5/29/2014

ダンカンダンスに育てられる


やっと週末二日間のパフォーマンスが終わった。この一ヶ月重なるリハで時差ぼけと共にへろへろになりながら5月は駆け足で過ぎたという感じだ。ショーの翌日の月曜は恒例のスタジオプロモーションの撮影会、ショーの打ち上げ、そしてイサドラダンカンの誕生日を祝ってシャンパンを開けるというような午後をサンフランシスコのオーシャンビーチで過ごした。クリフハウスの真下であるこの場所は、その昔サンフランシスコ生まれのイサドラが実際にここで踊り自然からのインスピレーションを受けた場所であるともいう。

サンフランシスコの夏は霧が多く『アメリカで一番寒い夏』で有名だけれど、このメモリアルデーのホリデーウィークエンドはまだ温かく穏やかな天気でとても気持ちが良かった。朝はげろげろで起きだした私だったのに、現場に行ってチュニックに着替えたら、もう海岸を走りたくなっていた。カラフルなシルクのチュニックが風に舞い、光の中でダンカンダンサー達が波と戯れるのを目にするのは本当に美しかった。ビーチの端のこの場は人も少なく撮影には全く支障がない。

「邪魔をするようで申し訳ないのだけれど、どうしても好奇心をそそられるのだよ。君たちは一体何者なのかね?」

そう雰囲気の良い知的な感じの年配のご夫婦が近寄ってきて私に話しかけて来た。ダンカンダンスを学ぶ生徒だと告げると、「ほら、やっぱり私の言ったとおり!イサドラダンカンの衣装だったのよ!」と奥さんが勝ち誇ったように言い、その彼女の理解が私を嬉しくさせた。知る人は知る、歴史ある人物なのである。

ビーチで思い切り跳ねてしまったせいか、はたまた今までの疲れがどっと出たのか、その翌日は激しい腰の痛みで目覚めた。その疲れ加減から、今まで気力でやってきたのだということを再度認識した。この年齢にはやっぱりかなりキツいスケジュールだった。




「雅ちゃんが戻って来るのを待っていたのよ。さぁ、リハを始めるからね。時差ぼけ、大丈夫?頑張ってね」

日本から帰国するやいなや、先にベイエリアに戻って来ていたダンカンダンスの師匠にそう告げられた。東京でのワークショップで念を押されていたので、疲れたと言っていられない。帰国して最初の週末のナショナルダンスウィークイベントで士気が高まったので、時差ぼけからの回復は早かったかもしれないけれど、それでも慢性的な疲れを振り払うのは容易ではない。週2回から3回、そして一日4、5時間のリハが続くと、さすがに師匠自身ももぐらぐらのぼけぼけになりつつあった。しかし、時間は待ってくれない。創作ダンスもまだ煮詰まっていなかったし、衣装も決まっていない。師匠の焦りだけが募って行く。

日本人とアメリカ人のハーフで元ファッションモデル。年齢不詳ではあるけれど、皺の具合からは私より少し年上で多分に50も後半というところか。きめの細かい白い肌とずば抜けて長い手足。舞の中でちらりと見える太腿に多くの男性が魅了されていること間違いない。女の私だってどきっとしてしまうもの。ダンカンダンスのアーティストは数いるけれど、彼女独特の美しさと柔らかさは他のNYあたりの先生とは一線を画す。ダンカンダンスを極めたいとNY移住まで考えていた若手のダンサーも、一度向こうに行ってワークショップを取って、やっぱりMary Sanoのダンスの方がいいのだと考え直したくらいだ。

私がダンカンダンスを続けるのもMary Sanoのその美しさのオーラに直に触れていたいから、という理由でしかなかった。彼女の路線を辿っていけば、60歳になってもきっと魅力的な女性で居られるに間違いない。いつまで幼女であるような魅力をもった彼女だけれど、毎回ショーの前になるとプレッシャーから般若のように変化する。その状態の彼女にキレてスタジオを去った生徒も数える程に存在していた。今回初参加を強制的に組み込まれたロシア人女性が、過去の例と同じくリハの最中に逆ギレして私たちをひやりとさせた。

ロシア人生徒の気持ちは良く理解できた。クラスを取っている以上強制的にショーに押し出され、『楽しんで踊りたいだけ』の自身に激しいプレッシャーと、ときには強過ぎるダメ出しを与えられるそれに耐えきれず、幾度となく私もダンカンから離れた。一度クラスのレッスンの最中に切った足の筋肉の後遺症を理由にしたけれど、『楽しみだけのダンカン』に留めることができなかったのが嫌というもの、実際は私のエゴがそれを許さなかったからだ。他の若い30代ダンサーの中で見劣りするというのにも耐えられなかった。

私の最初のパフォーマンスは2008年のことだったらしい。今回のパフォーマンスはそれ以来ということになるので、実に6年ぶりということになる。




パフォーマンスは当時のイサドラが行なったサロンのように、生ピアノの演奏と共に踊った。ショーの半分はネオピアニストのオリジナル曲で創作ダンスを踊ったけれど、そちらは『表現』を主とするもので特に問題はなかった。しかし、今回のダンカンレパトワはブラームスのシリーズが選曲され、そのひとつの『シンバル』というダンスはわずか45秒。始まったらひたすらジャンプを続けるそれを、どうしても間違えずに踊ることができないでいた。本番まで一週間をきった頃には、さすがに焦りが出て家で何度も練習した。

2008年のショーのときのことをあまり覚えていない。終った後の興奮はあったけれど、ステージでは頭が真っ白という感覚だったように思える。しかし今回は不思議にステージフライトの緊張感は感じなかった。まさに『dance like nobody's watching』という感じで、リラックスしている自身を意識した。『見せる』というより『楽しんでもらう』という気持ちの方が強かったし、観客のエナジーに批判のそれではなくサポートのそれを感じたのもある。今まで私は観客席の方にいたけれど、そんな自分は本当にダンカンダンスのショーを楽しんでいた。彼女達の舞があまりにも愛らしくて目尻が下がってしまうほどだから、当然、今回のショーを見ている人々も同様の気持ちであると思えた。批判が怖い人は多分に自分が批判する人だからだと思う。そうでなかったら、そんな気持ちなど起こるわけがないのだから。




「雅ちゃんは、どんな感じ?」

ビーチでシャンパンを飲みながら、師匠に尋ねられてセメスターの締めくくりに生徒のひとりひとりが思いを口にした。

日本に帰国する前の冬のセメスターは、精神的に辛かったけれどダンカンのクラスに支えられて来た。そして東京でのワークショップ。更に今回の春のセメスターのショーへの参加。肉体的には辛かったけれど、それだけ得られる達成感は大きい。ダンカンダンスは私を支え育ててくれる。そして、数少ない『本当に好きだから残る』他のダンサーたちは心優しい女性ばかりだ。ダンスを踊りながら本当に楽しくて嬉しくて、瞳を覗き合いその瞳の奥まで相手を受け入れ微笑み合うことができるというのはまれなこと。でも、私たちにはそれができる。それはMary Sanoだから教えることができるのだと思う。

そう告げると、彼女がまた幼女のように喜んだ。



狭い舞台裏の待ち時間に


フィナーレのときの衣装
ビーチで最後に記念撮影:右端が師匠のMary Sano女史


移動中に何気に撮ったスナップもこんなに素敵♪




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