5/20/2014

日本で社寺巡り 4


今度私が帰国した際には伊勢神宮を訪れたい」

そう告げる友人からのメールでこの案が浮かんだ。事実、人生今までで一度たりとも「伊勢参りをしたい」などと思ったことはなかった。それを母親に告げると、式年遷宮の翌年の今年は20年に一度のお参りに最適な時期だし、一生に一度は訪れるべき場所だから是非そうしなさいと強く勧められ、それを実行するに至った。

鞍馬山の後何もしない日ということでスケジュールをブロックし丸一日眠りこけた翌日、大阪のホテルをチェックアウトして伊勢に向かった。京都の友達と鶴橋の近畿鉄道のホームで待ち合わせして、上手い具合に指定席を隣同士でゲットするスムースな旅が始まった。

内宮の直ぐ目の前の神宮会館が早朝参拝をする無料のツアーを提供していることから、宿泊地をそこにした。昼にホテルに到着荷物を預けて、早速外宮に参拝に訪れた。『外宮を先に』それが伊勢神宮の正しい参拝の仕方だということで。知ることはそのくらいで後の詳しい情報は得ていなかった。先入観を持ちたくないという気持ちも強かった。

しかし明治神宮と鞍馬山の経験があまりにも素晴らしかったので、私は伊勢神宮に過大な『期待』を寄せていたのだと思う。それだから外宮を出た際には「ふ~ん」といった感じで終ってしまった。浅草寺を訪れたときとさほど変わらぬ感覚だった。そして、おまけで近所にある別宮、月夜見宮(つきよみのみや)に足を延ばしたが、後で知ったことには、こちらを先に参拝して外宮を訪れると良いのだそうだ。ここもパワースポットと呼ばれるらしいと後ほど知ることになるけれど、ここでまた不思議な経験をすることになる。




いつものごとく敷地内に祀られている全ての社をお参りする私は、ご利益を考えずにただエネルギーを感じるだけの参拝をする。月夜見宮の本殿の向かって左横にある小さな鳥居、古い大木にも同様にそうした。しかし、エネルギーをシンクロさせた途端に私の中の闇がうずいた。私を嫌な思いにさせる人物、私のエゴを刺激し劣等感を感じさせ、嫉妬を覚えさせ、そういう自分が嫌いになる、その対象が再度思い出されたのである。それは鬱鬱とした大変に苦しい気持ちになり、「何故ここで?」という驚きと共にいやぁ~な思いがしばらく持続した。

我に返ってその場を離れ、友人と神宮会館に戻りチェックインして畳の部屋に落ち着き茶を入れた。そこで初めて口を開いた。

「なんか、私、今、めちゃ落ちてんねん」
「やっぱそうか?なんかずっと元気ないなと思ってた」

そこであの場で動けなくなり、嫌な思いに囚われていたことを告げた。

「なんかずっと戻ってこないなぁと思ってたらそんなことがあったん? あそこ、何やろ?」

友人がパンフレットを広げてみたけれど、地図には出ているものの名前の表記はない。

「… あそこにお狐さんいたよな。ということはお稲荷さんだよな。電話してきいてみよか? あ、でも、もう遅いか。あまり気分が優れないようだったら、明日内宮でお祓いしてもらうのもいいかもしれない」

そう友人に提案されても私自身はそれ程のものではないかもと思いながら、それから大浴場に行って身を清め自身にレイキをかけた。

その夜は伊勢海老会席のあまりの量と美しさに感動し、食前酒で酔っぱらった勢いで直ぐに布団に落ちてしまったため、それ以上の苦しみはなかった。そして翌朝5時に再度入浴、6時に内宮の早朝参拝にでかけ大変に清められた思いだったので、私の闇の苦しみはほんの2時間程度のほどだったことにすぎない。

「内宮はやっぱり外宮とは格が違うな」

そう友人が言い私も同意した。あのとにかく高尚で清らかな感じはただ単にその場にゴミがなく整然と整えられているだけのものではないと思う。ホテルのTVで伊勢神宮の歴史と行事の説明が行なわれている動画を見ていたが、私たち自身が気づかぬうちに、こうやって国全体が神によって守られているのだという、いや、神に祈る人々がいるお陰で守られているのだということを深く実感し、恐縮し謙虚な気持ちにさせられた。この頃には「何かとてつもないパワーを感じてやるぞ」という気さえ卑しいとも思わされた。

外国人の姿を目にすることは少なかった。地味な外観とどこを見ても同じようなそれは、外国人のアトラクションにはならないのかもしれず、そして知識なくとも肌でその良さが解るのは日本人のDNAだからこそかもしれない。




さて、あの月夜見宮で起きた不可思議な現象の謎を知りたくて、そのお稲荷さんを調べてみたところ、これだけのインターネットの情報があふれているこのご時世にその理由が見つからなかった。なんでも昔、大きな雷がこの楠の大木に落ちて、それ以来民間信仰になったいうことで、その理由を知る人も土地を離れてしまい誰もその歴史を知る人もないそう。伊勢神宮とはまったく関係のないものだという。ところが、この場を『気持ちが悪い』とか『強い霊性を感じる』とか書いている人もいるので「おっと」と思わされた。




明治神宮のサイトを探していた時に『パワースポットと言われる清正井は今は立ち寄らぬ方が良い』という感じの記事にいくつも出くわした。実際私が出かけた時にはそこの門が閉じられていたため御苑に入ることが出来ず、それを見ぬままに終った。要はそこの写真を待ち受けにするとご利益があるとTVで紹介され、一時はそこに辿り着くのに5時間も待つくらいの行列ができてしまったということ。ところが「逆にそれをしたら良くない事が立て続けに起こったのは何故?」という投稿も相次いでいる。とあるサイトが「そこにあまりにも多くの人の強欲なエネルギーが溜まってしまったため」という解釈を付けていたけれど、私はそれに同意する思いだ。

ご利益があるからということで人々が群がる場所というのもどうかな、と思わされる。もちろん、元々のその場所には強いエネルギーがあるのかもしれないけれど『欲にからんだ人のエネルギー』もその場に溜まってゆくということ。オリジナルな場のエネルギーが良くても、一日の終わりにはそこに渦巻く『人の負の念』があるということだもの。

長年の経験から、自分が霊媒体質だということを自覚しなくてはいけない時期にきていることを実感する。2011年の夏、友人と「やっぱりインドいくならパワースポットのタージマハルを訪れるべきでしょう」と意気揚々とでかけ子供のようにはしゃいでサリーを着た自身の撮影会に浮かれていたけれど、夕方そこを離れる最中に『ずん』とのっしり背中に乗る『それ』を感じた。その後からはネガティヴなスパイラルにハマり、挙げ句には帰りの飛行機で熱病を発症し、家で2週間の下痢と熱の中でただ死にたいと、死ななくてはいけないという強迫観念に襲われ続けた。そしてそれがレイキとの出逢いに繋がって行ったのだった。




ネットでサーチしていくうちに、世の中には『稲荷大社との相性が悪く、お稲荷さんの神社を訪れると具合が悪くなるので近寄らないようにしている』という人もそう少なくなく存在するのだということが垣間見られた。私ももしかしたらそういう体質?とは思ったが、これは経験を重ねて行かないと何とも言えない。しかし、私的な解釈では、自分自身の邪気に対する浄化作用が起こった、すなわち『毒出し』がそこで起こったのではないかというようにも考えられる。強力な浄化作用で一時的に具合が悪くなるのはよく経験していること。そしてありがたくも、私はその対象が引き金になって渦巻く自身のエゴの苦しみがすっかり消え去っていることを、今更のように認識することができる。確かに気分はとてつもなくいいし、その対象を思い出してももう嫌な思いをすることもない。




もうひとつの不思議現象。伊勢神宮で撮った写真が、サムネイルでは普通に観ることができるのに、画像が理由の解らない現象でことごとく真っ黒画面になっていて閲覧不可能。仕方が無いので、残りの食べ物画像を少し掲載することにする。




巾着に入った伊勢うどん
赤福の団子


魚と豆腐の揚げ物:飛龍頭
アツアツをがぶっと







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