4/02/2014

母へのギフト


実家を継いでいる長女姉と私は7歳離れている。子供の頃の姉妹の7歳差は、まったくとして視線が違い共通点がないので、まるで他人のような疎遠さだった。彼女と私が仲良くなったのは、私が40歳を過ぎて『中年女』の視線が合ったその頃からになる。その点4歳違いの次女姉とは、若い頃はまるで友人同士のような楽しい時間を過ごしていた時期があった。

親の全ての関心と期待は長女姉に集中し、三女の私が家族の中の永遠なるベイビーで甘やかされる中、次女姉は独立した精神で手がかからなかったので『しっかり者』として家族から頼られていると同時に『忘れられた存在』であったとも思う。それ故に次女姉は派手なことは求めず堅実で地味な生活を続け、そんな人生のせいか、もともと悪気はなくとも口が悪く皮肉屋だった。そんな彼女からしてみればさほど努力もせず要領の良い私の奔放な生き方は公正ではないし、私が彼女の反感を買い妬みを受けたとしても不思議ではない。

次女姉は、多分に彼女の結婚生活で満たされていなかっただろうある時期、『人として言ってはいけないこと』を私に言ってしまった。怒った私に「あなたは妹なのだから」という年齢差だけの理屈で私に折れるようにたしなめた母を、当時異国で鬱病に苦しんでいた私は恨んで許すことができなかった。

ふと気づけば、次女姉との確執は15年以上に渡って続いていた。距離があったので、いつしか恨みの感情は消えていたとしてもあえて歩み寄ろうということまではせず、会話はないままに時間だけが過ぎて行った。その私たちの不和が母を悲しませていたのは承知だったけれど、何年かの一度の私の帰国時に次女姉が歩み寄ろうとすれば私がしれっとしていたし、私が歩み寄ろうとした機会には彼女が完全に拒否していて、タイミングは合わずじまいだった。

そんな私が去年の年始に自己啓発セミナー『ランドマーク』を受講した。そこで、『わだかまりのある対象に連絡を取り和解する』という課題に背中を押されて、次女姉に心からの謝罪と和解を求めるメールを出した。返答無しという結果にもかかわらず、それでめげる私であることもなく、3ヶ月後の彼女の誕生日に花を送り、ついに次女姉が素直な喜びの表現のメールを返してくれた。どれだけ私の心が軽くなったことだろう。生きるのがどんどん楽になってゆくことを、しみじみと感じることができた。



次女姉とはその後数回のメールを交換した。あえて母や長女姉の言葉を借りれば、あまりメールを頻繁にする人ではないらしいので、それだけでも上等なことなのだと思う。この春の私の帰国を知って、会えるのを楽しみにしていると伝えてくれた。

先日次女姉が就職が決まった末娘を連れて実家に姿を現した。久々に会う彼女の容姿に大きな変化はなく、口調も変りがなく私の知っている次女姉だったけれど、そんな彼女を眺めているとふと全くとして知らない人のような気さえした。知ってる顔なのに他人のような違和感もある。家族というのは不思議な存在だ。

午前10時に姪が2歳半の息子を連れてやってきて、まもなく埼玉に住む次女姉が娘とやってきた。ダイニングテーブルで菓子をつまみながらお茶を飲み、やがて昼になり大きな寿司桶が二つ届き、そこに甥と義兄が加わり大人数の昼食になる。2歳半の幼児に手をこまねきいつも誰かが声を張り上げている、私が憧れる『大人数の実家の食事風景』だ。

昼食が済めば男達は姿を消し、姪は子守りがいるのを幸いに料理教室に出かけ、会話に飽きた次女姉の娘は母の部屋に姿を消し昼寝をし、ばばあだけが相変わらず座ったままでお茶を飲み茶菓子を頬張り続ける。ばぁの田舎言葉を借りれば『ぶちかったままずっとくっちゃべってる』という状態。幼児は沢山のおばちゃんに遊んでもらって興奮していたけれど、やがて疲れてこたつの横で眠りにおちた。

気づくと母と娘三人のオリジナルメンバーだけで会話をしていた。遠い昔のシチュエーションのままで、父はいつも男ひとり会話に加われずTVを見ている存在だった。そんな父を笑いながらも、私たちは彼をとても愛していた。父は21年前に64歳の若さで亡くなっている。温泉旅行に出かけて、湯船の中ではぁ~っと気持ちよくため息をついた拍子に魂が抜け出てしまった大往生だった。

父の話、親戚の人々の話、私が幼児の頃住んだ家の話、私がまだ生まれる前の話、私たちの遠い記憶を継ぎ合わせて思い出話に花が咲く。楽しかった。母は今までの何時のときよりも嬉しそうな穏やかな笑顔で、ときには軽い興奮と共に話し続けた。他の誰ともできない話。とてもとても貴重な共通の話題と共感。これこそ滅多に味わえない『家族』の醍醐味なのだと痛感した。



実は次女姉が訪れる前の晩遅くに、母が狭心症を起こしていた。夜、こたつで横になっていた母がいきなり胸が痛いと苦しみだし、脈を測ってみたら手首の血管が高く浮かび上がりどくどくと鳴ってはそれが途切れるという不整脈を打っていた。彼女の胸に手をあてレイキをしながら、どのタイミングで救急車を呼ぶのだろうと考えていた私と長女姉だったけれど、小一時間もしないうちに彼女の表情が落ち着き痛みも遠のいて脈も普通に戻ったので、とりあえず様子をみることにしてその晩は寝床についた。それが心筋梗塞が原因なのか、それとも心不全なのか、週末明けに医者に診てもらったものの、そのときに診ないと解らないと医者に言われて物足りなげに帰ってきた母だった。

「私、死ぬのかなと思ったよ。明日お前が久々に来るっていうのに、葬式じゃ困っちゃうな~って」

そう母は笑って次女姉に話し、実際その前に母がとても不吉な夢を見ていたのでかなり緊張したのだと、私がそれに付け足した。

「そう、へんな夢をみたんだよ~。本当にはっきり覚えてるんだけれどね」

なんでも、ばぁの死んだ母親、祖母、そして義母(父の母)が夢に出て来たそうだ。彼女達は夢の中で何も言わなかったという。そして、翌日には死んだ父も夢にでてきたそうだ。その父の夢をみたときに母はトイレを探していて渓谷の下に流れる何処までも澄みきったそれはそれは美しい川を見たという。

「今でも鮮明に覚えているよ。なんたって綺麗なグリーンって言うか碧っていうか。あんな綺麗な水の色を見たことがない。だから、カラーの夢だったんだね。凄〜く深くって、落ちたら死んちゃうなぁって思って覗き込んだのよ。考えてみたら、あれがきっと『三途の川』だったのかも。夢の中であっちに渡っていたら、きっと死んでいたのかもしれない」

母はそれを長女姉に語り、長女姉はそれを私にメールで知らせてきた。アメリカを発つ頃、私は妙な感覚に襲われ、この旅の間に母か夫か私の誰かが亡くなるかもしれないという不吉な予感を感じていたから、今回の母の事件を経験したときに、静かな覚悟みたいなものを抱かされた。やっぱり、85歳の母がいつ逝ってしまっても不思議ではないのだ、と。久々に思い出す親戚の名をあげても「もうとっくに死んちゃったよぉ」という言葉が母の口から出てくるばかり。親戚の多くも、いつしかこの世を去っていた。

できれば今回の帰国時に母と娘三人で温泉旅行にでかけたかった。しかし、母はもう旅行が楽しめるほどの脚は持っていないし、温めると痛みが激しくなるという残念な症状なので、普通なら年寄りが癒される温泉も、彼女はもう楽しむことができない。家の中では休み休み家事をしているものの、新しい眼鏡を作る為にショッピングセンターに連れ出してみれば、歩行器を押しながらの外出はやっぱり不便で辛そうだった。精神的にはとても元気だけれど、母の足腰は私が思っているよりもずっと弱っているのだということを痛感させられた。

私の不吉な予感は、あの夜の母の狭心症のハプニングで済んだということであってほしい。そしてオリジナルの家族メンバーでの温泉旅行は実現出来なくとも、長年のわだかまりゆえ話をすることができなかった次女姉と私が母の前で仲良く一緒に話し共に笑い、家族の昔話に花が咲いたあの瞬間が、母にとっての素晴らしいギフトであったと心から信じている。次にまた同じ機会があるかどうかなんて決して解らない。私はこの為に今この時に、実家に戻って来させられたのだろう。



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