1/06/2019

人生はサイクル(2018年末) 1

「なんだか完全すぎるね。どんどん自由にさせられている」

2015年の正月に家を離れ最初に住んだハワイで知り合ったヒーラーの彼女が、私の報告を聞いてそう告げる。

「どうやら一番良い状態で物事にケリがついたようだな。これで君は重荷なしのフリーな状態だ。本当の意味でこれからは自分のことだけフォーカスして生きられるのさ」

すれ違いで顔を合わせることのなかった元SFのルームメイトTへの新年の挨拶でも、そんな返事が来た。2018年クリスマス前後の10日間、私は彼の留守の部屋で眠り、彼に売った自分の愛車のMINIを運転してサンフランシスコベイエリアを再度体感した。




予定になかった突然のSF訪問。1年ぶりのアメリカ。ロスアンジェルス空港での乗り継ぎで目にした肥満の黒人職員に「おぉ、アメリカだなぁ」と我に返った。サンフランシスコ空港に着いてバートで市内に向かう。日本の電車とは全く違う光景。自立した自由さをプンプン漂わせている人々を眺めているうちに、自分の身体から鱗のようなものが剥がれ落ちて流れていく感覚を覚えた。バートの駅から路線バスに乗り以前部屋を借りていた家を目指す路上では、もう昨日までそこにいたような感覚になっていた。仲良くしてもらっていた年配のルームメイトのマイケルに出迎えられ、時間を過ごし眠り目が覚めた翌日には、既に日本の生活は夢の中の出来事のように感じられた。

緊張感に満ちて、私は再びMINIのハンドルを握る。今は南湾エリアに住む元夫を訪問するためだ。11月に東京で再会したTに壁際に追い詰められるように説得され、私は逃げ場のない状態で翌日にアメリカ行きのチケットを買った。そのくらいでないと決心がつかなかったのだ。

「彼がすい臓がんだと知らせて来た時は、自分が看取るから彼の家に戻らせて欲しいって懇願したのよ。でも『お前が来るとややこしいことになるから来るな』っていう一方だし、どうしていいかわからなかったの」

あれは多分6月くらいだったのだろう。訪問を許されないまま、それでもメールの会話は時々続いていたが詳細はよくわからず、メールの返事がないともう死んでしまったのかと不安になった。彼から受ける拒絶感に狼狽し行動が取れないでいた私だった。

今思うと末期癌の変わり果てた彼の姿を目にすることを怖がる私もいたのだと思う。離婚をして自分が自由に幸せを実感するだけ元夫の存在は美化されてゆき、遠く離れた父親を想うようなそんな気持ちになっていた。彼の離婚のプロセスは海よりも深く私を愛してくれ包み込んでくれるような寛容さで偉大だった。他人に自分の離婚を語る時、そんな風にしてくれた元夫を誇らしく想う自分がいる。事実彼の一番素敵な頃のショーンコネリーのような写真は長い間財布に入っていた。そして勝手に、彼自身もそんな存在のまま私の記憶の中に留まりたいのではないのだろうかと結論づけていた。

でも、そんな私の言い訳をTは許さなかった。

「そんな状態で会わずして彼に逝かれてしまったら、君は相当に後悔して傷つくはずだ。何をしている?今、会いに行かなくちゃいけないんだよ。誇り高いユダヤ人のおっさんは『会いに来て欲しい』なんて女々しいことは言わない。だけど本当は君が会いに来てくれたら嬉しいはずだろう?会いに行っていいかなんて聞かなくていい。SFに遊びに戻って来てそれで近所まで来たから寄ってみた、ってそう言えばいいんだよ。俺がクリスマスホリデーで部屋を空けている間に来るんだ。クルマもある。全てはお膳立てできてるんだよ。あとは君の勇気次第さ」





Tの言う通りに間際になってから元夫に連絡し、クリスマスプレゼントを渡したいからという理由で訪問を許された。それまでは彼の容態が全くわからなかったものの、どうやら寝たきりではなく普通に生活できている様子が伺え、私の気持ちもかなりリラックスしていた。

離婚をした後に彼が移り住んだ家。住所しか知らないそこを初めて訪れる。ドアベルを鳴らすとしばらくしてから端正な顔立ちのアジア人の女性がドアを開けた。その表情に緊張と困惑、動揺も感じられ、そこから私の頭には無数のクエスチョンマークが飛び交い、何がなんだかよくわからないままもソファに座る元夫との小一時間の穏やかな訪問を済ませ、車を走らせまたSFへの帰路に着いた。

運転をしながら私は放心していた。自分が何を感じているのかもわからなかった。状況をよく理解していなかったし、想像を覆すような夫の状態も把握しかねていた。







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