12/31/2019

2019年の終わりに 1

確か去年の年末は前夫をサンフランシスコに訪れていたのだった、とクリスマスシーズンに思い出していた。膵臓癌を患って「あと半年の命」と告げてきた彼に最後のお別れを言いに行き、そのついでに多くのSFの友人と再会してきた。

末期の悲惨な状態の前夫を目にすることを覚悟して行ったのに、会ってみたら弱っちいけれど普通の状態の彼だったことに気抜けした。それよりも彼に寄り添っていた女性の存在に動揺する私がいた。

あれから一年。多分彼は生きている。誰からも死亡の連絡がなかったので9月に誕生日の祝いのメッセージを送ったら、あっけらかんとした返事が帰ってきた。なんと2回の抗がん剤と37回の放射線治療で癌が完治しているようだと言うのだ。彼の家族は元来話をドラマ地味て話す癖があったのだけれど、今回ももしかしたらそうだったのかしらといぶかしんだ。いずれにせよ、彼が生きているのだからそれに越したことはない。




今年の過去記事を読み直して思い出したくらいで、年頭のバリ、チェンマイで感じていた低迷期のことはすっかり忘れていた。一度思い出した時があったけれど、とても今年のこととは思えないくらいに記憶に遠くてびっくりした。

私にとっての今年のメインイベントは4月から4ヶ月に渡って旅した東ヨーロッパ。このようなインテンスな4ヶ月に渡る旅は中米、東南アジアに続く3度目の試みだったけれど、20以上の街をバスで移動していたからかなり身体に堪えた。最初のうちはそんなことができる自分自身に興奮していたから堪えていることにも気づかなかった。イスタンブールからポーランドまでバスで移動し、コーカサスのジョージアに飛んだら沈没してゆっくり体力の回復を待つつもりだったけれど、体調が優れないまま盆の帰省の帰国となった。日本の実家でだらだらしても首肩の痛みと疲労感は消えず、医者に行ったら「変形頸椎症」と診断された。

気持ちとしてはチェンマイに戻るつもりでいたのに、病気と診断されれば予定は変わる。去年同様数ヶ月首都圏のシェアハウスに留まって治療に専念するべきと判断した。それで新しいシェアハウスを探しているうちに、突然母が倒れた。

「とうとう終わりの始まりが来た」

長女姉も私もそう覚悟した。家にいる義兄は自分の母親の世話に遠い施設に通っているから、私たち姉妹で自分の母のことは面倒見てなるべく彼に負担をかけないようにしなくてはいけない。だから、いざとなれば私が同居して母の介護の手伝いをすることもあり得た。友人、知人がひとり、またひとりと仕事をやめてでも実家戻りをしているのを横目で見て、自分にもその時が来たのだろうと思っていた。

母の入院、家と病院の往復に合わせて慣れない家事のヘルプ、自身の頸椎症の痛み。この期間は人生の次のステージに踏み込んだことを実感した。そして「寄り添って暮らす相手」というものを生まれて初めて意識したのだと思う。

幸いにも母は2週間ほどの入院で無事回復し、私は手頃なシェアハウスを横浜という新しい土地に見つけ、東京の治療院に通うことになった。そして新たな「魔法の手をもつ男」のおかげで首の痛みは軽減し、近所のホットヨガに通い続けて以前の体力を取り戻した。




横浜という場所を私は全く知らない。小学校6年の修学旅行で山下公園に行ったことと、大野一雄舞踏研究所で舞踏ワークショップを取るのに近年何度か中華街に宿をとったことがあるくらいだ。シェアハウスのリサーチの末、年配の住居人がいる小規模の物件の選択が荻窪と横浜みなとみらいだった。信用する友人が「みなとみらいにするべき」と言ったことで即決した。内覧をすることなく部屋を借りた。

その横浜にいまだに魅せられている。みなとみらいの洒落た華やかな施設が全部自分の庭のようでありつつも、街歩きのツアーで下町の古い横浜の歴史が分かるたびに私はのめり込むものを感じていた。そして今年91歳になった母が初めて明かした事実。彼女が戦争時代に私が住む最寄りの駅桜木町で切符切りをしていたということ。その他にも、知らないはずの土地の昔の写真にとてつもなく懐かしいものを感じて涙するなど、不思議な縁のようなものを覚えている。

海外を転々としていて終の住処を探していたけれど、何処にもピンとくるものを感じなかった。強いて言えば、ヨガ的環境とmy peopleでチェンマイは住んでもいい土地だと結論が出かかっていた。そこに意外な展開で「横浜」という土地に引き寄せられた。そう、引き寄せられたのである。「流れ」でそうなった。




今、私は家族を優先する。寒い冬は嫌いだけれど、家族と過ごす年末年始を選択する。そして、できるなら少なくとも月に一度母と一緒の時間を過ごしたい。その希望を満たすのに、横浜の土地に住むのは便宜が良い。そして母の入院を目にして思った。将来私が年老いて入院し亡くなることがあっても、その場が日本の病院であったほうがいいな、と。歳をとればとるほど、疲労には祖国の味が必要なのは東欧の旅で嫌という程思い知った。いつだったかSFの60歳手前の知人が「老年で入院したら梅干しとおかゆを食べられる環境にいたいのよ」と35年だか住んだ土地を離れたということをありありと思い出した。ということは、私の住む日本というのは横浜ということになるのだろうか?

今自分がいる部屋の隣の公園の桜がそれは美しいと人々が言う。それを満喫したいのでこの部屋をしばらくキープすることにしたから、年明け2月のチェンマイは珍しく3週間という短期滞在にした。例年バリに加えて2ヶ月のチェンマイであるから、日本滞在の方を重視する新しい流れになった。春までいるなら、どうせなら夏まで延長してオリンピックに湧く日本を肌で体感したいと思うところだけれど、果たしてそうなるか。実際チェンマイに行ってみないと分からない。どう感じる自分がいるか、ちょっと楽しみでもある。








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