2/19/2019

雅ランティエに還る

修道院に着いてレジスターをしている時に、チェンマイのワークショップを一緒に受けていた日本人女性に再度鉢合わせした。お互いに驚いたけれど、沈黙の日々は守られていたので4日くらい経つまで彼女と話すチャンスがなかった。

ランチの食器洗い場で顔を合わせたので小さな会話があったが、その時にその女性から「チェンマイで最初にあった時と全く違う穏やかな顔してますね」と言われた。実際に私の心境はすでに大きな変化を見せていた。何をそんなに落ち込んでいたのか、心の状態がもう思い出せないくらいだった。




タイの北部、もうミャンマーの国境が近い山奥にあるフォレスト修道院は、3年前に一度訪れて午前中の瞑想だけ経験したことがあったけれど、その場所の美しさを知っているという満足だけで、去年のチェンマイ滞在中はここまでやってくることはなかった。ゴエンカ氏のヴィッパサナー瞑想センターでの10日間のハードコアさを経験済みなので、ある程度の覚悟がないと足を踏み込めない。この修道院でも瞑想法はビッパサナーだけれど、歩いたり寝たりというスタイルも追加されているということで、全てが同じではないということは理解していた。最大10日参加できるそこに留まるのはやはり1週間が適当だろうという結論をだし、山から降りてきた際の回復期間も考えて庭に温泉がある宿を予約して十分な計画で出かけたが、実際はやっぱり10日間にすればよかったと思わされて名残惜しく修道院を後にした。

修道院の毎日は肩透かしをくらうくらいに緩かった。今までのそれは室内に一日中閉じこもり早朝から夜遅くまで座り続けたのに、ここは自然の風がそよぐオープンなホールで美しい光を感じながら僧侶の説法を聞き、歩き、座り、寝転び、読経し、僧侶にご飯を捧げるセレモニーをし、ダイニングは男女区切りもなく会話さえ普通に交わされていた。3年前にきた時は違うホールで多分に5、60人くらいの人々だったのに、今はさらに増築された大型ホールに150人近くの人々を収容していた。

予約もいらず、好きな時間に行って10日以内の好きな日数だけ滞在し、白い服も貸してもらえる。寄付ベースであり、貧乏なバックパッカーは一体いくら置いていくのか知らず、施設が美しく保たれているのは不思議な感じがした。後ほど子供がいない成功した金持ちのビジネスマンが「お金があっても幸せになれぬ」と悟り、ここの設備に彼の財産を寄付し、隠居して人々の世話をしていると知った。修行僧の中に英語が堪能な青年がいて外国人の為に通訳をしていたが、彼もドイツで成功している金持ちの両親が幸せでないことに疑問を抱き、ブッダのように出家していた。規模も形も違うけれど、その気持ちは理解できるところがあった。お金がないわけでもないけれど、今現在の私は質素な旅が普通にできる。金銭的な価値観は大きく変化し執着もない。物的財産はキャリーオンスーツケースに入るだけのモノと、大きなスーツケースひとつ分を日本の実家に置かせてもらっているだけ。家はない。家具もない。私も子供がいないので、家族に少しお金を渡したら、いつか残りはここに寄付しても良いのではないかとさえ思わされた。




説法を聞いても読んでも、私のエゴが邪魔をして聞き入れなかった『慈悲の心』というものを、今回ただこの施設を身を置き「観る」ということだけで理解したと思う。それを知った時には身体が痺れるような衝撃を得た。そして、それこそが宇宙のバイブレーションなのだということも理解した。厳しくすると人に優しくなれなくなる。8割方の人々はちゃんと行動を理解していたが、中には勘違い甚だしい若者もいる。それでも僧侶たちは優しい暖かい目で見守りそれを許す。そして、自分もそういう人々を目にして怒りを覚えない心を学ぶ。慈悲の心の高尚さを痛感させられ涙が出るくらいだった。

『mindful』という言葉を繰り返し聞かされる。今現在の自分の行動に集中して生きること。その中で私は忘れていた何かを思い出すような感じがした。ノマドライフの中でおろそかにしていたことがあったが、それを自身の価値観の変化ということで片付けていた。でも、それが真からのものではなく自身の言い訳にしていたことにも薄々気づい ていた。ただそれを認めたくない自分がいたのだと思う。




「雅さんに会いたい」という気持ちに気づき、私は腹の声を聴く。また日々の思いをアメーバのブログの方に落とし、彼女と繋がる必要性があるということを。修道院を出た後、 パーイで温泉に浸かり惰眠を貪りつつ、スクーター で田舎を流しながら、夜はアメーバ ブログの過去記事を読みあさっていた。忘れていた感覚が蘇ると同時に、彼女に羨望を覚えた。そこにはある種の予言さえも含まれていることに驚いた。

何故アメーバブログを切り捨てようとしていたのか今になってはよく思い出せないが、どこかで彼女の行動を自身の恥部だと思っていたのかもしれぬ。しかし、人々が話さぬ彼女のエロテロリストの記事には素晴らしいことが沢山散りばめられていることに今更ながら他人事のように 驚愕するのだ。あのブログアカウントを削除しなかった自身に本当に感謝しつつ、あのままの状態でブログを続行しようという気持ちを強く感じている。

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