10/21/2014

『サレンダー』のむずかしさ


ハワイ滞在後の体調不調に加えて、精神的な行き詰まりを意識していた。現状を知らぬままハワイに移住する気持ち満々だったので、理想と現実のギャップで意をそがれ、計画が狂い放心していた。夫に「お前、この先どうすんだよ?」とせっつかれようものなら「具合が悪いんだからプレッシャー与えないでよ!」と、(`Д´) クワッと噛み付き返す自分もいた。ま、夫も穏やかなもので特に私を家から追い出そうとしてる訳でもないから、そのままうやむやにして家でだらだら過ごしていたけれど『結果がでない』ということに、まんじりした焦りみたいなものも感じ始めていた。

離婚騒動が起きてから、もう随分時間が経っている。別に誰かと出逢ってしまいその男と一緒になりたいからという理由があった訳でもなく、ただ滅多にしない喧嘩で噴火してしまったらそのままお互い離婚の方向に進んだ、という『流れ』だった。実家から戻って来た春に淡々と離婚に向けての手続きが始まり現在に至っている。

お互いせっつくこともなく、精神的に負担のあまりないゆっくりとした離婚のプロセスが進んでいるけれど、ここに来て『先の見えない不安』に取り憑かれた感じがした。

確かに去年の暮れから実家に戻る前は濁流にもまれていたという感じで身体を壊すくらいだった。ところが、ハワイをぼんやり考えていたらおかま君からの誘いがあり、シンクロが起きて「あぁ、ハワイに呼ばれているんだな」という感じを得て安心していた。そして滞在の後、ゆったりと『流されてきた』その流れが、ぴたっと止まってしまったかのような状態になった

川の流れが、まるで平坦な入り江のようなところにはまってしまったようで、まさに浮かんでいる木の葉のような自分はゆっくりとくるくると回っているという状態だ。




これを停滞期とでも呼んだらいいのだろうか。

特に何もかもがうまくいかないとかそういう気持ちではないのだけれど、『指針』が見えない。心をじっと澄ませてみても『お告げ』もないし、メッセージを受け取る『シンクロ』も起こらない。これが減量ダイエットなら、体重計の数値がぴたりと止まり動きがまったくないという感じでもあるかもしれない。

こういうとき、「何かを見つけなくては」という気持ちになってじたばたしやすい。無理に可能性のある方向を見つけてみようとかしてとにかく行動を起こしたりしやすい私なのだけれど、それをあえて起こさないようにするのにちょっとした葛藤があった。

『あらがわない』というのは、まさにこのようなことなのだろうけれど、「なんかな〜」という感じでまんじりとしない時間を過ごすのは容易いことではないのだ。

夫の顔も見たくないとか、顔を合わせれば喧嘩とか、むかつくとか、この土地にいたくないから家を出たいとか、そういうネガティヴな感情もそう起こらない。それどころか、私は今何ものにも縛られない自由な身分であり、自分の選択で今この時期この家に住んでいる。自分の選択だから誰の何のせいにもできない『自分の時間と場所』だ。

そういった意味では、ハワイ滞在後しばらく私は今までにない幸福感というか満足感を得ていたかもしれない。この土地の『恵み』を再認識し、夫の仕事を理由にして住んでいたその状態とはまったく違う『自由意志』のもとでこの土地に留まっていたからだ。でも、その幸福感が焦燥感に変わるまでそう長くはなかった。「本当に離婚するのか、離婚していいのか」などという声を脳裏に聞くようになると、後は混乱に突入しそうになり思わず思考のブレーキを踏んでしまう。




「いろんな選択種はあるけれど、私はあえて『何もしない』という手段を敢えて『選択』しているんです」

もう随分昔になるのだけれど、付き合っていた男性の不満をこんこんと打ち明けていた女友達がそう言い切ったときに驚いたことを思い出す。行動派の私にとったらそれは随分消極的な生き方であるし、いわば『ずるい生き方』かのようにも感じられた。

でもそれは一種の『サレンダー』の生き方なのかな、と思ったりもする。全ては自分原因説。彼女はそのときに『何もしない』ということを能動的に選択したのであって、それで結果を相手の責任にするつもりはないだろう。たとえ、結果が自分の納得できるものではなかったときに、後悔という感情に襲われるかどうかは謎として。

『流されて生きる』ということが習慣のようになり、疑問さえももたず考えずで毎日を淡々と生活するのがディフォルトになっている人も多くいる。多分そういう人は自分の求めているものさえも解らなかったりする。解ってはいても『しょうがない』『仕方がない』という言葉は自分のエゴを鎮める実に日本らしい便利な言葉で、それを利用することによって『行動を起こす』ことを回避している旨もある。

その『消極的な生き方』と『サレンダーの生き方』の違いはどこにあるといったら、やっぱりシンクロを見極め、その時がきたらさくっと行動に移せることなのだと思う。運に身を委ね、力を抜いてただ流される。その先には自分が想像もしていなかった未来があり、それは間違いなく光の世界であると信じるしかない




自分という個人が思いつくことなんて限界があり、たかが知れている。そんな限りある思考で未来を設計するより、思い切って宇宙に身を任せ、落ちてくる機会を拾って流されていき『展開する人生』を客観的にみつめる方がどれだけエキサイティングかもしれないのに、ときどきその信念がブレそうになるのだな。

『サレンダー』でいるのも決して容易くないと実感していた最近、次にどんな機会が落ちて来るのかしら?と思ったら、おかま君とのLas Vegasの旅行だった。特に行きたいという訳でもなかったけど、拾うに越したことはないと先週出かけてきて、相変わらず馬鹿やって笑って帰って来たわ。

人生楽しむが勝ち。



おかまに風呂場覗かれて「きゃっ!」
…いつまでやってんだよ、こんなこと





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