こんなふうに臆せずお一人様の食事ができる自分を誇らしく思った。パールティーを手にぶらぶらと駐車場に戻りながら、心がとても落ち着いていて、且つ静かな興奮を得ている自身に気づく。自分が好きだと思えた。ワイキキの人混みで落ちてカハラの住宅地に戻り、犬の散歩をしたときに感じたそれと同じ心境だった




それからKokoakoを通過しながら、海際を適当にドライブする。クルマを停めて中に入りはしなかったものの、アロハタワーとか見てみたかったし、気になっていた『Fifty Three by the Sea』の建築物も確認してみたかった。

そしてその途中の路上でショッキングな光景を目にすることになる。道路の端に永遠と続くテントの群れ。それがもちろん普通人のキャンプなどではなく、人の住まいだと気づくのは容易かった。まるでジプシーのように遊ぶ子供達。直ぐそこにはジャガーのディーラーがある、そのコントラストが辛い。

私がオアフに来る前に姐御が私に注意を促していた。

「現地にはね、とても貧しい人たちがいるから。心砕かれないように」

姐御は私のことを良く理解しているな、とその時に思い知らされた。これだけ世界中から観光客が訪れお金が島に落ちているというのに、住人には還元されず、それどころかおかげでどんどん土地の値が上がり、もともと島にいた人たちがホームレスになる。なんて皮肉なことなのだろう

さっきまでの一人探索の興奮が冷め、テントの光景が脳裏に焼き付き心が沈んだ。




私は過去幾度となくホームレスについて記事を書いている。何故か無視出来ない心の痛みを覚えてしまうし、人として扱いたい、助けたい、という気持ちが募る。サンフランシスコ市内に出かけるときは、手元に直ぐ取り出せる1ドル札があり、信号待ちで停まった際にホームレスがいれば、お金や食べ物を差し出し「Take care!」と声をかけている。それが偽善であるか正しいかどうかは別として、そうすることで気がすむ自分がいるからしている。

しかし、それが気になったのでリサーチしてみたところ、意外なことが判明した。ホノルルのホームレス達は、もともと島にいた住民だけでなく、なんとアメリカ本土から片道航空券で流れて来た人間も多いのだそうだ。現在6000人以上のホームレスがいる。確かに冬に凍死することもない、観光客が多いからおこぼれにも預かれるしビーチにはシャワーもある最高のパラダイス。ホノルルはなんとアメリカのホームレスの『最終地点』らしい。

ハワイ州はこのホームレスの流れ者たちにほとほと困り果てて、いろいろ対策を練ってシェルターなどや精神科医からの無料の薬などを提供しているけれど、ホームレスはいわば自由を愛する人種、規則があるシェルターなんかに入りたくない。外の方が気持ちがいいし、何不自由することがないのだ。困り果てたハワイ州が、他の州に身寄りがあるホームレスに片道空港券をあげ島から追い出すこともトライしてみたけれど、人々からの反対がありそれは打ち切られたようだ。

確かにワイキキでホームレスが目立っていたのには気づいていた。バス停の近くにたむろしているイッチャッタおばちゃん、ビーチでシャワーをしつこく浴びていたおっさんたちはどうみたってホームレスだった。更にリサーチしてみれば、バスに乗り込んだホームレスの異臭に参った住人のクレーム、公共のトイレを使わずバス停の隣でいきなりパンツを下げ脱糞してしまうホームレスに怒りを表す人々、その被害は同情を買う以上のものらしい。

確かにホームレスも年期の入った者になると、もうドラッグ漬けで人間を捨てているレベル、いわばゾンビ状態になっているのも少なくない。そういう人々がバス停の近くや公園にたむろしている。『ホームレスを助けようと声をあげる人々は、ホームレスの被害がない高級住宅街の住人であって、ワイキキ住人は凄い被害にあっている。もし、ホームレスが彼らの家のドアの前に脱糞していたら、そんな悠長なことは言っていないだろう』という意見もあったけれど、それを読んで私の目が覚めるような思いだった。

なるほどね。私は美しい住宅街に住んでいる身だから、サンフランシスコ市内のホームレスたちを助けたいと思っていたにすぎないのかも、と。過去20年近くの思いがシフトされたような瞬間だった。


https://www.youtube.com/watch?v=ShzqDEAOjdA


びびなびに寄せられた現地でのホームレスクレーム