12/17/2014

過去への『執着』に気づく


暫くの間『身辺整理』と言葉に出しながらも実際なかなか手がつかなかった。最近再度モノを捨て始めながらも途中でその手は止まり放心してしまう。思ったほどモノを捨てるのは容易くはない。決してモノに溢れている家ではなかったけれど、収納の中には使われない「多分にいつか必用になるかもしれないから」という理由でしまい込んでいたモノがきっちりと詰まっていた。収納スペースがあることに甘えきっていた。

多分に夫の性格に合わせていたこともあるだろう。彼は父親の古いゴルフセットを最悪の保管状態でガレージに置いておく。決して私に捨てさせることもしないし、災害があったときの為の『溜め込み』も凄い。もちろん、決してそれを馬鹿にするべきでもない。迷ったら両方買い、トイレットペーパーも日常食品も常に必用以上買込み『溜め込む』それが彼のスタイルだけど、それらに私は決して手をつけない。今回の断捨離は、家を離れることによる『私に属するモノ』または『私が溜め込んだモノ』だけに関する処理でしかない。




読者の方の勧めでやましたひでこ女史のセミナーに興味を持ち、サイトを覗きメルマガ登録をしてみた。余計なお世話かもと思いながらも、自身を「片付けられない女」とこぼしている長女姉の分も登録した。メルマガ登録をしたものの、後で読もうと溜める一方でろくに読まないままゴミ箱行きになることが習慣化していた私なので、少なくとも彼女にそれを勧めた手前もあるから、13日間のメルマガセミナーを溜め込まずに目を通すことを自身に課した。それでどうにか思い尻を持ち上げ自身の背中を押している。そして、13回シリーズの5日目の動画「収納上手な人の大問題」を観て、「その空間に不安を収めている」という言葉に目から鱗のような気になった。物事角度を変えて視るとはこういうことであったのか!という驚きさえ得たくらいだった。

『断捨離をしている』と文字にしているほど、私はこの意味の真髄を知ってはいなかった。やっぱり本を読んで理解したつもりでいるのと、彼女自身の顔と音声で伝わって来るのとでは雲泥の差があると思う。私はビジュアル派なので何事もYouTubeなどで動画を観て理解する方がてっとり早いということには気づいていたけれど、それにしても今回はタイムリーに素晴らしい気づきを得られたと思う。




動画を観ての衝撃と気づき、そして行動したいうずうずした気持ちを抑えながらどうにか最後まで観た。動画が終了するやいなや即立ち上がり、とうとう『悩みの箱』を持ち上げる。今しなければまた思いとどまる時が来てしまいそうなのが嫌だった。私が中学時代から書き続けていた日記帳、毎日の行動をちまちま書き綴ったスケジュール帳、旅の間に書き続けたジャーナル、思いの全てを落としたノート。捨てられずにその箱に保管したまま引っ越しの際にも自身に憑いて回った。ずっしりと重いそれを持ち上げ、箱の中から出て来た通知表や役に立たないサティフィケートの全ても中身を見ずにして大きなリサイクルビンの中に放り込んだ。そこに感じたのは『決別』だった。

映画だったらきっと、目の前に燃え盛る炎があって、そこに主人公がそれらの全てを放り込んでめらめらと燃えるそれを眺めているような心境なのだろうな、とそんなビジョンを思い浮かべてちょっと自嘲した。それくらいの『自分の過去』に対する決別感を得ていたのだった。

私はそこまでにして何に執着していたのだろう、と思う。それを捨てられないという行動の裏にあるものは何だったのだろう。

ダンボール箱の大きさと重さはそのまま私の心の負荷になっていた、と気づかされた思いだった。写真は多くの『感動』を笑顔と共に収めているけれど、大概にこれらのノートにはどろどろとした想いが綴られているのは承知のこと。そのドラマを私は捨てきれずにいたのだった。たとえ幸せな道ではなくとも、私にとってはそれが『一生懸命生きた証し』だったのかもしれない。ナルシストがやりそうなことだ。

それらをとっておいていつか読む日が来るのではないかという気持ちはあった。自身が60、70歳の暇なある日に、そんな可愛い幼い心の自身を懐かしがって読みふけるだろうというのか。今までにも決してそんなことをしようとさえしなかったのに。今後の人生のほんの数時間、そんな時が確かにあるとは思う。でも、私の魂がそのまま記録を持っているのだから、そんな瞬間は人生の体験の何かでフラッシュバックして得ることだろう。それなのに、そのメランコリックな瞬間の為に、私はこれらを保存しようとしていたのだろうかと思うと、今更のように呆れる思いさえする。

時々思う。過去の自分と今現在の自分はまるで赤の他人のようでもある、と。もちろん『オリジナル』な自分はあるけれど、過去の記憶は曖昧なもので、今現在の波動が変われば過去の思いも変わる。自身が変われば、過去のどろどろとした思いはナンセンスでしかない。そして、たとえそんな時代を懐かしむ瞬間はあっても、どんなに老いてはいても私は『今』を生きている人でありたい。そう思うと今まであった『執着』が見事に消え失せたようだった。




段階を経て、でも確実に私の『身辺整理』は加速し始める。多分に私の人生上の『意識のtipping point』が起こっているのではないかと、この段ボール箱を捨てた瞬間に予感した。

バブル時代を生き、多感な若い時にそのバブルの恩恵を受けられなかった。でも貧乏だと思っていたそれも他人との『比較』でしかない。今思えばそれでも充分に恵まれていた状態でもあるに関わらず『狂乱の時代』の『羨望』を引きずり『夢であった生活』を執念で現実化させた。でも、それをずっと欲っしている訳ではない。なかったから欲しかっただけの話だ。手に入れた途端に色あせるものがある。

モノや過去に縛られることが全て悪い訳ではない。

歴代の家柄や慣習、民族文化を守る為に、保存されるべき物は多々ある。その光栄なる立場にいる方は、どうぞ心して守って頂きたい。でも、私のような一般人の個人の心のガラクタに大した価値はない。年に一度着るか着ないかという普通の服、使われない食器、人から貰ったプレゼント、それを手放せる立場にいるのだから、そうするべきなのだろう。そう絞り込んでみれば『現在の自分』に属するものなんてほんの少しものモノしかない、ということにも気づかされる。必用ならその都度買い足せば良い。お金がない訳ではないのだから。




『ミニマリスト』という言葉が気になり始めたので調べてみると、どうやら『自分で運べる持ち物だけを所有する人』となり、自分で持ち運べない量の持ち物がある人で、一般家庭や断捨離実行中の人より荷物が少ない人の生活を『シンプルライフ』と呼ぶらしい。

そう書いて「じゃぁ、ホームレスってミニマリストだよなぁ」と思ったけれど、そこにお金があって人としての生活を維持するのに支障がない人をそう呼ぶのだろう、とまたひとりで笑った。

考えてみると普段着る服、使う食器は限られている。それなのに『来ないかもしれない機会』の為にどれだけ準備していたことか。もちろん『引き寄せの法則』で、それを所有することによって『夢である機会を引き寄せる』ということも実証してきた。でも、そこから成長した自分には、いざという機会には必用なものをさくっとゲットできる自信もある。これから自分は何処まで自分に不要なモノに気づいていけるだろう。





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