4/29/2014

幸せの青い鳥


7週間。2ヶ月弱の日本は実家での滞在は長過ぎるかなとか思えたけれど、過ぎてしまえばあっという間だった。それは私だけの感覚ではなく、母も長女姉もあっけらかんとしてそう告げて来たのでそうなのだと思う。Benjamin Franklinのクオートで『guests like fish begin to smell after three days』というのがある。(家の客は長居されるとうざくなる)というのがあったけれど、帰国する前はそんなことをちょっと心配した。

「雅ちゃんは私たちに遠慮しすぎです。辛い時に頼られるのは家族として嬉しい。直ぐに帰ってきて」

そう、長女姉に促されてやっと帰国を早める事を決心したけれど、本当にそうしてよかったと思える。長い間の居候を肩身が狭い思いを覚えさせられることなく毎日は笑いに溢れ、義兄とも以前にも増した親しみを感じる会話がもてた。家に居て母と一緒の時間も充分に取れたし、レイキを施すこともした。




人生の大きな変化を迎えているのは私だけではなかった。義兄は私が着いたその翌日から職場が変わり、その環境、通勤、勤務時間の変化で毎日疲れまくっていた。同じ会社ではあっても59歳にしていきなり仕事が変わるというのは容易いことではない。そして、その変化は家事を受け持っていた母にもしわ寄せが来て、リズムが狂い母も膝の痛みと疲れを訴え始めていた。それが、まだ仕事を続けている長女姉に仕事を辞めて家に入るようにとのプレッシャーがかかり、ある種の緊張感が生まれていた。

私の目の前で母と長女姉の口論が起きる。「どうせ私が辞めればいいことなんでしょ!」と叫んで家を飛び出した長女姉のキレ方はまるで高校生なみだと思わされたくらいだった。そして、翌日まで持ち越された彼女の憤りは、それを諭した私に声にならない悲鳴と嗚咽で噴火した。

「本当にもう嫌!私の人生って何?長女なんてまったくいいことない!長女なんて!」
「! …ごめん、お姉ちゃん、ごめん。そうだよね、お姉ちゃんの気持ち、理解してなかった。ごめんね」

母の支配下で一生を過ごして来た姉。ふと愚痴をこぼしたとき、親からの援助を一切受けなかった次女姉は「それが長女の運命よ」と冷たく言い放ったという。そして、奔放の限りをつくした三女から偉そうに諭されて、追いつめられた長女姉が生まれて始めて崩れた瞬間だった。震える彼女の肩を抱いて謝りながら、私は本当にすまない気持ちにさせられた。『自由』も『自信』も感じたことがなかった長女姉。そして私の自由は彼女の犠牲の上に成り立っている部分もある。

「ごめんなさい。こんな風に悲鳴を上げて泣いたことなんて生まれて始めてよ。多分、震災からのストレスがたまっていたのだと思う」

義兄の会社は震災以降大きく傾いていた。一時はたっぷり退職金をもらって老後も安泰だと思っていた期待が裏切られ、減給されて不安も募っていたのだと思う。しかし、それについて義兄や長女姉から嘆かれたことは一度もなかった。長女姉が仕事を辞めるということは、彼女の分の稼ぎが減るだけでなく、母と義兄と彼女が家にいて顔を突き合わせる毎日というのを想像するだけで憂鬱になるというのも、たしかに頷ける理由だった。

彼女の悲鳴と嗚咽は階上にいた義兄に届いていたらしい。私と長女姉が話し合い、その後義兄が長女姉を問いただし、前向きな解決策が提示された。義兄が早期退職をして母に変わって家事を受け持ち、老いた母は隠居。その彼が再就職をしたあかつきには長女姉もきっぱり仕事を辞めて家に入るということだった。

「凄いじゃない、お義兄さん、本当にそんなこと言ったの?」
「うん。前にちらっと調理学校にでも通おうかとか言ってたときもあったのよね」

私は義兄をとても尊敬する。婿養子として実家に入って来たばかりのときには、無口で暗い感じがしたし、家族ともあまり交流を持とうともしていなかったのだけれど、父が死んだ後からそれがだんだん変わって来た。なんといってもありがたいのが、毎月父の墓参りを欠かすことなくどんなに寒い日でも素手で墓を拭いてくれる。それは母も頭が上がらないほどに感謝している。そして、前回の私の帰国から感じられて来たのは、歳をとる程に彼の性格が柔らかく明るくなり、表情が豊かになったということ。飼い猫のラグドールの『あずき』は母だけでなく、義兄の雰囲気さえも大きく変えた。

「雅ちゃんがいてくれてよかった。雅ちゃんがいなかったら、自分の中に閉じ込めて悶々とするだけで前向きな解決策なんて生み出せなかったと思う」

そう言う翌日の長女姉は少し晴れやかになっていた。私の前で思いっきり感情を出してくれた彼女に感謝する。彼女にはそれが必用だった。義兄が物わかりの良い人だということも彼女を大きく救っていると思う。




イタリアンファミリーのような大家族の楽しい食事風景に憧れていた。「今度結婚する人は、そんなことが実現出来る人がいいなぁ」なんて友人に話していたこともあるけれど、皮肉にもそれが自身の実家で経験するとは思ってもみなかった。笑いに溢れる仲の良い家族。憧れていたものを探し求めて国外に飛び出したけれど、結局渇望していたのものを実家で見つけた私だったのだ。『幸せの青い鳥』は家に居た。




「帰る家がない」

夫と喧嘩をして離婚話がでるたびに、私はそう思わされていた。帰る家を失わされた恨みを母に対して長い間抱えてきた。母を恨む『心の陰』が私のアイデンティティーにさえなっていたような人生だった。それがここ数年の間にまるで氷解するかのように黒い固まりが消えて行く。その度に私は更に自由を幸せを感じていった。そしてそれに反比例するかのように、夫との仲は静かに崩壊していくようだった。

「こんなことを言うと不謹慎かもしれないが、君がそんな目にあって俺はとても嬉しいんだよ」

私が次女姉と喧嘩し、母と揉め、『家との断絶』を決意した時、夫は微笑みながらそう言った遠い昔を今更のように思い出す。信じられないことかもしれないけれど、確かに夫はそう言ったのだ。私が完全に自分の手の中に入ったということが嬉しい、と。

私が家族を失うと夫は安心し、私が病気になると彼は優しくなる。そして、私が自身の意見を持つ精神的に独立した女になると彼は生気を失い機嫌が悪くなり、家族と復縁するとどことなく不安になる。一緒に暮らしていると近すぎて見えないものがある。そして、気持ちを離してじっくり考えてみるとどことなく『病んでいる関係』を感じさせられる。この7週間の別離の間、残念ながら私は彼を一度として恋しいと思ったことはなかった。二年前の帰国には気持ちを入れ替えて「もう一度トライしたい」と決心してアメリカに戻った私だったけれど、今回は気持ちがどんどん固まっていく。やるだけのことはやったのだ、と。






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