3/15/2014

長く辛い冬



日本の風景やTV番組に違和感を覚えたのも最初の二日程度で、三日目ともなると全てが馴染みあるものになってくるのは、やっぱり自分のDNAのせいだろうなと思う。飛行機の中で眠れずぼろぼろに疲れていたにもかかわらず、実家での最初の夜は時差ぼけで眠れず家に響く全ての音を聴いていた。アメリカの家での聞こえるのは小鳥のさえずりしかない静かな環境とは全く違う。

3人それぞれがシフト制の仕事の家には深夜早朝と誰かしかのたてる物音、そしてラジオTVの音が響く。やがてそれは私にとって『幸せの雑音』となってゆく。猫や頻繁に訪れる姪とその子供に対する甘い言葉や笑い声、姉と義兄、母の会話は普通であっても『共同生活』にある思いやりが感じられるものを含んでいる。この家の人々は『助け合って』生きているのを感じさせる。布団の中で浅い睡眠をむさぼりながらも、私はその幸せの雑音に癒されていた。

今後私は会話もアクティビティもない夫婦を十年、へたしたら二十年と続けることができるのだろうか、と思うと胸が苦しくなる。そして愛情というものは感じられない、まるで他人よりも更に遠い人のような夫の介護などできるのであろうか、と。いずれはそうせざるを得ないのだから今は楽しく過ごしておこうと深く考えもしなかった未来図。それを現実的に目の当たりに見せられ感じさせられたのがこの辛い冬だった。

そして心身を病み日本の実家に逃げ帰ってきて、やっとぐっすりと眠れた日の翌朝には、この冬の一連の出来事は単なる悪夢だったかのように現実味がない。向こうの生活とここの生活に繋がりがないのだ。




一体何が起きているんだと驚愕するほどに、周りに『死』と『別れ』が満ちあふれた『喪失』そのものの冬だった。

女冥利につきると思わされるデートをした直後に突き落とされた『子犬君』との関係の現実。久々にでかけた夫とのハワイ旅行での我慢の限界。そして夫婦別行動の憂鬱な冬のファミリーホリデーイベント。ずっとこのまま茶飲み友達として一緒に歳をとっていくのではないかと思っていた同い年の男友達が、中年の危機の勢いで30年住んだアメリカを離れて日本に帰国してしまったときの動揺。ホスピス患者Tの壮絶な最期。葬式の後の子犬君との年末イベントは、元旦の朝のブレイクアップという結果で終った。

この時点で既に私は健康を損ねていた。この頃会った友人が「あまりにも疲弊しきっていたので、近況を尋ねるのもはばかれた」と後で言っていたくらいだった。

Tの死に合わせて、夫の片思いの相手Dの愛犬が亡くなり、それをきっかけにして私とDは過去15年近くの疎遠さから復活して急接近した。そして、彼女といろいろ話すことによって、私の知らなかった夫の不可思議な行動が表面化してくる。

過去子犬君とブレイクしていたときに付き合っていたキックボクサーの彼が連絡をとってきたので、食事でもして心を癒そうとしたら、なんとその場で彼がアメリカを離れると告げてきた。全ての心の拠り所が指の隙間からこぼれ落ちて行くような感じだった。友人の身近な同年代の友人が突然死を迎え、その頃夫の尊敬していた同僚も亡くなった。私も愛しんでいた友人の飼い猫が急死した。シニアレイキのレギュラーのメンバーの数々が体調不良で顔を出さなくなっていた。足を痛めて立てなくなった者、老人ホームに移り住んだ年配者、そして身内に不幸があった者。その彼女がやっと顔を出した時に耳にした事実に驚愕した。旦那さんがパーキンソン病を一年くらい前に発症し、身体の震えでの睡眠不足の辛さに耐えかねて銃で自殺したという。

それは私の周りの全ての人々に人生を揺るがすようなドラマが起こっているかのようだった。それを『アセンション』と結びつけたくなるのも無理はないくらいに。私たちは今、試されている?それとも私が『喪失』を引き寄せている?

そんなストレスフルな事象の出来事に並行して、夫との離婚騒動は本格化する。Dと私が繋がることで逃げられないと開き直ったのか、夫は私が裁判所に事体を運ぶ前にどうにかして経済的なダメージを避けようと慌てて動き出していた。驚きはしたもののその流れに乗ってしまえと書類にサインをするところまで行って、ついにそれが身体で現実味を帯びた。財産分与で揉め始めたある朝、私の胃と背中が激しく痛み、自分でクルマを運転して救急外来に駆け込んだ。そしてストレスを感じる度に胃は痛み、食べるのが怖くなり、更に減り続ける体重と痩せこけて行く容姿に不安を覚えた。そして夜眠れなくなり、パニックアタックというものを経験し始める。『更年期鬱』という言葉が脳裏をよぎった。夫に懇願して離婚のプロセスを中断してもらい、健康回復に専念したかったのだが、長年の鬱憤が爆発し尊敬を失った相手と同じ屋根の下に住む日々は、更に私の精神を病むものへと変わってしまった。

もう消えてしまいたいという強迫観念に襲われ続けた夜を過ごし、怖くなった私はパジャマ姿とスリッパのまま早朝Dの家にクルマを走らせ、彼女に抱きついて震え泣いた。そしてDは、とりあえず全ての予定をキャンセルして日本へ帰国するべきなのだと強く勧めたのだった。






2 件のコメント:

  1. 雅さんこんにちは
    以前のブログの時から雅さんの綴る人生の流れに、勝手に自分自身を重ね欠かさず読ませて頂きこちらも追っかけファンとしてブログの再開嬉しいです。
    雅さんの以前のブログでの親を許せない所から許すところ、30代での鬱の経験。まさにそこが2年前位の私にスッと入ってきました。
    私は20代の半ば位から両親の借金を返すだけの生活をしてきて、とにかくなんで私がという思いの中8年程過ごし、昨年末父がお酒の勢いで電車に飛び込みました。幸い助けて下さった方がいて、生きていますが、私はその話を聞かされた瞬間の自分の気持ちを忘れる事はこの先ありません。
    憎んで憎んで恨んでの気持ちしか親に対してなかったのですが、きずいた事があります。
    小さい時私は両親が大好きで、きっと自分が大人になった今大好きだった両親のだらしない姿や弱い姿を見る事にとてつもない嫌悪を抱いていたのだと思います。
    それにきずいた時、不思議と全て許せました。こうであって欲しいと勝手に思っていただけで、親も人間でいくつになっても人ってそんなに大きくいる事ができない時もあるんだと。
    私は父を助けて下さった方の顔も名前も知りませんが、その方には私の全ての運をあげるから幸せでいていただきたいと思っています。
    私も昨年一番の親友が3才の子供と心中をしたり、とてつもなく本当にしんどかった。私がそういう現実を引き寄せてるのかと思ったり、もう考える事が万が一現実になるならば、何を信じて何を強く願って何を自分の生きざまとして毎日過ごしていいのかわからなかった。
    でも、父が助けられた時思いました。
    私は生きてるし、腐るもんか。腐るもんか。人に凄いねと言われたくて生きてきたきがします。
    変わってるねと言われるのが心地よかったきがします。
    でも、今私はなんだか10年ぶりくらいに楽になれてるきがします。
    なんかすごくうまく伝えられなくてごめんなさい。ただ、雅さんの心情を思うともう私みたいな何にも持ってない底辺の人間もきずける感謝の瞬間をもらう事ができました。
    雅さんは本当に綺麗で、表情に生きてきた積み重ねがしっかり素敵にでているきがします。
    だから、頑張れなんて言えないけど、応援しています。
    生意気な事言ってすいません。
    いつか雅さんに会いたいです!!

    あねり

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    1. あねりさん、心からの思いを綴って下さってありがとうございます。コメントを読んで私にも重なるところがありました。そして素晴らしい言葉の数々。何度も読み返しました。生意気なんて、そんなことありません。こうして元気づけてくださることに感謝の気持ちでいっぱいです。

      実家で早くもみるみる回復していく健康の実感を得て、やっぱり『愛』が全てだよなぁと思った今朝でした。

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