1/16/2015

ヨガ道、最初の辛さ


ベイエリアの自宅で変化のない毎日を送っていると一週間なんてあっという間なのに、ここオアフに来てからの日々はゆっくりと過ぎている。やっと一月も半ばに辿り着いたかという感じだ。

今までの長旅の経過では、お決まりのように8日目に疲労感が募ってクラッシュする。NYでもブエノスアイレスでも、その頃になると首や肩がばんばんに張って眼がくぼむようなげっそりとした顔つきになっていた。今回のオアフでも同様、9日目の朝に起きることができなかったし、部屋の外のノイズに再度酷く苛立たされた。そしてその極限の疲労感は3日程続いた。この山を越えたら普通に戻るのかといぶかしんだけれど、とにかく私の旅は永遠と続くのだからしてタフにならざるを得ないだろう。

そんな時、ふと時間が空いたのでカハラシアターで映画を見てみた。『Wild』がなんだかとても気になったから。主人公の気持ちがどことなく遠い自分と重なった。







3時間半のヨガクラスが週に5日。これ以上荷物を増やしたくないのにとうんざりさせられるほどに重たい本が4冊。宿題のリーディングの量は結構なプレッシャーだ。何気にサインアップしてしまったヨガティーチャーズコースは甘くなかった。

「私週に5日もヨガのクラス取るなんて人生初めてよ」

そう隣に座る生徒にこぼしてみれば、彼女も同様だと眼を丸くする。それほどの熟練者でなくても認められるコースに集まっているのは、年齢も様々だけれど結構綺麗な白人女性が多い。




ヨガのクラスは身体がなまっていたり腰が痛くなった時にたまに取る程度だったから、特にその背景を気にしたことがないし、オームを唱えることはあってもサンスクリットのチャンティングをする先生に当たるというのは過去に一度あったくらいだった。だから講義が始まった途端に、サンスクリットのヨガのポーズの名前や、ヨガの歴史、アユールベーダの知識の膨大な量に頭が真っ白になるような思いがした。ヨガというものは、あのポーズを取るエクササイズそのものだと思っていたのに、それはヨガのほんの一部であり、「インドではヨガを実践してもポーズをとることをまったくしない人も多い」と聞くと「はぁ?」と思わされるくらい、それほど私のヨガ知識は皆無だった。

そういえば自分はインドはリシケシでヨガアシュラムのゲストハウスに泊まり、真っ暗な早朝から瞑想やヨガをしたことがあったのだと今更のように気づいた。でも、それはあくまでも『インドで経験をする』程度の甘っちょろいもので、3日ほどで飽きて午後の瞑想にも出ずに買い物三昧していた。

ヨガの先生になるのを目指すという目的ではなく、老いて行く身体を健康に保つ為にと始めた最初の一歩なので、気負わずに『とりあえずそこに居る』という感じでいくことを自分に課している。覗いてみれば、ヨガの世界は余りにも広くて深い。まるで広く大きな湖の岸で、ちょろっと足を水につけているようなものだろう。200時間のティーチャーズコースなんて、多分に膝下くらいまで水に浸かる程度のものなのだと思う。そこから先、どっちの方向に泳いでいくと覚悟する生徒がどれだけいるかも計り知れない。




アサナ(ヨガのポーズ)の細かい指導を受けられる時は良いのだけれど、それに続く床の上での講義が辛い。どう座ろうが腰が痛くなってしまい座骨神経痛がうずく。それでも『ヨガスートラ』の講義の中で、時々心のベルが鳴ることがある。自分が惹かれるものを感じでランダムに重ねて来た『経験』がヨガスートラの中に垣間見れると、やっぱりこのタイミングで今ヨガを学ぶときなのかなとシンクロを感じずにはいられない。3ヶ月の間に繰り返し先生が種を私たちの脳に埋め込んでいくだろう。そこから芽が出て育つものがあれば、それに越したことはない。

とりあえず、この温かな気候の中で日の出と共に目覚め身体をストレッチできる機会に恵まれている、それだけでもありがたいこと。クルマの騒音には辟易しているけれど、自分もバスを使わずクルマを運転しているのだから文句はいえない。そして、やっぱりここの自然の美しさとエネルギーには感動する。先日行ったマカプウのエナジーはそれは凄かったもの。


マカプウにあるヘイアウ





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