7/30/2014

愛のエネルギーの展開


弁護士との打ち合わせにオフィスに15分程早く着き、待合室で待っていたら前のアポのカップルの言い争いが外まで聞こえて来た。言い争いというより、奥さんが一方的にヒステリックに声を荒げているという感じ。弁護士が穏やかにそれを治め、時間きっかりにカップルがドアからでてきたけれど、二人ともTシャツ姿に短パンというとてもラフな姿なのが意外に思えた。高級住宅街の美しいオフィスだし映画の弁護士との話し合いのシーンでクライアントがきちんとしているのを見ているので、それなりの格好をしていっている私だけれど、やっぱりカリフォルニアなんだな、と思わされた。

生活費についての2度目の話し合いは驚く程スムースに事が運び、弁護士のその日最後のクライアントだし2時間を少し延長してでも先を続けて区切りをつけようということで、金銭的な合意のケリがついた。離婚の話がでたときには「遺産を半分にするだけで充分だから生活費を払うつもりがない」と言った夫が弁護士の提案による数字に割と素直に従っていた。

私たちは本当に安心して穏やかな気持ちでこの弁護士に委ねている。まるで青年がそのまま大人になっているような、信じられないくらいにスマートで温かな人を目の前にして、こんな人がいるんだな、と感心した。それには夫も同様な気持ちを得ているようで、彼の中にあった『弁護士』のイメージをくつがえしたらしい。

「悔しいから、ちょっとだけ抵抗してみるかな」

そう笑いながら数字を少し変えた夫だけれど、私は与えられる額が充分過ぎる程だと知っているのでそれに笑い返しただけだった。

「なに、最近のお前は随分良くしてくれているしな…」

夫がそう声にならないかのような小さな声で呟いたのを聞き逃さなかった。




そういえば夫に対して『意地悪な気持ち』というものを最近全く持っていない自身に気づいた。感情に任せて不必要な出費を避けたいという気持ちが強かったし、直ぐに出て行かずに同じ屋根の下に住むのなら気持ち良く生活をしたい。下手に感情をこじらせてお金の話になったときに不必要に揉めるのも嫌というのもお互いの中にあるのだと思う。だから、未来を受け入れお互いを尊重し合えるレベルに落ちついたときには、もうネガティヴな感情もそう浮き上がることもないのだった。

「はい、これでストレスフルな時間から解放されますよ。お疲れさま」

会計を済ませてそう弁護士が言ったが、「とんでもありません。とても気持ちのよい時間を過ごせて感謝しています」と笑顔で応えることができた。これで精神的な『離婚の峠』は越したようなものだ。

『ものは取りよう』と言うけれど、離婚の問題を前にして財産管理に向き合う機会ができたことはもしかしたら良いことだったのかもしれない。夫も私もそこにそれがあることは承知でも、細かいことまで管理していなかったし、私にしてみれば『知らないことだらけ』で、実際に夫に何かあったときの処理のことを思ったらぞっとするような思いを抱えているにも関わらず、ずっと現実逃避をしていた。夫もいずれはリタイアする日があるだろうに、そういう生活の『想定』さえもまったくしていなかった。だから、今ここでいろいろな書類と数字に向き合うということは、結果的には見えないものをクリアにして『知っている』安心感を得られたということにもなる。

「こんなことがあっていいのだろうか…?」

夫と別れて帰路につくクルマの中で不思議な感覚に襲われた。自分が持っていた離婚のイメージと遥かに違った過程を経験しながら、愛が回っていることに気づいた。英語の表現で言うと『it just feels "right"』ーーースピチリュアル的に言えば『愛のエネルギーによる展開』というのは、こういうものをいうのかもしれない。




サンフランシスコ市内に出て信号待ちでストップしたときにホームレスがいたら、財布にある1ドル札数枚を手渡すことは今は普通にしていること。そのときに声をかけることも忘れない。それで「あ、これでパーキングが簡単に見つかるな♪」と嬉しい気持ちになる。

『pay forward』ーーーそういう機会に出逢うことは、目の前に神社があったようなものだ。これはマザーテレサの言葉だったのかしら、『彼らは神様が変装した姿』かもしれないのだから。

ある人々は言う。「彼らにお金をあげても、結局は酒やドラックに費やすのだから、あげるだけ無駄」「募金だってどこに行くのか解らないし、胡散臭い」

確かにそれには一理あるけれど、でも何千、何万円という募金をするならともかく、ほんの小銭を差し出す事は、その『結果』に意味があるのではなく、その『行為』そのものに意味があるのだと思う。そういう心の中に湧いた『愛』は自分で感じるものであり、それは自分の中にある愛を感じる『機会』そのものでしかない。だから、お金を差し出したその行為と気持ちが発生したらそこで完了するあとは宇宙がそのエネルギーを『回す』ことに委ねるだけだ。

お金を無心する人を見て、どう感じるか。その瞬間にも『宇宙の法則』は働いているだろう。

もちろん「後で良い事があるようにそうする」というのも『小賢しい考え』のひとつでもあるのだけれど、始まりはそれでいいと思う。それを習慣にしていくことで世界が変わって行くのを実感できたら、それこそ素晴らしいこと。それは他の誰に強制したり、または偉そうにシェアするものでもなく、その個人にしか実感できないものかもしれないけれど。




Facebookを止めてから暫くなるけれど、それだからこそ友人との個人的なテキストでの会話は増えた。ブログを読まない友人にもメールで近況を報告している。その度に正直な自分の気持ちが文字として目の前に現れる。多分に愛を与えているからだろうけれど、沢山の愛が返ってくる。

『雅ちゃんがいろいろと考えていることが、温かさを持って実現しますように。
雅ちゃん、これからもいっぱいいっぱ〜い素敵な夢を持ってね』

そんな手書きの『手紙』が届いたりする。

私も雅姐が新しい人生でいっぱい幸せになるのを願ってるから!いっぱい愛してるよ』

と、やんちゃな友人からメールが届く。

その昔永遠とどろどろとしたエネルギーを垂れ流しにしていたような長女姉が、私のなりゆきに安心しつつ、最近の疾患をきっかけにして家族の優しさをひしひしと感じていると、これまた愛に満ちたメールを頻繁に送ってくるのには、本当に温かいものを感じる。

思えば私の世界が変化したのも、実家に戻って家族の愛に包まれて生活したところから始まったのだった。日本の家族が愛に満ちた生活をしていると知るのが、実は私にとって一番のパワーになるのかもしれない。




2 件のコメント:

  1. 雅さん、こんにちは!
    私の住んでいる近所には大きな厄除けのお寺があって、仕事に行く前や朝夜の犬の散歩の時に必ずお参りするのが習慣になっているのですが、初めはそれはそれは力の入りすぎた願い事ばかりしていて(笑)
    無宗教の私は基本助けてくれるなら何の神様でもいいし!!!ぐらいの気持ちだったんですが、お参りが習慣になってくると、長ったらしい願い事を唱えるのもめんどくさくて(^-^;無心で手を併せるだけの日が増えた頃から究極の願いは実家の両親が何も不安なく毎日を過ごしてくれたら、それが私の幸せなんだよなぁ。。。なんて思えるようになりました。
    東日本大震災の時から、コンビニやスーパーで小銭のお釣りがでた時などに今も必ず募金することだけは続けているのですが、友達なんかには偽善じゃん!なんて言われた事も多々あるのですが、私の中では偽善上等!って感じでやらない善よりやる偽善でいたいし、心のどこかに、私今募金したよ!偉いでしょ?という気持ちが少なからずあるのは間違いありません(^-^;

    でも、不思議と必ずそのあとって、物凄い穏やかになるし本気で何かに私自身が困った時に必ずといっていい程助けて貰える気がするんです。
    だから私はこれからも自分の為に!!
    出来ることを出来るときに、出来る範囲でやり続けます!!

    雅さんがいつも穏やかな空気の中で過ごせますように!!

    あねり

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    1. あねりさん、

      近くに厄よけのお寺があるなんて素敵ですね!
      私はそんな場所がないので、レイキのボランティアがお寺のようなものかもしれません。

      >不思議と必ずそのあとって、物凄い穏やかになるし本気で何かに私自身が困った時に必ずといっていい程助けて貰える気がするんです

      って、本当、そのとおりですよね。
      人の為じゃなく、自分の為にやってる。自己満足の域かもしれませんが、他人の役に立って自分も気持ち良くなればwin x winシチュエーションで最高なのですよね♪

      あねりさんに嬉しいサプライが沢山起こりますように!!

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