10/22/2014

『家庭内別居』から『離婚同居』へ


友人のご両親はもう随分昔に離婚したにかかわらず、持ち家のしがらみでずっと一緒に暮らしている。彼女の父親は相当に頑固らしく、友人が日本帰国当時同居していたときには本当にしんどかったとこぼしていた。そんなご両親は家を半分こにして住み分けている訳でもなく、夕方になるとぶちぶち文句をいう父親に母親が連れ添って夕食の買い物にでかけるのだそうだ。父親と一緒の生活はストレスが溜まって可哀想だから、と友人姉妹は年に2度ほどカリフォルニアに母親を長期滞在させている。まぁ、母親自身も仕事や地域のコミュニティの役割がありそうそう長居もできないということで、ひと月ほどでアメリカ生活を満喫して日本に帰国する。

仲良しのやっさんは、白人のアメリカ人女性と結婚し離婚した。離婚した当時は当然のように別れて暮らしていたけれど、今現在は元嫁と同じ家に住んでいる。ルームメイトで苦労したやっさんが、どうせ一緒に住むのだったら気心しれている元嫁の方が気が楽という理由だ。生活自体はとても穏便にいっているらしい。絶対自分の付き合っている女性を家に連れ込んだり、そういう話をしたりしないのは、一緒に暮らすうえでのマナーだということだ。

離婚をしますと報告を入れた私に、たまに会う友人が「今どこに住んでいるの?」と気にして「まだそのまま同じ生活してる」と返すと驚かれるが、最近になって、離婚をした夫婦が一緒に住んでいる状態がどういう理由であるかを、自身の経験で理解することになった。

元々私の結婚生活というものは、他から見れば『普通じゃない』レベルであるのかもしれないし、又は人は言わないけれど、そう珍しいものでもないのかもしれない。長い結婚生活のサバイバルの為に、ある程度の心の段階をふまえて最終的に自身に『自由恋愛』を許し、夫を『それでも家族である』というところに落ち着けていた。

「そういえば、雅って結婚してたんだよね」

私の破廉恥なエンターテインに笑う女やおかま友達がときどき思い出したように言うけれど、「自分のこと独身だと思ってるでしょ?」と言われるほどの気持ちは持っていない。どんなに自由に見えても、やっぱり私の中でのモラルはあるし、気遣いもある。その気遣いを踏みにじられるような発言が夫からあるときのみ、私はキレるのかもしれない。

歳が離れているし長いセックスレスから、夫が自分の父親のような存在になってきていた。歳をとる毎にその頑固さが増して来ていたけれど、それがここ数年酷くなってきた。彼は機嫌を悪くすることで私に『制裁』を与えていたのかもしれない。何を言っても満足してもらえない、追い込まれるような嫌味が続いて私が根をあげたけれど、私の精神に異常をきたすまで、彼は自分の言動に自覚がなかった

「私の父は母から世話してもらわないと生活できないくせに、そんな母をなじって生きている」

私が夫のことをこぼした時に、そういうことを話してくれた別の女友達もいたけれど、元来男というのは歳をとる毎に子供のように退化していくというのだろうか。

そうは言っても、すべて『個人の観点によるそれぞれの宇宙』であるから、夫からのストーリーを聞けば、私は多分に最低最悪の女房であり、彼はそんな私にじっと耐えているお人好しの立派な夫という図ができあがっているのだとを想像して、ときどき一人で苦笑している。全ての人は自分の立場を正当化し、被害者の存在にするのが常であるし、自分もそうしていることは否定しない。

『結婚とは何か』を議論したり考えたりしても始まらない。突き詰めて行けば『個人の資産を共用するという契約』でしかないし、そこに発生する男女間の互いに対する期待はまったくとして違っていたりするから、その都度その都度確認していくしかない。それを「こんなことされた。ねぇ、酷いと思わない?」と他人に同調を求めたとしても、それは多分にその場限りのストレス発散の愚痴でしかなく、他人ではなく自身の伴侶そのものに尋ねなければならないこと。でも、あえてそれを選択しない人が殆どだろう。

個人的な主観では、日本人女性は宗教的概念に囚われない為に外に解決策を求め、それを上手に割り切ることができるのではないかと思う。日本にいるときに、流れるラジオが『既婚者のための出会い系』で日本人女性の登録が一番多いと言っていてふぅんと思った。30代の独身の友人が合コンに誘われて出かけてみたら、そこに来ていた女性達が皆綺麗な裕福な奥様たちだった、と言う。そして「結婚ってなんだろう」とチャットでつぶやくのだ。





最近SHOW TIMEチャンネルで始まった『The Affair』というシリーズが面白い。夫が「凄く良いリビューだから一緒に視よう」と声をかけてきて『Homeland』と共に毎週一緒に視ることになった。まだエピソード2しか視ていないから、ストーリーがどういうものかさっぱり解らないでいる。プレビューでは激しいセックスシーンを全面に出していたので、夫と一緒に視るのはちょっと居心地が悪いかしらと思っていたのだけれど、どうやら事件に関わった人の証言による再現シーンで成り立っている話らしい。

一話が二つのパートに別れていて、既婚者同士の出逢いの男側のストーリーと女側のストーリーが語られる。事実は微妙に食い違っている。「出会いは遠い日だからよく覚えていないけれど…」と言いつつ、語られる事実は両方とも二人の関わりの中で相手の方が積極的で自分が被害者であるような流れになっている。極めて興味深い。私が大好きな黒澤監督の『羅生門』と同じだ。視る人でそこに起きたストーリーはまるで違っているのだ。




数年前に激しい言い争いをしたときに、とつとつと私が結婚生活の不満を語ったら、夫はたいそうに驚いて「まったく驚きだ。俺はお前にとって最大のヘルプをしていたベストな夫だし、俺の方が被害者だと思っていた」と言ったことがあるが、ひとつの空間に二つの脳が存在する以上、同じ経験をしているようでも実はまったくとしてそうでないということに気づかされた。だからあえて「それが違う」とは言い切らない。相手の『感情から起こる経験』は否定できない。

私たちはお互いに『理想的な夫婦像』を相手に期待し、それが得られないことでストレスを感じつつも離婚を現実的と考えず『みぬふり』をしてその場をしのぎ『仮面夫婦』で過ごして来た。その緊張が張りつめるときと、緩むときがあり、その案配の中で「これも悪くないかも」と自分を納得させて来た。それが、火山のようにいきなり噴火して溶岩がどろどろと流れ出して来たのだ。

『離婚』という流れに至って、噴火が治まり溶岩も冷えて固まってしまうと、不思議な安堵が生まれた。『理想的な夫婦像』に対する期待がもう持てないとなったら、後はお互いが嫌な思いをしないように同じ屋根の下に住む敬意とマナーを持つ。もちろん、それはそれ以前からもあったけれど、深層心理でそう納得せざる終えないから、決して『我慢』している訳ではない。そういう抑圧はないのだと思う。

家の中のあっちとこっちで寝室も食事も別だった『家庭内別居』は、いまや『離婚同居』と姿を変えた。離婚してしまえば、もう干渉の余地はないと悟った私たちは、なんと『最高のルームメイト』と化したのだ。それでも私は心のどこかで「もう一度、ちゃんと恋愛をして人生の伴侶を得たい」という希望は持っている。この状態で生活していたら、そういうプロセスが難しくなるからやっぱり家を出ようかという気にもなるのだけれど、どのみち夫がもうすぐリタイアしてどこかの白人リタイアメントコミュニティに引っ越すことになれば、そのときがタイミングなのだろうな、と割とのんびりしている。

ひとつずつ財産分与の法的な手続きを済ませて行く。先日は離婚したら消滅することになる『Trust(信託)』を作った弁護士に会いに行った。

「で、今日は何の御用事で?」
「私たちは離婚することになったのでTrustをどうしたらよいものかと」
「は? 離婚??」
「何か?」
「いや、とても仲が良さそうで、離婚をするカップルに見えないものですから…」
「ニコニコ離婚です。まだ友達ですから」

メディエイターという離婚の手続きをする弁護士と同じ反応が返って来てにやりとした。

少なくとも夫は、他人の離婚劇から聞こえるような醜い制裁を加えるような男ではなく、この離婚を機会にして、彼の意識にポジティヴな『何か』が戻って来たような感じがする。

ホスピスのボランティアをすることで、年老いた夫に対する心構えを身につけようと思った私の行動は、逆に「世の中の年寄りというのは、こうやって立派に社会に貢献し、ひとりで生活を続けられるものなのだ」という自分の中に存在していた『離婚の罪悪感』をぬぐい去ってしまった。そして更なる夫の『寄りかかりの精神』が目に余る結果になってしまった。

認知症とまではいかないけれど仕事以外に考えることをやめてしまい「 どうせ俺はすぐ死ぬからそのへんに転がしておけばいい」と無責任な言葉だけで将来のことを誤摩化してまるでボケがはいってるのかと私を不安にさせるだけの言動があった夫だった。それが今はしゃんとし、改めて財産の管理や自身の仕事のリタイアメント、将来のプラン等に手をつけ始めてくれたのは本当にありがたいことだった。彼の中に危機感が生まれたことで、律された生活になった。それもやっぱり『今』でよかったのだと思わされる。うやむやなまま突然彼に何かあったとしたら、20年もの馬鹿嫁をやっていた私は、きっと途方にくれていたに違いない。

舞い上がった感情は沈静化し、そして去年の冬以前の状況にまた戻りつつある。夫は近所のDや他の女友達と直りしてまた遊びに出歩くようになったし、私もそれを知っても気持ちは害さない。一度築かれた関係はそう簡単に消滅することもなく、逆にDがいるからこそ私は安心して離婚出来る。多分別れて暮らすようになっても、彼が病気になったら『父親を見舞う娘』くらいの立場で彼を訪れたり、ホスピス患者に接すると同様に彼にも接するようになるのではないか、そんな予感を持ちながら同居しているここ最近だ。










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