11/18/2015

完璧な日々


鶏の鳴き声はもはやホワイトノイズになった。聞こえてはいるけれど、日常音となって意識に残らない。虫やカエルの音も同様、ときおり起こる猫の喧嘩の声色にはおもわずニヤついてしまう。日が暮れるとプールで遊ぶ隣の家の子友達の声も近所のバリ人の話し声も、意味がわからないからただの生活音に過ぎなく、気になることもない。


朝方の鶏の鳴き声がうるさくて眠れないというほどでもないけれど、それでもなんとなく意識が戻るとベッドから起きようという気になる。大体6時半から7時くらいというところ。サンフランシスコにいるときは、ねぼすけの私でたいがいに9時半以降が自然な起床時間だけれど、この『夏休みの朝』の気候だと、早朝の空気の新鮮さを味わいたい気にさせられる。

ベッドメイキングをした後、瞑想を何気に始めたらあっという間に一時間が過ぎて驚いた。

日本スーパーから買ってきておいた、簡易ドリップ式のコーヒーにココナッツオイルを垂らして飲むのがここでの習慣になった。この際だからミルクなしのコーヒーに慣れることにする。未だにスーパーに出かけてない。それでもどうにかなっているのが不思議。




田舎の細い路地を歩いてヨガのクラスに向かう。ヨガプラナーラという聞きなれないクラスを取ってみたら、自分の好みにぴったりあった。自身の内部の深いところにたどり着けるリラックスしたクラスだ。毎回不思議にこみ上げあげてくるものがある。エンシニタスで雨の日にたった一人でクラスをとったときもそうだったけれど、ヨガで深いところにたどり着くと涙が自然に溢れてくる。音楽と目の前に広がる景色のせいかもしれないけれど、インストラクターの紹介で彼女が自身をヒーラーと語っているところから、彼女自身のエナジーのせいなのだろう。ヨガはアサナだけでなく、インストラクションが全てかもしれない。

静かな田舎道をのんびり歩いて、日替わりでところどころのワルンで食事をし、ラップトップと向かい合い長い時間を過ごす。じんわりと浮き上がる汗も心地よい風にすぐ乾く。ときおりスクリーンから目を外して、自分を囲む環境をぼんやりと眺める。亜熱帯植物の緑は深く、花は美しい色彩を放ち、虫や小さな鳥が飛び交う。猫が普通にテーブルの上を通り過ぎてゆく。壁にはイモリやトカゲが這いつくばっている。ありがたいことに、蚊に刺されるのはほんのたまにしかない。

大きな生ココナッツのジュースを時間をかけて完飲し、お尻が痛くなった頃部屋を目指してまた歩き出す。インドでもそうだったけれど、現地の人は日よけに帽子というものを被らない。もっとも、外での労働者は傘のような帽子を被っているけれど、普段用なものではなさそう。それでインド人の女性のようにショールを頭から被って歩いていたけれど、ある日白人男性が普通に折りたたみの傘をさして歩いているのを目にしたので、そうだよね、と思い、田園の道を歩くときには日傘をさして歩いてみた。カリフォルニアにいたときにはそんなことをしたことがなかったけど、前回日本に帰国したときに雨と日傘の両方で使えるものを買ってみた。日傘とは趣があるもので、個人的にはなんとなく昭和の女性を思い出される。母親の若い頃の時代とかぶるのかもしれない。多分に極めて日本的なものだと思う。




ステイ先の近所のスパで予約を入れ部屋に戻る。安価なのでいろいろ試してみたくなる。細い路地を歩いているとすれ違う人々は笑顔で挨拶をしてくれる。フローラル系のお香の香が漂ってくる。供物の小さなバスケットに花が各家の軒先に置かれている。象の顔をした神様ガネーシャのをあちこちで見かける。ブーゲンビリアがヘリコニアが路地に彩りを加えている。気だるく平和で時が止まった感じ。癒しというのはこういう環境だったのか、と再確認する思い。

飾り気のないシンプルなバスルームで水シャワーを浴びる。部屋にいるときには下着も身につけずサロンを巻いているだけで過ごす。多分にここでメイクというものをすることもないだろう。日焼け止めを塗るだけで、自身の顔さえここのところろくに鏡で見ていない。




マップに載っていない道を歩いているので、最初自分がどこにいるのか把握するのも苦労した。どうにか周りにある店の名前を照らし合わせ、自分がPenestananという地域にステイしていることを知った。ウブドの中心部はたくさんの洒落た店が溢れかえっていたけれど、わたしにはこの辺りの田んぼや渓谷のジャングルの散歩道をうろつく方が性に合っているような気がする。

飽きたら観光にでも出かければよいと思うけれど、案外こんな日々が続くだけで満足してしまうかもしれない。




ワルンのテーブルの目の前の光景



0 件のコメント:

コメントを投稿