1/11/2019

人生はサイクル(2018年末) 2

「....」

SFの滞在する家に戻り夕食をひとり済ませているとまもなく、年配のルームメイトが仕事から戻って来た。

「で、どうだったの?」

そう尋ねられても、私はどこからどう始めていいかもわからないくらい言葉が見つからなかった。それでも思いつくままに自分の目に映った状況を吐き出していくと、やがてブワッと涙が溢れて来た。

「自分が何を感じてるのかもわからないし、こう話しながらなんで自分が泣いているのかもわからないわ」

そう言いながらも今度は言葉が止まらない。年配のルームメイトはただじっと話を聞いている。彼はいつの時でも私がありのままの私でいさせてくれる貴重な存在だ。

「sounds like you've just done unfinished business」

そう彼は静かに呟く。そうだ。私はこうして『終わり』を感じるたびにブログに経過を記して来たけれど、本当は終わっていなかった。私の気持ちは彼から自立していなかったのだ。


「明らかに何かは始まってはいたけれど、全てが同時に終わるわけでもない。いろんなレイヤーがあって、ひとつひとつの終わりと始まりがオーバーラップしているんだよ。ここは君の気持ち『アタッチメント』の終わりの時だったんだろうよ」

私は途方にくれる。終わりなんてなかった。終わりと思っていたものは存在していなかったし、今この状態でさえこれこそが終わりと言うこともはばかれる。ただ確かに感じていたのは『喪失感』だったのだろう。



離婚後に買った彼自身の家。私が少しずつ気に入って集めた家具や調度品は、そのまま見知らぬ家の中に位置を変えて存在していた。広く美しいその家はどの角もピカピカに清潔に保たれていた。私よりもはるかに綺麗に家を保っている、その家にいるのは端正な顔立ちのアジア人女性。ドアを開けた瞬間の佇まいは、介護士ではなく『a woman in the house 主婦』そのものだった。それが不意打ちで私の頭を殴った。

2013、2014年とホスピス患者を訪れるボランティアをしていた。その時の訪問の経験から介護士という立場の人間の存在を容易に想像できたけれど、そのプロフェッショナルさを彼女からは感じられなかった。そういえば1年前に夫と外で会った時の「今中国人の女性と一緒に住んでいる。彼女はケアテイカーでありガールフレンドでもあるのだけれど」という言葉を今更のように思い出した。今までにも彼は女性と旅行に出かけるとか折によって報告してきたけれど、私にヤキモチでも妬かせたいのかと思っただけで自分はそれに特に反応することはなかった。この言葉でさえ「ガールフレンド、と言ってもあくまでも彼の勝手な妄想かもしれないわ」と本気で聞いてはいなかったのだった。

それが彼の妄想であったなら、介護の女性はあんな動揺を見せないだろう。20年連れ添った元嫁の訪問。たとえ彼らの1年余りの同居生活が愛情に満ちたものであっても、歴史ある女性が目の前にいるのだ。心穏やかにウエルカムできる余裕もないのかもしれぬ。

彼女は英語をあまりよく話さない。アメリカ的な客のもてなし方も知らない。ただ家計に余裕のある外国人主婦のようであり、自信のなさゆえ身の回りには特に気を使っているようにも見えた。十分手入れをしている輝く肌がそれを物語っていた。私がその瞬間把握できなかった感情も、後からじわじわ来た。私は彼女に『昔の自分』を重ねて見たのだ。




年配のルームメイトは私の話を聞き、そこに『サイクル』を見ると言う。

そうだ。元夫はこういう女性が好きなのだ。英語がたどたどしい、スタイルの良いアジア人女性。彼の存在を、財力を必要とする『守られる女』。もう私は元夫と出会った頃のおどおどした私ではない。英語を堪能に喋り世界中をまたにかけるトラベラーだ。友人を作ることも容易い。自分の意思を持ち彼に偉そうに文句も言える。彼にまたはアメリカでの結婚生活で育て上げられた私はサイクルの終わりの完成品であり、彼にはまた新たなサイクルが始まっているということだ。

ふらつく夫の手をとる彼女。薬を飲んだか確認し、彼に寄り添い、彼のパンツのポケットに薬のボトルを差し込む姿はまさしく伴侶に見える。家の中には歩行器があり、車椅子があり、し尿瓶がある。彼女は介護を完璧に行なっているのだろう。彼女はそのための女性であり、いちいちうるさいやかましいことも言うこともない。彼は安心して身を任せることができるのだ。

その点、元夫は私が彼の面倒を見ることを酷く嫌がった。私が彼を年寄り扱いをするのを特に嫌がったし、拒否した。私の手に任せてしまえば素早くスムーズに行くものを、彼があくまでも自力でやりたがるので、私はイラつき辟易していた。そんな不快な離婚に到るまでの数年を再度思い出すことになった。

そう思ったら、私は彼の元に戻り介護をして看取ると提案した自分を激しく恥じた。この家のどこにも私の居場所はない。たとえ臨終の場があろうと、元夫の手をとり看取るのはこの女性であり私ではない。




元夫を訪れてから3日間ほど、ダメージを受けている自身を覚えていた。幸いにも毎日SFの友人たちと会い、会う人ごとにそれを報告し言葉にすることによって自分の気持ちを整理していた。それはカウンセリングそのもので、私はより客観的に状況を眺めることができた。

とらわれていたのは『喪失感』。夫はまだ生きているけれど、私の心の中の夫は亡くなったも同然だった。離婚をしながらも1年間仲良く同居を続け、ゆっくりと自立への道へと送り出してくれた元夫。アメリカの確定申告の手続きも彼が当然のようにそれを受け持ってくれ、私もすっかり丸投げにして甘えていた。家族よりも甘えられる存在だった。

「もうお前にしてあげられることは何もない」

癌のことを告げると同時にそう言われてもピンと来なかった。この現状を目の当たりにするまでは。

時期が悪かったら、私はゾンビのように痩せこけ変わり果てた夫を最後の姿として記憶に残したのかもしれない。しかし、2回の抗がん剤と32回の放射線治療で以前よりも体力が戻ったと彼は言う。少なくとも家の中を自力でゆっくりと歩けるくらいにはなっている。私が家を出てから夫がひとりで暮らしていた時は身の回りを自分でやっていたせいか、中途半端に伸びた髪や眉毛でしょぼく感じられた時があった。でも今現在の彼は再度クリーンカットの小ぎれいな身なりをしていた。女の手が入っている身なりだと言うことが一目瞭然だ




用意したクリスマスプレゼントに驚きつつも、包みは彼によって開けられることはなく、そのまま彼女の手に渡された。女性はどう対処していいかわからない風で奥の部屋に閉じこもっている。

「疲れた。横になりたい」

元夫の言葉で私は家を後にせざるおえなくなった。お別れのハグをしても彼の腕が私を包むことはなかった。1年前に外で会った時にはあんなに嬉しそうにしてくれていたのに、今回は違っている。彼の体力がないせいなのか、同居する彼女に気を使っているのかはわからない。そう、わからない。彼は説明しない。説明する必要もない。

あれこれと妄想して状況や理由を組み立てようとしても意味がないことを痛感した。私が受け入れるものは目の前に展開した事実だけ。

SFの友人宅のベッドに横になり身を休めながら自分の感情を観察してみた。『受け入れる』という行為が重圧のようにさえ全身に感じられるのは生まれて初めての感覚だったかもしれない。




この喪失感は自身のライフイベントと呼ばれる大きな区切りであることに気づくと怖くなった。父親の死やアメリカ移住の決心、アメリカで最初の友人の死のような過去に人生を大きく変えるきっかけになるイベント。そして時にはぱっくりと大きく開いた鬱の谷に落ちる。落ちたら長い闇を生きることになる。今そこに落ちるわけには行かない。私は自身の脳内で起きているドラマを極めて抑えて客観的に捉えるように努めた。起きた出来事の展開を、今度は夫の目、女性の目、そして映画のような画像で脳内で再現してみると、私の役は極めて脇役のビッチな元嫁な感じがした。そうすると、不思議に悲劇的な脳内ドラマがコメディ仕立てになってくる。大丈夫。落ちない。私はもはや過去の自分ではない。鬱を繰り返していたあの自分ではないのだ。

ショックは現実に対することだけではないことも気がついていた。

私は過去のトラウマを再度体験しているにすぎない。離婚はしても親戚のような父親のような存在。元夫の場所がいつでも帰れる場所だと勝手に思っていたこと。それが新しい女性の存在で失われたことは、1987年に両親が長女姉夫婦に家を譲ってしまい、彼らが家を新築し、アメリカから実家に帰ってきた私が居場所を無くしたという、あのトラウマを体感してるにすぎない。そうと気づけたことは経験で培われた生きる知恵であり、それゆえ私は不必要に傷を深くしなくて済んだと思う

時間が経てば、今起こっている現実は、夫にとって、私にとって、そしてその中国人の彼女にとっても全て完璧なWin x Winシチュエーションになっていることも明らかだった。あるのはメランコリーな哀愁だけ。でも、クリスマスの日にもう一度彼らを訪れて30分ほど彼らの家で話をしたら、私たちの初回の不思議な緊張感は消え失せ中国人の彼女はもう落ち着いてフレンドリーにしてくれた。

夫に最終的な礼とお別れを告げてハグをした。女性にも「彼をテイクケアしてくれてありがとう」と礼を言ってハグをした。彼女はその気持ちを素直に受け取ってくれた。私はもう元夫に会わない。臨終の時にも駆けつけないし葬式にも出る必要はない。私たちの関係に完全な終止符を打ったのだ。

2回目の訪問の後は、私の気持ちはかなりクリアになっていたし、楽にもなっていた。哀愁の気持ちはうっすらとは残っているけれど、正月を家族と迎えるために実家にたどり着いた頃は、もうかなり気持ちの切り替えはできていた。姪が2歳と7歳の子供を連れて訪れていたので、サザエさんち化した実家ではSFでの出来事はそれもまた夢のようにしか感じられなかった。






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