2/02/2019

とうとうきたか次の低迷期

SFから帰ってきて実家に戻るとそこはサザエさんち並みの賑やかさだったので、身に起こった出来事を昇華しきれずにいた。 正月明けにバリに向かえば、この旅は2年前に知り合った人々を再訪問する目的だったので、バリを楽しむというよりほとんど知人と喋ってばかりいた。シドメンで4日間美しいフィールドの光景を眺める目的だけの宿でも、途中思わぬ訪問客がいて楽しかった。

空気が変わったのはウブドに近くなったタクシーの中でだった。珍しく鬱々とした気持ちに襲われ、自分はやはりこの土地とは合わないのだということを察知した。宿はプヌスタナンのギリ端の位置にあるゲストハウスで、隣の部屋にいた白人女性はとても親しみやすい彼女だったから、朝食のテラスでは軽い会話を楽しめた。よく笑った。

3年ぶりのプヌスタナン。2年前のウブドではこの地域を訪れなかったので、記憶を辿りながら裏道を探せば、もうそこは舗装道路になっているような変化だった。ビンタンマーケット手前では大通りの端を通らなければならず、 行き交うオートバイの騒音にげっそりしつつATMに向かう。空港にあった2台の ATMに拒否されて焦り換金せざるおえなかったので、ドキドキしながら現金が手にできた時にはホッとした。そしてもうここに戻ってきたくないからという思いで1時間後にもう少し引き出そうとした時、自分がキャッシュカードを持っていないことに気づいた。

全身から冷や汗が吹き出して目眩さえ覚えた。

この3年間、私はどれほどの土地を旅してきたことだろう。それなのに過去に1度カードを無くした経験があり、それが恐ろしくもこのウブドだった。こんな偶然というものがあって良いものだろうか。

このカード紛失事件はつまずきを重ね、アメリカ銀行側のミスで新カードが届くまでの気の遠くなるような時間を後のチェンマイまで引きずった。そして「好ましくない出来事」はそこから始まり、人間関係のトラブルで宿を失い、ダンスマンダーラのワークショップの機会を失い、騒音にやられ、私はとにかくバリを早く出たくて空港近くの宿に二日間何もせずに引きこもっていた。

人間関係のトラブルに巻き込まれることは稀なケースだけれど、それは私自身に大きなダメージを与えた。自分が被害者になるつもりはない。私にも非があり、誤解を招き、それを修正するのが不可能なくらいにすれ違ってしまった。ほんのりと惹かれてたという対象だった故、彼の拒絶、彼に映った自分の姿は受け入れがたいものがある。反省はするものの、自分を好きになれなかった。

かつてイケイケの雅はどこに行ったのか、育て上げたものはなんだったのか、いつの間にこんな敬遠されるおばさんになってしまったのか、と途方にくれた。




長い間「離婚ハイ」にいたのだと思う

夫のエモーショナルサポートを受けつつ、 新しいノマドライフにトライし「なんだ私、これもできるじゃん」という小さな達成感の積み重ねが新鮮で嬉しかった。それは外的要素よりも遥かな自信につながった。過去記事に「旅体力の低下」というのがあるけれど、最初はそんな感じだった。一箇所に長期滞在することから始まり、それがだんだんタフになって夜な夜なドミトリー宿を変えつつ僻地の旅を続けるのはチャレンジであり興奮した。時々自分でも我に返って驚くときがある。こんな自分を3年前には想像することすらできなかった。

そんなワイルドな旅の間に私は女性らしさを失ったのだろうか?気づけば炎天下の東南アジアや中米を旅した爪痕はしっかり身体に残されている。ダンスやヨガを怠ってきた故、スタイルも変わってきた。 年齢相応の身体と言えばそれまでなのだろうけれど。

スリランカの旅は惰性になり、その後小休止のつもりの日本が半年間の社会復帰トライアルと変わった。そしてその間に自分がすっかり「おばさん」と呼ばれる生き物であることを嫌でも認識させられた。




旅をしていると 外国人と出会い会話があるが、そこに自分の年齢や何者であるかを意識させられることはない。英語は同じ目線のフラットな会話で、たとえ相手が何歳であろうとそう変わるものはない。でも、日本語というのは丁寧語や謙譲語が発達しているので、人々はとっさに相手の年齢とステイタスを無意識に察知し、大概に私はどの場でも最年長であることから日本の若者が構えてちょっと腫れ物に触るようになる。

戸田のシェアハウスは半分の住人が外国人だったから楽しかった。が、そこでもやはり年配の男性から「おばさん扱い」をされた。「雅ちゃん、自分若いと思ってるでしょ?」と面と向かって言われた時にはどう反応していいかもわからなかった。自分には関係ない、自分のままでいれば良いと自身に言い聞かせていたけれど、無意識に蝕まれて行くものは確かにあったように思える

空気を読むことに全神経を使った。ちょっと興味があっても「 なになに?」と若者の輪の中に入って行って空気を変えることはしたくない。遠慮の加減を学んだ 。それはある程度外国でも同じことなのかもしれない。一対一の対話は問題なくても、旅先のホステルの若者グループというのは同様に排他的なエナジーを持っている。

シェアハウスの生活は、人と会話できる楽しさと、自分が属さない孤独さの繰り返しだったように思える。特に思ったのは、そこにいたのはナイスな人たちであったけれど「 my people」ではないこと。 無料でダンス瞑想を呼びかけても誰も関心を寄せず、一人で新しいプレイリストをプラックティスした時には、涙と共に「you are not in the right community」という言葉が降ってきた。




半年間のシェアハウスの生活は日本社会に半分足を突っ込んだような「住むのも可」という結論を生んだ。「絶対無理」という訳ではなかった。これでまた日本人だけのシェアハウスだったら違う結果になっているのかもしれないが。

シェアハウスで私は地味なおばさんだった。別にそれでよかった。実家にいてもそのままだし、私はおばさんであることを受け入れどっぷりとおばさんでいた。それが普通であり、それで楽になれるならそれでいい。社会では透明人間であり、誰も私を気に留める人もいない。 おっさんたちは若い子を求め、おばさんは勝手に美味いものを食べて気を緩め、好きなことだけやって老いてゆく。

その自分の身のこなしが変わったのは、サヌールの友人の輪の中のイタリアンの男たちの視線だった。個人的な意味はなくご挨拶程度のものなのだろうけれど、彼らの目に映る自身はまさしく「女性」だった。懐かしいエナジーに包まれるのを感じた。遠くのテーブルに老婦人がいた。多分にイタリアンなのだと思う。尊厳を保った、まさしく 「女」だった。私は彼女たちに憧れていたのに、いつからそれを忘れていたのだろう。




ある日ゴジラのテーマを脳裏に小さく聞いた。それがデジャブーに感じられた。

そうだ。10年前に50歳を目の前にしてあがいていた自分。更年期でくるくるしていたが故、その気持ちをブログに落とし込むしかなかった。

はっと気づくと私は今年58歳になり「The 還暦の心得」みたいなものに脅かされているのかもしれないとも思う。透明人間になり昔ほど男ホイホイではなくなり、元気のない肌のシワとかを見ると、しぼみ始めた花の生命力の衰えを自分に重ねる。他人には活動的に見られているし、多分に同年代の女性よりはるかにそうなのかもしれないけれど、要は過去の自分との比較だ。なだらかに気づかぬうちに朽ちればいいのに、 ガクンってくるものがある。 それが今年のような予感がする

周りが見えてないとか、人の話を聞いてないとか、そんな自分に後で気づくと傷つく私がいる。それが後を引く。そんな豆腐メンタルでどうする、と自分自身で呆れるのだけれど、こんな自分をどこに位置させ納得したら良いのかわからなくてくるくるしていることに気づくここ最近。




楽しくない。旅先で粋がっている若い白人たちのエナジーが鬱陶しい。騒音に敏感になる。

20年も関係のあった元夫との別離を身に感じているのだから喪失感があって当然だし、そう簡単に立ち直れるものではないと友人は言う。やっと新しい始まりなのだと。

日本語で検索すると全く出てこないどころか、会社勤めで鬱になる人がノマドライフで楽になる「俺かっこいい」系の浅い記事しか見つからないところだが、英語で「digital nomad depression」を検索するとすごい量の記事が出てくる。どこにも属さない根無し草がハマる落とし穴のようなものだと思う。興奮は続かない。多分に3年から5年でノマドライフは終わり、人々はどこかの地に落ちつき次のフェーズに入る。

鬱の谷はすぐそこにある。ぱっかりとその口を開けているが、 落ちないように踏ん張る自分を意識する。 漢方を飲む。鍼を打つ。遠いところにいるけれど理解し合える友人と、ひたすら正直な心を打ち明けサポートし合う。言うだけで、聞いてもらえるだけで、心は軽くなるのだから。


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