6/04/2014

ホ・オポノポノの奇跡


3月も終るアメリカに戻る日が近づきある頃、私の心に陰がさした。せっかく実家で愛情に満たされ元気になったのに、再度アメリカの生活で病気になってしまったらどうしよう。胃炎で食が細くなり激痩せした当時のことを思い出すと夫の元に戻るのか不安だった。とにかく思い煩う神経をどうにかしなくてはいけないし、胃を守らなくてはいけない。母も「腹を横にしなさい(腹を立てるな)」と別れの言葉でそう言って私を笑わせたくらいだ。

そんな頃に突然直感の言葉が降って来た。

「ホ・オポノポノを学べよ」

『ホ・オポノポノ』確かハワイの幸せを呼ぶおまじないの言葉だった。『ありがとう、ごめんなさい、許して下さい、愛しています』と唱えると、全ては上手くいくという。引き寄せ関係のブログあたりでそんな大まかな知識だけは得ていたけれど、知ってるつもりのホ・オポノポノであって、実際の書籍を手にしたことはなかった。




江口勝先生の『水は答えを知っている』で『愛・感謝』が素晴らしい波動を持っているとは証明されているけれど、『ごめんなさい、許して下さい』がとくにどうのと言うことを聞いたことはない。とあるブログの記事の最後にこの四つの言葉を毎回添えていた人がいたけれど、最初はホ・オポノポノだと知らなくて妙な違和感を感じたことを覚えている。

私はやたら謝ることが好きではない。先日私の誕生日だと知った友人がそれを忘れていることに対してバツが悪かったのか「誕生日だったんだ、ごめんね」と言ったけれど、「そうなんだ?おめでとう!」と言えば良いだけなのにと思ったし、何かを私にしてもらったときもやっぱり「ありがとう」と言えばいいだけのところに「ごめんね」と言った。本人にとっては多分に癖にすぎないのだけれど、まるで罪悪感を抱えて生きているようで、私自身がちょっと居心地の悪い思いをする。

日本語の『すみません』がいろんな場面で使える便利な言葉であるとは承知でも、他人のアテンションを得たいのだったら「お願いします」と声をかければいいし、他人に何かしてもらったら「ありがとうございます」と言う。いわば、意識してその言葉を使わない自分を認識する。卑屈になりたくないという潜在意識が働いているのだと思う。

そんな訳で、ホ・オポノポノをちょっと知っているようでも、今までそれに気を向けなかったのは、そんな理由からなのだったのかな、と今更のように思い出した。




そういう突然降って来た言葉をキャッチした私は、直ぐにアマゾンで書籍をリサーチし、評価を読んで検討したうえで、イハレアカラ・ヒューレン博士の『みんなが幸せになるホ・オポノポノ』と彼の一番弟子であるマベル・カッツの『さとりのホ・オポノポノ』を購入した。ヒューレン博士の本でピンとこなかった人がカッツ女史の本で腑に落ちたようなことを書いていた。実際、カッツ女史の本はあっという間に読めたし、文字もブルーでなんとなくさらっとしているけれど、全ての章に書かれていることがみな同じだったような印象が残った。そして、次にヒューレン博士の本を読んで、しっかりと把握できたように思える。

それから夫のことを考えて不安になったときには、直ぐに『ありがとう、ごめんなさい、許して下さい、愛しています』と心の中で唱えた。最初はちょっと違和感があったけれど、感情が言葉に伴わなくても良いのだとあったのですぐに慣れた。そして『執着を手放すこと』もこの本を読んで決定的になったと思う。アメリカの家への執着を手放し、離婚の意思は変わらないと意識したのもこの頃だった。

アメリカに戻ってから3日間は時差ぼけでベッドの中だったけれど、目が覚めたおりにはこの本を開いて読んでいた。すぐにダンカンダンスのイベントがあったりして忙しくなり、家で夫とまともに顔を会わすこともないまま実際にホ・オポノポノの効果を実感し始めたのは、ダンカンダンスのスタジオに通うクルマの中だったと思う。

この四つの言葉を対象に唱えることをホ・オポノポノでは『クリーニング』と呼ぶ。その対象は人間でも物でも空間でも構わない。ハワイでは日本のそれと同様に全ての物に神が宿ると信じられているそんなところは意外ととっつきやすい。素直にクルマの中でスタジオや師匠の名や生徒のひとりひとりの顔を思い出してクリーニングをした。数年前まではそれほどでもなかったけれど、今現在スタジオの目の前に大きなレジデンスビルが構築され工事中であることから、路上のパーキングスポットを得るのが、『パーキングクィーン』を自称する私にでさえ困難になってきていた。最悪のときには2ブロック先の有料駐車場に停めることになるが、レートは高く駐車場代も馬鹿にならない。いつもスタジオに近づくときには祈るような気持ちになる。

そしてその日、クリーニングを念入りにして辿り着いたとき、なんとスタジオのドアの真ん前のスポットが空いていたので、そこに滑り込むやいなやクルマの中で大笑いしてしまった私だった。このスポットがとれたことなんて、過去10年に2度くらいしかないラッキーさなのだから。他のダンサー達も私の登場を今までになく歓迎してくれて、あまり個人的な会話を交すことのなかった非日本人生徒もいつになく饒舌に話しかけて来た。それで、もしかしたらホ・オポノポノは意外に効果があるのかもしれないと思い始めたのだった。

疲れているのにショーのリハの段取りが悪く、心の中でつい毒づいてしまいそうになるときにも、ひたすらクリーニングした。そうすることによって、心が穏やかになるのを認識した。私のクルマのエンジンの警告ランプがついてしまったときにも、オートショップに出かけている暇はないのでひたすらクリーニングした。汚れたままにしていることを詫び、洗車をして謝ったら、ランプが消えてくれたのクルマに話しかけながらそのまま乗り続けている。




帰国して一週間が経ち、やっと初めて夫と腰を据えて話をする機会を得た。そしてそのときに、彼が今後私が彼から受け取る生活費のことを告げて来た。

「お前に生活費を払う為に働き続ける気はない。離婚するなら俺はリタイアする」

そう冷たく言い切った夫が、仕事は続けているにも関わらず受け取り始めた年金の半分をずっと今後も私に生活費としてくれると言うのだ。国民年金と会社の年金を合わせれば結構な額になる。私はその額を見て、急に身体中の力が緩んだ気がした。これで『生活する為にしかたなく働く』ということはなくなったことになる。日本に居たときは、自分が年金を受け取る年齢に達するまでは、何か仕事をみつけなければならないだろう、と諦めていた。長年好きなことだけをしてきた自身にとってはかなり不安なことであるけれど、最悪日本に帰って来て家族の近くに住んでいれば見栄をはらずにどんな地味な仕事でもやれる、とそんな覚悟を決めたばかりだった。わっと涙が出て、思わず「Oh, my god, Thank you! Thank you!」と呟き続けていた。

「なんだよ、そんなに心配していたのか」

夫が呆れたように言ったけれど、帰国前の状況では今後の生活費を獲得するためには弁護士を雇って争わなくてはいけないくらいの状態だったのだ。そんなことを思うと気が滅入る一方だった。

「ま、そう贅沢はできないだろうが、無理に働かなくても大丈夫だろう。今までの通り、ボランティアでもして生きて行けばいい」

この2ヶ月の別居の間に、一体夫の心境にどんな変化があったのか。これもホ・オポノポノのおかげかもしれない、と勝手にそう決めつけた私だった。そしてこれ以降、でかける度に会う人や場所にクリーニングをし続けている。

4 件のコメント:

  1. ◆アベユウ◆2014年6月4日 16:30

    ご無沙汰しております。アメブロの時、たまにコメントさせていただいていたアベユウです(*^^*)

    オポノポノ、私も数年前はしていました。
    最初は、ごめんなさい・許して下さい、の部分が
    腑に落ちませんでしたが、本を読みながらなんとなく納得した状態で、唱えていました。

    私もまた始めてみようかなと思っていたら、いろんな所でシンクロが多く…

    こちらの記事をきっかけに、また再開しようと思います☆ありがとうございます☆(*'▽'*)

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    1. アベユウさん、お久しぶりです!

      たとえ感情が伴っていなくても、対象に向けてこの言葉をつぶやくと、ひとつひとつの言葉に対して伴う事柄に気づかされるということが起こりました。たとえ『ごめんなさい』という気持ちがなかったとしても、その言葉に従ってそう思えるような事象が『思い出される』のです。いわば自然な反省にも繋がるんですよね。ここで自身のエゴが大きく横にのけられるような気さえします。  

      知ってるつもりでしたが実践はしませんでしたから、ここで気づかされてよかったな、と思います。効果は、やっぱりあると思うんですよね〜。(*^^*) 

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  2. こんにちは。私もホ・オポノポノは苦しかった時にすがるような気持ちで唱えていたことがあります。そのせいか、今はとっても気分良く過ごせているのですけれど、そうなるとホ・オポノポノの事をすっかり忘れていた自分に気づきました。雅さんの記事を読んで、久しぶりに唱えてみたいなと思いました。ありがとうございます。

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    1. ホ・オポノポノを唱えるのを忘れてしまったくらい、事象が改善したのですね。
      p(^-^)q

      私もいつまで続くのやらという感じもありますけれど、やってみて実感があるので習慣にしたいツールだなと思わされました。

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